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第五章 漏えいした名前たち


午前九時十二分。

怜子が書いた一文は、画面の中でまだ震えているように見えた。

このたび、皆様の大切な情報について、外部に流出した可能性を否定できない事態が発生しました。

文章としては、簡単だった。しかし、その一文を打つまでに、会社はどれほど遠回りをしたのだろう。

契約書を開き、委託先を問い、攻撃者の要求を拒み、旧台帳を掘り起こし、取締役会の沈黙を記録し、社内AIの神託を疑った。

それでも、ここからが本番だった。

画面の向こうには、住民がいる。

株主でもない。取引先でもない。記者でもない。攻撃者でもない。役員でもない。

ただ、自治体の健康管理サービスを利用し、病院に通い、介護認定を受け、保健師と話し、自分の情報がどこかの会社のサーバにあることすら意識していなかった人々。

彼らに、何をどう伝えるのか。

それは、法務の文章であって、法務の文章であってはならなかった。

飯倉広報部長が、怜子の背後から画面を覗き込んだ。

「“可能性を否定できない”は、少し回りくどくないですか」

「事実としては、まだ漏えい確定ではありません」

「でも、住民から見ると、何が起きたのかわかりにくい」

瀬尾個人情報管理責任者が言った。

「“流出した可能性があります”でいいのでは」

怜子は、画面を見た。

“可能性を否定できない”“可能性があります”

どちらも似ている。だが、受け取る側の温度は違う。

山崎行政書士事務所の山崎が、電話越しに言った。

『住民向けなら、“流出した可能性があります”のほうが伝わります。ただし、次の文で、現時点で確認できていることと未確認のことを分けましょう』

怜子は、文を直した。

このたび、皆様の大切な情報について、外部に流出した可能性があります。

文字が少しだけ強くなった。

飯倉がうなずいた。

「このほうが、逃げていない感じがします」

「逃げていない感じ、ではなく、逃げない文にしましょう」

怜子はそう言った。

山崎が続けた。

『冒頭に謝罪を入れる前に、何の知らせなのかを先に書いたほうがいいです。謝罪から始める会社文書は多いですが、読む側はまず、自分に何が起きたのか知りたいはずです』

瀬尾がメモを取る。

「なるほど」

山崎は淡々と言った。

『謝罪は必要です。ただ、謝罪が情報の前に立ちすぎると、会社が自分の姿勢を見せたい文になります。住民向けなら、住民が知るべきことを先に置くほうがよいと思います』

怜子は、思わず電話を見た。

山崎の声は、いつも通り静かだった。だが、その助言には現場を見てきた人間の重みがあった。

行政手続の文書、住民向け通知、許認可の補正、個人情報台帳。山崎行政書士事務所の仕事は、普段なら社内で大きく評価されにくい。しかし今、会社の言葉を人間の言葉に戻すために、なくてはならない存在になっていた。

午前九時二十七分。

A市との共同編集会議が始まった。

画面の向こうに、A市健康福祉部の担当者たちが並んでいる。部長の西森、情報政策課長の森、法務担当の有馬、広報担当の菊池。全員、昨夜からほとんど寝ていない顔をしていた。

西森が最初に言った。

「住民の方々は、御社名を知らない人も多いです」

怜子はうなずいた。

「はい」

「A市が集めた情報が、なぜアステリオンさんのところにあるのか。そこから説明しないといけません」

「その通りです」

森が続けた。

「委託、再委託、外部サービス、旧環境。行政内部では整理しますが、住民向けにそのまま書くと読まれません」

山崎が、静かに口を開いた。

『住民向けには、まず流れを三段階にするとよいと思います』

西森が画面越しに顔を上げた。

「三段階?」

『はい。第一に、A市が健康管理事業のために情報を取り扱っていたこと。第二に、その業務の一部をアステリオンが受託していたこと。第三に、その関連システムで外部からの不正アクセスの可能性が確認されたこと。委託先や外部サービスの詳細は、別紙または後段で説明する形です』

菊池が言った。

「住民の方が最初に読む文章としては、そのほうがよさそうです」

有馬が尋ねた。

「責任の所在が曖昧になりませんか」

山崎はすぐに答えた。

『曖昧にしてはいけません。本文中に、“A市およびアステリオンは、情報をお預かりした立場として対応します”と入れる。そのうえで、調査中の関係者については別途記載する。責任逃れに見える表現は避けるべきです』

