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第二章 供物としての身代金


午前七時三分。

三十七階の大会議室から、音が消えた。

大型モニターには、攻撃者から送られてきた写真が映っている。

椎名社長が腕を組んでいる姿。黒川CFOが資料から目を逸らした瞬間。遠野CISOが隔離端末を操作する背中。佐伯が震える手で議事録を打つ横顔。そして真柴怜子が、Project Orpheusの表紙を見つめている姿。

それは盗撮写真ではなかった。

もっと悪い。

社内の正規カメラが撮った映像から切り出された画像だった。

撮影角度は、会議室の天井隅に設置された監視カメラそのものだった。防犯上の理由で、役員フロアには常時録画型のカメラがある。来訪者対応、盗難防止、災害時の確認。その説明で導入されたものだ。

誰も、それを疑わなかった。

だが今、そのカメラは会社を守る目ではなく、会社を覗く目になっていた。

遠野が言った。

「ビル管理系統も見られています」

声は静かだったが、会議室の全員がその意味を理解するまでに数秒かかった。

ビル管理系統。

それは、情報システム部門が普段守っている業務ネットワークとは別の世界だった。監視カメラ、入退館、空調、エレベーター、会議室予約、来訪者管理。

会社の人間は、そこを「設備」と呼ぶ。攻撃者は、そこを「入口」と呼ぶ。

「つまり、この会議も見られていたのか」

椎名が低く言った。

「少なくとも、カメラ映像の一部を取得されています」

「音声は?」

遠野は即答しなかった。

「確認中です」

その言葉が、今ほど恐ろしく聞こえたことはない。

黒川が椅子から立ち上がった。

「会議室を替えろ。今すぐだ」

「替えます」

遠野は答えた。

「ただし、どの部屋が安全かは確認が必要です。役員フロアの会議室はすべて同じ管理系統に接続されています」

「ではどこで話す」

「一時的には、窓のない倉庫か、通信機器のない部屋です」

飯倉広報部長が乾いた笑いを漏らした。

「上場企業の危機対策本部が倉庫ですか」

「安全な会議室より、安全でない大会議室のほうが見栄えはいいでしょうね」

遠野は、皮肉ではなく事実として言った。

怜子は立ち上がった。

「移動します。端末は必要最小限。スマートフォンは持ち込まない。会議記録は佐伯さんの専用端末一台に限定。遠野さん、隔離済みで使えるものを」

「用意します」

「この部屋は?」

「封鎖します。監視カメラの電源は切りません」

黒川が振り向いた。

「なぜだ。切れ」

遠野は首を横に振った。

「切れば、相手にこちらが気づいたことを確実に知らせます。もう知っている可能性は高いですが、こちらから追加情報を与える必要はありません。まず通信経路を追います」

怜子は、遠野の言葉にうなずいた。

「封鎖時刻、退室者、持ち出し物を記録して」

山崎行政書士事務所の山崎が、スピーカー越しに言った。

『記録上は、“盗撮”と断定せず、“社内監視カメラ映像とみられる画像を攻撃者が送付”としてください。断定語は、根拠がそろってからです』

怜子は、佐伯に目配せした。

佐伯は青い顔で入力する。

午前七時三分。攻撃者より、社内監視カメラ映像とみられる画像ファイルを受信。会議内容が外部から把握されている可能性を認識。大会議室を封鎖し、対策本部を移動する方針を決定。

山崎の声が続いた。

『もう一つ。移動先で最初に決めるべきことがあります』

「何でしょう」

『身代金対応の検討体制です』

その言葉で、黒川が勢いよく顔を上げた。

「まだ要求額も来ていない」

『だから今です。要求額が来てから考えると、金額と期限に引きずられます』

山崎の声は、いつも通り平静だった。

『支払うか、支払わないかを、感情で決めてはいけません。支払えば終わるという前提も、支払わなければ正義という前提も危険です。誰が検討し、何を確認し、どの専門家に照会し、どの記録を残すか。先に枠を作ってください』

椎名が、初めて山崎に直接問いかけた。

「山崎さん、あなたなら払うべきだと思いますか」

山崎は少し間を置いた。

『私は、その判断をする立場ではありません』

「では、なぜ身代金の話をする」

『判断できる状態を作るためです』

椎名は黙った。

『有事の文書整理では、結論より先に判断材料をそろえます。攻撃者の属性、制裁・反社リスク、保険契約、事業継続、復旧可能性、流出データの性質、本人被害、警察相談、弁護士意見、取締役会判断。これらがないまま金額だけを見ると、会社は供物を差し出すことになります』

「供物?」

『はい。祈るように支払うお金です。祈りは、法務判断ではありません』

その言葉は、会議室の全員に届いた。

供物。

まさにそうだった。

攻撃者は、まだ金額すら提示していない。それでも黒川は、払えば止まるのかと聞いた。飯倉は、公表しなくて済むのかと考えた。椎名は、会社を守れるのかと沈黙した。怜子自身も、心のどこかで、これ以上広がらない方法を探していた。

人は危機の中で、合理ではなく儀式にすがる。

身代金は、その儀式の名だった。

午前七時十六分。

対策本部は、三十七階の大会議室から、二十八階の文書保管室へ移された。

そこは、本来なら契約書原本や株主総会関連書類を一時保管するための部屋だった。窓はない。常設カメラもない。通信環境も弱い。古いキャビネットと、折りたたみ式の長机が置かれているだけだ。

黒川は部屋に入るなり、顔をしかめた。

「ここで取締役会をやるのか」

「必要なら」

怜子は言った。

「見栄えより安全を優先します」

「社外取締役にどう説明する」

「事実を説明します」

黒川は何か言いかけたが、椎名が先に口を開いた。

「この部屋でいい」

その一言で、場は決まった。

遠野は、臨時の通信機器を設置しながら、部下に短く指示を出している。飯倉は、広報チームへの社内連絡文を練り直している。野々村IR責任者は、取引所と証券代行への連絡線を確認している。瀬尾は、個人情報保護委員会への報告要否を整理するため、対象データの種類を一覧にし始めていた。

怜子は、折りたたみ机の端に座り、身代金対応検討メモを作成した。

タイトルを入力する。

攻撃者要求への対応に関する初期検討事項

すると、山崎が電話越しに言った。

『真柴さん、その資料は弁護士と共有する前提で、法的助言の依頼資料として位置づけてください。表題も少し変えたほうがよいです』

「どう変えますか」

『“外部専門家への相談準備メモ”としてください。断定的な評価は避け、確認事項を中心に』

怜子は修正した。

外部専門家への相談準備メモ攻撃者要求対応・被害拡大防止・行政対応に関する確認事項

「山崎さんは、こういうところが細かいですね」

佐伯が思わず言った。

山崎は軽く笑った。

『細かいところで会社は転びます。山崎行政書士事務所は、立派な理念を書くより、転ぶ段差をなくす仕事のほうが多いです』

怜子は、その言葉を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。

PRというものは、本来こういう形でよいのだと思った。

派手な宣伝文句ではなく、危機の現場で「あの人に頼んでおいてよかった」と思い出されること。それが一番強い。

午前七時二十八分。

攻撃者から三通目のメールが届いた。

件名は短かった。

OFFER

遠野が隔離環境で開く。

本文は、英語と日本語が混ざっていた。

You have 18 hours.5,000,000 USD in Monero.Pay, and we delete.Refuse, and we publish:medical records, care records, insurance profiles, Project Orpheus documents, board camera footage. あなたたちは契約を信じている。私たちは証拠を持っている。

添付ファイルは二つ。

一つは、顧客データのサンプル。もう一つは、Project Orpheusの一部資料だった。

五百万ドル。

黒川は反射的に言った。

「払える額だ」

誰も、すぐには反応しなかった。

払える額。

その表現が、あまりにも黒川らしかったからだ。

椎名がゆっくりと黒川を見た。

「払えるかどうかの問題ではない」

「社長、現実を見てください。五百万ドルで公開が止まるなら、安い。株価、訴訟、信用毀損、自治体契約の停止、全部を考えれば、比較にならない」

飯倉が小さく言った。

「でも、払っても公開されるかもしれません」

「その可能性はある。だが払わなければ確実に公開される」

遠野が口を開いた。

「確実とは言えません。攻撃者の目的が金銭だけとは限らない。Project Orpheusを持ち出している以上、当社内部の混乱や特定人物への圧力も目的に含まれている可能性があります」