怜子は、その一文を文案に入れた。

A市およびアステリオンは、皆様の情報をお預かりした立場として、確認できた事実を順次お知らせし、必要な対応を進めます。

西森が、画面の向こうで小さくうなずいた。

「これなら、住民に向けた文になります」

飯倉が言った。

「問い合わせ窓口は、A市と当社で分けますか」

森が答えた。

「住民から見れば、たらい回しは最悪です。一次窓口はA市、専門的な内容はアステリオンに接続。ただし、回答内容は統一したい」

瀬尾が言った。

「FAQを共同で作りましょう」

山崎が言った。

『FAQにも、回答の状態を入れてください。“回答可能”“確認中”“個別確認が必要”の三つです。窓口担当者が無理に答えると、後で説明が揺れます』

怜子は、すぐに表を作った。

質問。回答案。回答状態。根拠資料。最終確認者。更新日時。

山崎が言った。

『更新日時は必ず入れてください。危機のFAQは生き物です。古い回答が残ると二次被害になります』

A市の菊池が、少し驚いたように言った。

「山崎さん、こういう住民向けの整理に慣れていらっしゃいますね」

『行政手続の周辺では、制度を知らない方にどう伝えるかが大事になります。専門家同士で通じる文は、住民には通じないことが多いので』

怜子は、その言葉を聞きながら思った。

これもまた、さりげないPRだった。

山崎は自分を大きく見せない。だが、仕事の中身が自然に伝わる。今のアステリオンにとって、それは広告よりずっと強い信用だった。

午前十時三分。

A市住民向けのお知らせ案が、第一版として形になった。

見出し。

A市健康管理事業に関する情報流出の可能性についてのお知らせ

本文は、五つの項目に分かれている。

一、何が起きたのか。二、どのような情報が関係する可能性があるのか。三、現時点で確認できていること。四、まだ確認できていないこと。五、住民の皆様にお願いしたいこと。

怜子は、三番目と四番目を見比べた。

確認できていること。確認できていないこと。

この二つを分ける作業は、地味で、痛い。

確認できていることは少ない。確認できていないことは多い。読む側は、不安になる。

だが、不安にさせないために未確認を隠すと、不信になる。

山崎の言葉が、怜子の中に残っていた。

不安は、事実でしか小さくならない。不信は、事実を出さないことで大きくなる。

瀬尾が、対象情報の欄を読み上げた。

「氏名、住所、生年月日、性別、健康診断関連情報、保健指導履歴、介護関連情報の一部、施設利用に関する情報、システム管理用ID……」

飯倉が止めた。

「“介護関連情報の一部”は、曖昧すぎませんか」

瀬尾が苦しそうに言った。

「でも、現時点では全項目が確定していません」

A市の西森が言った。

「住民から見れば、“一部”ではなく、何が含まれるのかが重要です。介護度なのか、サービス利用歴なのか、施設名なのか」

遠野がデータ分類表を確認する。

「最大範囲で言えば、介護認定区分、サービス種別、利用事業所コード、相談記録の分類、更新年月が含まれる可能性があります。ただし、自由記述の詳細メモは別システムで、今回の転送範囲には現時点で含まれていません」

怜子は、すぐに文案を修正した。

介護関連情報については、介護認定区分、利用サービスの種別、利用事業所に関する情報等が含まれる可能性があります。現時点では、相談内容の自由記述欄が外部送信された事実は確認されていません。

山崎が言った。

『“確認されていません”の後に、“引き続き調査中です”を入れてください。確認されていないことを、ないことのように読ませないためです』

怜子は入れた。

ただし、引き続き調査中です。

短い一文。

その一文があるかないかで、会社の姿勢は変わる。

午前十時四十一分。

コールセンターの準備が始まった。

アステリオンの通常問い合わせ窓口では、とても対応できない。A市の窓口も、通常業務を抱えている。急きょ、外部のコールセンター会社を使う案が出た。

だが、そこでまた問題が起きた。

コールセンター会社に、住民情報をどこまで渡すのか。

飯倉が言った。

「本人確認のためには、ある程度の情報が必要です」

瀬尾が首を振る。

「しかし、漏えい対応のために新たな委託先へ個人情報を渡すことになります。安全管理を確認しないと」

宮内副CFOが言った。

「時間がありません。窓口がなければ炎上します」

怜子は、言葉を選んだ。

「炎上を避けるために、別の漏えいリスクを作るわけにはいきません」

山崎が静かに言った。

『本人確認の方法を二段階にしましょう。一次受付では、名前や電話番号を無理に聞きすぎない。個別照会が必要な場合だけ、A市またはアステリオンの限定担当に接続する。コールセンター会社には、FAQと受付分類を中心に渡す』