黒川は苛立った。

「可能性、可能性、可能性。君たちは可能性ばかりだ。経営は決断だ」

怜子は静かに言った。

「決断には、記録が必要です」

「また記録か」

「はい。また記録です」

怜子は黒川から目を逸らさなかった。

「五百万ドルを支払うという判断は、単なる経費処理ではありません。誰が、どの情報に基づき、何を確認し、どのリスクを受け入れたのか。後で必ず問われます」

「問われる前に会社が潰れる」

「問われない会社はありません」

黒川は黙った。

山崎が電話越しに言った。

『まず、検討項目を分けましょう。支払可否、交渉可否、警察相談、制裁・反社確認、保険通知、復旧可能性、流出影響、開示・通知義務。この八つを並行で確認してください』

怜子はメモに打ち込んだ。

瀬尾が顔を上げた。

「本人通知の文案は、もう作り始めたほうがいいですね」

「はい」

怜子は答えた。

「ただし、現時点で送るとは決めません。必要事項を整理するだけです」

飯倉が言った。

「公表文も三パターン作ります。確認中、漏えいのおそれ、漏えい確認」

野々村が続けた。

「IRは、重要性判断の資料を作ります。業績影響、事業停止可能性、契約解除リスク、信用リスク」

遠野が言った。

「復旧可能性は、まだ低いです。バックアップは確認中。ただし、バックアップ管理画面にも不審アクセスがあります」

「バックアップまで?」

椎名の声がわずかに沈んだ。

「はい。完全性は未確認です」

黒川が小さく舌打ちした。

「何のためのバックアップだ」

遠野は、疲れた目で黒川を見た。

「復旧するためです。安心するためではありません」

その言葉が、部屋に落ちた。

怜子は、ふと前章から続く言葉を思い出した。

契約は結界ではない。バックアップは御守りではない。AIは神託ではない。身代金は供物ではない。

では、会社を守るものは何か。

怜子は、まだ答えを持っていなかった。

午前七時四十六分。

顧問弁護士の須堂がオンラインで入った。

須堂法律事務所の代表弁護士で、企業不祥事と危機対応に強い。髪は乱れていたが、目は完全に覚めていた。

「状況は読みました」

須堂は挨拶を省いた。

「まず、以後の調査体制を弁護士主導の外部調査支援として組み直しましょう。フォレンジック会社にも直ちに入ってもらう。山崎さんは行政対応文書と社内規程・台帳整理を支援。役割分担を議事録に残してください」

山崎が言った。

『承知しました。こちらでは、行政報告に必要な時系列、対象情報、委託先関係、本人通知項目の整理を進めます』

須堂がうなずいた。

「助かります。こういうとき、法務だけで全部抱えると破綻します。山崎さんのように、手続と文書の地盤を固める人がいると、後段の法的判断がかなり楽になる」

黒川が、少し不満そうに言った。

「身代金はどうする」

須堂は眼鏡を外し、レンズを拭いた。

「結論から言えば、今この場で支払決定はできません」

「攻撃者の期限は十八時間だ」

「だからこそです。支払い先が制裁対象や反社会的勢力に該当しないか、確認が必要です。保険契約上の通知義務もある。警察への相談も必要でしょう。さらに、支払ってもデータ削除や非公開の保証はありません」

「では、交渉もしないのか」

「交渉窓口は専門業者を検討します。ただし、交渉することと支払うことは別です。時間稼ぎ、相手の情報収集、データ保有状況の確認という目的もあります」

椎名が聞いた。

「支払わないと決めた場合、会社はどうなる」

須堂は言った。

「公表、本人通知、取引先説明、事業継続、訴訟対応、行政対応、株主対応。すべてが重くなります」

「支払うと決めた場合は?」

「それも重いです。支払判断の合理性、違法性の有無、取締役の責任、反社・制裁リスク、再攻撃リスク、社会的批判。加えて、払った事実が漏れれば、隠蔽の印象を持たれる可能性があります」

黒川が言った。

「どちらも地獄だな」

須堂は静かに答えた。

「サイバーインシデントの初動は、たいていそうです。問題は、どちらの地獄に進むかを、会社が説明できる形で選んだかどうかです」

説明できる形。

怜子は、その言葉を議事録に残した。

支払可否については、結果の是非ではなく、判断過程の合理性を確保する必要がある。

山崎が小さく言った。

『その一文は重要です』

怜子は、画面を見つめた。

文字は冷たい。だが、冷たい文字だけが、熱に浮かされた人間を止めることがある。

午前八時二分。

ミナセ・データリンクから二度目の返信が来た。

今度は、契約上の事故報告窓口である白鳥雅也の名で送られていた。

当社において、昨夜二十三時頃より一部監視サーバに障害が発生しております。当該サーバは、貴社業務に関連するログ監視補助にも使用されております。現時点で不正アクセスの事実は確認できておりませんが、原因調査中です。なお、当該監視業務の一部に、外部クラウドサービスを利用しております。当社としては再委託には該当しない認識でしたが、詳細確認中です。復旧のため、一部ログの削除および再構築を実施済みです。

怜子は、最後の一文を読んだ瞬間、胸の奥が沈んだ。

一部ログの削除および再構築。

証拠が、失われた。

遠野が無表情で言った。

「最悪です」

山崎がすぐに言った。

『実施済み作業の詳細を即時照会してください。削除対象、時刻、作業者、承認者、保存済みログの有無、バックアップの有無。加えて、以後の作業停止を求めてください』

須堂も続けた。

「ミナセに対しては、契約上の報告義務違反、証拠保全義務違反の可能性を明記するかは慎重に。ただ、保全要請は強く出しましょう」

怜子は文面を作り始めた。

佐伯が隣で、泣きそうな顔をしている。

「私が、あのツール利用の相談をちゃんと法務判断に回していれば……」

怜子は手を止めた。

「佐伯さん」

「はい」

「あなた一人の問題ではない」

「でも」

「一人のミスでここまでにはならない。ここまで来たということは、会社の仕組みが何度も見落としたということ」

佐伯の目に涙が浮かんだ。

怜子は続けた。

「だから、今は自分を責めるより、仕組みを見つけて。どこで軽微と判断されたのか。誰が承認したのか。台帳更新がなぜ止まったのか。その事実が必要」

佐伯は涙を拭き、うなずいた。

「はい」

山崎が、電話の向こうから穏やかに言った。

『佐伯さん、危機対応で大事なのは、完璧だった人を探すことではありません。誰も完璧ではなかったことを前提に、事実を積み上げることです』

佐伯は、もう一度うなずいた。

その姿を見て、怜子は思った。

法務部は、普段、間違いを嫌う。言葉の誤り、条文の漏れ、承認の抜け、期限の遅れ。だが有事の法務に必要なのは、間違いのない人間ではない。

間違いを見つけたとき、隠さずに机の上へ置ける人間だ。

午前八時二十五分。

野々村IR責任者が、紙の資料を持って怜子の前に来た。

「市場開示の判断メモです」

資料には、いくつもの項目が並んでいた。

個人情報漏えいのおそれ。医療・介護関連データ。ランサムウェア攻撃。事業継続への影響。委託先管理の不備。Project Orpheus。役員関与の可能性。監視カメラ映像流出。