飯倉が聞いた。

「本人から“自分は対象か”と聞かれたら?」

瀬尾が答えた。

「現時点で対象者リストが確定していない場合、対象かどうかを即答できません」

「それでは怒られます」

「怒られます。でも、誤って“対象外です”と言うほうが危険です」

山崎が言った。

『回答例を用意しましょう。“現時点で対象範囲を確認中であり、個別の該当有無を直ちにお答えできない場合があります。判明次第、対象となる方には順次お知らせします”。苦しい文ですが、誤答よりよいです』

A市の有馬が言った。

「それを住民が納得するとは限りません」

山崎は答えた。

『納得されないことと、言うべきことを言わないことは別です。窓口では、納得を得るより先に、誤った安心を与えないことが大事です』

怜子は、その言葉をコールセンターFAQの上部に書いた。

目的:誤った安心を与えない。未確認事項を断定しない。住民の不安を受け止め、確認済み情報を案内する。

コールセンターの資料としては、少し異例だった。

しかし、必要だった。

午前十一時十六分。

攻撃者の公開サイトが、また更新された。

遠野が隔離端末で確認する。

「今度は、個人データのサンプルです」

文書保管室の空気が凍った。

飯倉が、椅子の背を握った。

「人数は?」

「十名分程度。ただし、項目が多い」

瀬尾が震える声で言った。

「見せてください」

遠野は、画面共有を最小限にし、必要な者だけで確認した。

そこには、表形式のデータがあった。

氏名。住所の一部。年齢。健康診断結果の一部。介護認定区分。服薬傾向。保健指導履歴。システムID。

怜子は、最初の行で目を止めた。

日下部澄江

七十八歳。A市在住。介護認定あり。高血圧。服薬継続。独居傾向。保健師訪問履歴。

名前があった。

その瞬間、データは数字ではなくなった。

日下部澄江。

彼女は、朝食を食べただろうか。テレビをつけただろうか。近所に話し相手はいるだろうか。自分の名前が、攻撃者のサイトに並んでいることを知っているだろうか。

怜子は、息が浅くなった。

これまで対象者数という言葉を使っていた。最大十二万人。影響範囲。データ項目。外部送信量。

だが、その中には日下部澄江がいた。

そして、おそらく、他にもいる。

山崎の声がした。

『真柴さん、まず保存と確認を』

怜子は我に返った。

「はい」

遠野が言った。

「公開ページの保全を行います。アクセスは限定。画像の拡散防止のため、社内共有は禁止します」

瀬尾が言った。

「A市へ直ちに連絡します。公開された方々への個別連絡が必要です」

飯倉が顔を覆った。

「メディアにも拾われます」

「拾われる前提で動きます」

怜子は言った。

声は、思ったより冷静だった。

冷静でなければならない。今、感情に沈めば、名前を持つ人々への対応が遅れる。

だが、胸の中では何かが崩れていた。

午前十一時二十五分。

A市へ緊急連絡が行われた。

西森の声は、怒りを抑えていた。

『公開された十名のリストを、市でも確認します。ただし、住民に直接連絡する前に、家族構成や連絡方法を確認する必要があります』

瀬尾が言った。

「アステリオン側で電話してよろしいですか」

西森は即答した。

『いえ。まず市から連絡します。高齢者や介護関係の方もいます。突然、知らない会社から電話が来れば混乱します』

怜子は、胸を突かれた。

その通りだった。

アステリオンは、情報を扱っていた。だが、住民との関係を持っているのはA市だ。会社が自分の都合で直接謝罪すれば、かえって傷つけることもある。

山崎が言った。

『個別連絡の役割分担を整理しましょう。A市が一次連絡。アステリオンは必要に応じて同席または折り返し。説明文は共通。連絡記録を残す。ただし、住民の反応を評価語で書かない』

西森が聞いた。

「評価語?」

『“激怒”“納得せず”“理解不足”などです。連絡記録には、本人が述べた事実、質問、要望、回答内容を記録する。感情のラベルは慎重にしてください』

A市の菊池が言った。

「たしかに、後で読むと失礼な記録になることがありますね」

『はい。被害者対応の記録は、会社側のためだけではありません。相手の尊厳を損なわない形で残すべきです』

怜子は、山崎の言葉に深くうなずいた。

尊厳。

それは、これまでの会議であまり出てこなかった言葉だった。

法令。義務。リスク。開示。損害。責任。保全。

どれも必要だ。

だが、名前が公開された十名に必要なのは、まず尊厳だった。

午前十一時五十七分。

最初の個別連絡が行われた。

対象は、日下部澄江。

A市の保健師が電話をかけることになった。日下部は独居で、耳が少し遠い。普段から担当保健師が訪問しているという。

怜子たちは、直接会話には入らない。A市側の許可を得て、必要な範囲で通話後の報告を受ける。

待っている時間は、長かった。

飯倉は何度もスマートフォンを見ようとして、そのたびに手を止めた。瀬尾は祈るように両手を組んでいた。佐伯は、連絡記録のフォーマットを開いたまま、画面を見つめていた。