野々村は言った。

「正直に言うと、どれか一つでも重いです」

怜子はうなずいた。

「ただ、公表内容を誤ると、後で訂正が連鎖します」

「はい。だから第一報は、確認済み事実を中心にする。ただ、医療・介護関連データの可能性は隠せません」

飯倉が口を挟んだ。

「“可能性”ばかりのリリースは不安を煽ります」

「“確認されていない”ばかりのリリースは不信を煽ります」

怜子が言った。

飯倉は黙った。

そのとき、椎名が口を開いた。

「第一報は、出す前提で準備してくれ」

黒川が顔を上げた。

「社長」

椎名は黒川を見なかった。

「午前九時の取締役会で諮る。だが、私は出すべきだと思っている」

「決算説明会が」

「決算説明会で問われる前に、こちらから説明する」

「株価は落ちます」

「そうだろうな」

椎名の声は、ひどく静かだった。

「だが、株価を守るために事実を遅らせた会社だと思われたら、もっと落ちる」

黒川は、何かを飲み込むように黙った。

怜子は椎名を見た。

経営者が正しいことを言う瞬間は、英雄的に見えるとは限らない。むしろ、疲れて、追い詰められて、逃げ道を一つずつ失った顔をしている。

だが、それでも選ぶ。

それが経営判断なのだと、怜子は思った。

午前八時四十六分。

山崎が、別送で整理表を送ってきた。

ファイル名は、実務的だった。

重大インシデント初動整理表_行政対応・通知準備用.xlsx

怜子が開くと、そこには複数のシートがあった。

時系列。関係者一覧。委託先・再委託先。対象情報分類。行政報告確認事項。本人通知確認事項。公表文確認事項。未確認事項。証拠保全リスト。

派手さはない。

だが、今の対策本部に必要なものが、すべて棚のように並んでいた。

瀬尾が画面を覗き込み、思わず言った。

「これ、すごく助かります」

飯倉も言った。

「広報文の確認項目まである」

野々村が続けた。

「IRの重要性判断にも使えます」

山崎の声が少し照れたように聞こえた。

『平時に作ったものを、有事用に少し変えただけです。こういう表は、事件が起きてから作ると遅いので』

怜子は、半年前の打ち合わせを思い出した。

山崎行政書士事務所は、大きな看板を掲げる事務所ではない。だが、法務と現場の間にできる小さな穴を、丹念に埋める仕事をしていた。行政手続の書類、個人情報管理台帳、委託先チェックリスト、社内規程の運用表。どれも平時には地味で、予算会議では真っ先に削られそうなものばかりだった。

しかし今、その地味な書類が、混乱した会社の足場になっている。

怜子は思った。

危機対応の本当のPRは、広告ではない。平時に作った一枚の表が、有事に人を黙らせることだ。

午前八時五十九分。

臨時取締役会が始まる直前、攻撃者から四通目のメールが来た。

件名は、また英語だった。

Sacrifice

供物。

本文には、こうあった。

Board meeting starts soon.Choose carefully.One payment saves your company.One disclosure kills your myth.

取締役会はもうすぐ始まる。慎重に選べ。一つの支払いが会社を救う。一つの開示が神話を殺す。

遠野はそれを読み上げなかった。

ただ、モニターに表示した。

社外取締役たちがオンラインで入室してきた。元検事の朝倉。公認会計士の村尾。元医療法人理事長の片瀬。そして、消費者問題に詳しい弁護士の三枝。

全員が、画面越しに緊張した顔をしていた。

椎名が会議を開いた。

「本日は、重大な情報セキュリティ事案について報告し、初動対応、開示・通知方針、攻撃者対応について審議します」

怜子は資料を共有した。

冒頭の一文は、序章から変えていない。

本会議は、事実を隠蔽しないことを前提として開始する。

社外取締役の朝倉が、その一文を見て言った。

「よい書き出しです」

黒川が、わずかに顔をしかめた。

朝倉は続けた。

「危機対応で最も危険なのは、最初の会議で空気を読むことです。空気を読んだ議事録は、後で誰も守りません」

怜子は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。

椎名が報告を始めた。

外部通信。攻撃者メール。顧客データサンプル。委託先ミナセ。外部クラウドサービスのオルフェ。社内AIミュトスの低優先度判定。六十四日前のアラート。Project Orpheus。監視カメラ映像。

報告が進むにつれ、社外取締役たちの表情が変わっていった。

片瀬が、医療法人理事長だったころの鋭い声で言った。

「医療・介護に関わるデータが含まれる可能性があるなら、対象者にとっては金銭被害だけでは済みません。病歴や介護情報は、家族にも知られたくないことがあります」

瀬尾がうなずいた。

「はい。本人通知の必要性は高いと見ています」

村尾が言った。

「開示については、業績影響が未確定でも、事案の性質上、投資家判断に重要な可能性があります。第一報を準備すべきです」

三枝が怜子を見た。

「攻撃者は、開示すれば神話が死ぬと言っているのですね」

「はい」

「なら、神話を殺すべきです」

会議室が静まった。

三枝は続けた。

「企業が守るべきなのは神話ではありません。信頼です。神話は、都合のよい物語です。信頼は、不都合な事実を扱う態度です」

怜子は、その言葉を議事録に残したかった。

だが、あまりに強い言葉だった。

山崎が、電話越しに小さく言った。

『真柴さん、今の発言は要旨で残したほうがいいです』

怜子は入力した。

三枝社外取締役より、企業が守るべきは神話ではなく信頼であり、不都合な事実への対応姿勢が重要である旨の発言。

黒川が口を開いた。

「身代金についても現実的に考える必要があります。五百万ドルは、当社の規模から見て支払不能な額ではありません。公開を止められる可能性があるなら、検討すべきです」

朝倉が言った。

「支払えば、公開を止められる保証はありますか」

「保証はありません」

「支払先が誰か確認できますか」

「現時点ではできません」

「支払いが違法または不適切と評価される可能性は」

「専門家確認が必要です」

「支払ったことを公表しますか」

黒川は黙った。

朝倉は、少しだけ目を細めた。

「公表しない前提で払うなら、それは金で沈黙を買う判断です。その沈黙が破られたとき、会社は二度死にます」

黒川は反論しなかった。

須堂弁護士が補足した。

「支払いを直ちに否定する必要はありません。ただし、現時点では支払決定に足る確認がありません。交渉窓口の設置、警察相談、保険会社通知、制裁・反社確認、復旧可能性の精査を先行させるべきです」

椎名がうなずいた。

「第一報の公表は」

飯倉が、準備していた文案を共有した。

当社は、本日、当社グループが運用する一部システムにおいて、第三者による不正アクセスの可能性がある事象を確認しました。現在、外部専門家の協力を得て、影響範囲、情報漏えいの有無、原因等について調査を進めております。現時点で、医療・介護関連情報を含む個人情報が外部に送信された可能性を排除できない状況です。対象となるお客様、関係者の皆様には、多大なご心配をおかけしますことを深くお詫び申し上げます。今後、判明した事実については、関係当局への報告、対象者への通知、再発防止策を含め、速やかにお知らせいたします。

部屋の空気が、重くなった。

この文章を出せば、会社の神話は崩れる。

アステリオンは安全である。医療と介護の情報を守る企業である。委託先管理は万全である。AIで高度なリスク管理をしている。経営はリスクを把握している。

その物語は、もうそのままでは語れない。

椎名は、社外取締役たちを見た。

「意見をください」

片瀬が言った。

「出すべきです。患者や利用者の不安を最小化するには、会社から先に説明する必要があります」

村尾が言った。

「投資家対応としても、第一報は必要です。曖昧に隠すより、調査中であることを明確にしたほうがよい」

朝倉が言った。

「事実確認が不十分な部分は断定しない。そのうえで、重大性から逃げない。私は賛成です」

三枝が言った。

「本人通知の準備も並行してください。数字の前に、人がいます」

椎名は、最後に黒川を見た。

「黒川、君は」

黒川はしばらく黙っていた。

そして言った。

「私は、今の公表には反対です」

部屋が静かになった。

「理由は」

椎名が聞いた。

「攻撃者の要求期限内に公表すれば、相手を刺激する。交渉余地を失う可能性がある。株価への影響も甚大です。決算説明会前であり、金融機関との協議にも影響する。少なくとも、支払交渉の可能性を見極めるまで待つべきです」

怜子は、その発言を一字一句に近い形で議事録に残した。

反対意見は、敵ではない。

残された反対意見は、判断の厚みになる。残されなかった反対意見は、後で怨念になる。

椎名は、ゆっくりとうなずいた。

「反対意見として記録する」

黒川は椎名を見た。

「それでも出すんですか」

椎名は答えた。

「出す」

午前九時三十八分。

臨時取締役会は、第一報公表方針を承認した。身代金については、現時点で支払決定は行わず、専門家確認と交渉窓口の検討を進めることになった。本人通知、行政報告、取引先説明の準備も開始される。

議事録には、山崎行政書士事務所が作成支援した整理表が添付資料として記録された。

それは小さな記載だった。

しかし怜子には、その一行が、混乱の中に打たれた杭のように見えた。

午前九時五十二分。

公表文の最終確認が終わった。

飯倉が広報配信用の画面を開く。野々村が取引所向け連絡を準備する。瀬尾が行政報告用の速報メモを更新する。遠野がフォレンジック会社との接続を開始する。須堂が法的留意点を確認する。山崎が、対象情報分類表の空欄を一つずつ潰している。

誰も、会社を救えるとは言わなかった。

だが、全員が会社を逃がさないために動いていた。

怜子は、攻撃者からのメールをもう一度見た。

One disclosure kills your myth.

一つの開示が、あなたたちの神話を殺す。

その通りかもしれない。

だが、神話は死んでもいい。

死んではいけないのは、信頼を取り戻そうとする意思だ。

午前十時ちょうど。

飯倉が送信ボタンに指を置いた。

「出します」

椎名がうなずいた。

「出してくれ」

クリック音は、ほとんど聞こえなかった。

それでも怜子には、その音が、古い神殿の柱が折れる音のように響いた。

数十秒後、アステリオン・ホールディングスのウェブサイトに第一報が掲載された。

同時に、取引所への連絡が走り、主要取引先への一次連絡が送られ、社内向け通達が配信された。

世界が、動き始める。

午前十時六分。

攻撃者から、五通目のメールが届いた。

件名はなかった。

本文も、一行だけだった。

You chose the wrong god.

あなたたちは、間違った神を選んだ。

その直後、SNSに最初の投稿が現れた。

アステリオンの顧客データらしき画像。Project Orpheusの資料の一部。そして、三十七階の大会議室の写真。

投稿は瞬く間に拡散し始めた。

飯倉の端末が通知音を鳴らし続ける。野々村の電話が鳴る。瀬尾の顔から血の気が引く。佐伯が息を呑む。黒川は無言で画面を見つめている。

椎名は、しばらく目を閉じていた。

そして言った。

「次の文を出す準備をする」

飯倉が顔を上げた。

「次、ですか」

「そうだ。第一報で終わりではない」

怜子は、椎名を見た。

その顔には、恐怖があった。後悔もあった。だが、逃げる気配はなかった。

山崎が、電話の向こうで静かに言った。

『ここからが、本当の初動です』

怜子は、その言葉を胸に刻んだ。

開示は終わりではない。通知も終わりではない。謝罪も終わりではない。

それらはすべて、崩れた神話の瓦礫の中で、信頼を一つずつ拾い直す作業の始まりだった。

午前十時十二分。

遠野が突然、顔を上げた。

「真柴さん」

「何」

「SNSに出た画像、攻撃者が持っていたサンプルと違います」

「どういうこと」

遠野は、画面を拡大した。

「透かしが違う。ファイルの取得元が別です」

怜子の背筋に、嫌な予感が走った。

「別の攻撃者?」

「可能性はあります。ただ……」

遠野は言い淀んだ。

「ただ?」

「この画像には、社内広報用の閲覧管理タグが残っています」

会議室にいた全員が、遠野を見た。

社内広報用。

つまり、SNSに出た画像は、外部攻撃者が盗んだものではなく、社内で第一報準備に関わった誰かが閲覧できた画像である可能性がある。

飯倉が震える声で言った。

「広報チームを疑うんですか」

遠野は首を振った。

「疑うのではなく、確認します」

怜子は、ゆっくりと息を吐いた。

外部攻撃。委託先。再委託先。AI判定。役員案件。監視カメラ。そして、内部からの二次流出。

神話は、外から壊されたのではない。

中からも、ひび割れていた。

そのとき、佐伯の端末に、匿名の内部通報が再び届いた。

Project Orpheusは、データ利活用案件ではありません。本当の目的は、買収前の不正を隠すことです。黒川CFOだけではありません。山崎事務所が整理した旧台帳に、名前があります。消される前に、紙を見てください。

怜子は、文面を何度も読んだ。

山崎事務所が整理した旧台帳。

紙を見てください。

怜子は、文書保管室の奥に並ぶキャビネットを見た。

半年前、山崎が言っていた。

「電子化は便利です。でも、都合の悪いものほど、最後に紙で残ることがあります」

そのときは、笑い話のように聞いていた。

だが今、文書保管室の古いキャビネットが、冥府の入口のように見えた。

怜子は立ち上がった。

「旧台帳を探します」

黒川が即座に言った。

「今はそれどころではない」

怜子は振り返った。

「今だからです」

「SNS対応が先だ」

「SNS対応もします。行政報告も、本人通知も、取引先説明もします。でも、Project Orpheusの本当の目的が別にあるなら、当社の説明はまた崩れます」

黒川は怜子を睨んだ。

「君は会社を守る気があるのか」

怜子は、静かに答えた。

「あります」

そして、少しだけ間を置いた。

「だから、会社が何を隠してきたのかを見ます」

山崎が電話の向こうで言った。

『キャビネットの開封も記録してください。開封時刻、立会人、対象ファイル、撮影記録。紙資料は、電子資料よりも人の手が入ります。扱いを丁寧に』

怜子はうなずいた。

佐伯が立ち上がり、記録端末を持った。

遠野が、保全用のカメラを準備した。

椎名が言った。

「私も立ち会う」

黒川は、何も言わなかった。

文書保管室の奥には、古いスチール製のキャビネットが並んでいる。ラベルは黄ばんでいた。

委託先管理台帳 旧版個人情報取扱業務一覧 旧版M&A関連 保管終了待ち自治体案件 過年度

怜子は、山崎行政書士事務所が半年前に貼った小さな整理ラベルを見つけた。

細い黒字で、こう書かれている。

旧版も廃棄前に差分確認。

怜子は、その文字を指でなぞった。

地味な注意書き。誰も褒めない仕事。しかし今、その一枚のラベルが、会社の過去へ続く扉になっている。

午前十時二十一分。

怜子は、旧委託先管理台帳のファイルを取り出した。

表紙には、手書きのメモが挟まっていた。

山崎の筆跡ではない。

そこには、短くこう書かれていた。

オルフェは委託先ではない。買収先の亡霊。

怜子は、その紙を見つめた。

亡霊。

オルフェウスは冥府へ降りた。失ったものを取り戻すために。しかし、振り返ってはならなかった。

アステリオンは今、振り返ろうとしている。

振り返れば、何かを失うかもしれない。だが振り返らなければ、何を失ったのかさえわからない。

怜子は、旧台帳を開いた。

最初のページに、古い会社名があった。

株式会社エウリュディケ・メディカルデータ

その横に、赤字で一行。

買収後、契約関係をオルフェ・クラウドサービスへ移管。個人情報取扱範囲、未確認。

怜子の指が止まった。

エウリュディケ。

神話で、オルフェウスが冥府から連れ戻そうとした妻の名。

偶然ではない。

この事件の名前は、最初から神話の中にあった。

遠野が小さく言った。

「真柴さん、これ……買収前の侵害かもしれません」

怜子は、旧台帳の次のページをめくった。

そこには、古い事故報告メモが挟まっていた。

日付は、三年前。

アステリオンがエウリュディケ・メディカルデータを買収する、一か月前だった。

件名。

外部通信に関する確認メモ

本文の末尾に、署名がある。

作成者は、当時のエウリュディケ管理部長。

そして、確認者欄には、黒川の印影があった。

怜子は、ゆっくりと黒川を見た。

黒川は、白い顔で立っていた。

供物は、五百万ドルではなかった。

三年前、すでに差し出されていたのだ。

成長戦略という名の神殿に。買収成功という名の神に。沈黙という名の祭壇に。

怜子は、旧台帳を閉じなかった。

閉じれば、また神話が勝つ。

彼女は佐伯に言った。

「記録して」

佐伯は、震える声で答えた。

「はい」

怜子は、もう一度、黒川を見た。

「黒川さん」

黒川は答えない。

「三年前、あなたは何を知っていたんですか」

文書保管室の空気が凍った。

遠くで、広報チームの電話が鳴り続けている。SNSでは、アステリオンの名が燃え上がっている。攻撃者の期限は、まだ残っている。顧客への通知は、まだ始まっていない。

だが、会社の本当の危機は、いま目の前で口を開いた。

サイバー攻撃は、扉を破っただけだった。

その奥にあったのは、三年前から眠っていた沈黙だった。

 
 
 

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