十分後、A市から報告が入った。

西森の声は、重かった。

『日下部さんには、担当保健師から説明しました』

「ご本人の様子は」

怜子が聞いた。

『最初は、よく理解できていない様子でした。自分の健康診断の情報がインターネットに出ているかもしれないと伝えると、しばらく黙っていました』

誰も言葉を挟まなかった。

西森は続けた。

『その後、“それは近所の人も見るのか”と聞かれました』

怜子は、胸が詰まった。

近所の人も見るのか。

それが、本人にとっての恐怖なのだ。

株価ではない。制裁リスクではない。取締役の責任でもない。自治体契約の解除でもない。

近所の人に、自分の病気や介護のことを知られるかもしれない。

情報漏えいとは、そういうことだった。

瀬尾が小さく言った。

「申し訳ありません……」

西森は続けた。

『保健師が、現時点で確認できている範囲を説明し、今後も市から連絡すると伝えました。日下部さんは、“私は何をすればいいのか”と聞きました』

怜子は、目を閉じた。

私は何をすればいいのか。

被害者に、そう言わせてしまった。

会社が守れなかったのに。会社が説明できていないのに。被害者が、自分の行動を問う。

山崎が静かに言った。

『住民向け通知の“お願いしたいこと”の欄を見直しましょう。本人に過度な負担をかけない表現にしてください』

怜子は、すぐに文案を開いた。

当初の文には、こうあった。

不審な電話、メール、訪問等にご注意ください。身に覚えのない連絡があった場合は、問い合わせ窓口へご連絡ください。

間違ってはいない。

だが、これだけでは、被害者に見張り番をさせる文章に見えた。

怜子は、文を加えた。

皆様に責任があるものではありません。今後、A市およびアステリオンから確認済みの情報を順次お知らせします。不審な連絡等があった場合には、お一人で判断せず、下記窓口へご相談ください。

山崎が言った。

『よいと思います』

飯倉が、少し涙声で言った。

「“皆様に責任があるものではありません”は、入れたほうがいいですね」

西森も画面の向こうでうなずいた。

『入れてください』

午午後零時二十八分。

公開された十名のうち、五名への一次連絡が終わった。

反応は、それぞれ違った。

怒鳴る人。黙り込む人。泣き出す家族。「よくわからない」と繰り返す高齢者。「もう市のサービスは使わない」と言う人。

連絡記録には、山崎の助言通り、評価語を使わずに書かれた。

本人より、近隣住民に知られる可能性について質問あり。家族より、詐欺電話への不安について質問あり。本人より、今後の連絡方法は書面を希望する旨の申し出あり。本人より、詳細説明を家族同席で受けたい旨の申し出あり。

記録は冷静だった。

だが、その冷静な行の向こうに、人の声があった。

佐伯は、入力しながら何度も手を止めた。

「真柴さん」

「何」

「こういう記録を残すの、つらいですね」

怜子は、うなずいた。

「つらいわね」

「でも、残さないといけない」

「そう」

「どうしてですか」

怜子は、少し考えた。

「会社が、相手の声を忘れないため」

佐伯は、記録画面を見た。

「忘れるんですか」

「忘れようとしなくても、忘れるの。数字に戻してしまう。十名、十二万人、問い合わせ何件、苦情何件、通知発送数。そうしないと処理できないから」

怜子は、日下部澄江の名前を見た。

「だから、名前を記録する。質問を記録する。言われたことを、会社の中に残す」

佐伯は、静かにうなずいた。

午後一時五分。

住民向けお知らせの第一版が、A市のサイトとアステリオンのサイトに同時掲載された。

A市の防災メールでも案内が出た。紙の通知準備も始まる。高齢者向けには、地域包括支援センターと連携して説明することになった。

アステリオン側には、特設ページが作られた。

見出しは、広報部が最初に提案したものから変わっていた。

最初の案は、こうだった。

当社システムへの不正アクセスに関するお知らせ

最終版は、こうなった。

A市健康管理事業に関する皆様の情報流出の可能性について

飯倉は、掲載後に言った。

「“当社システム”ではなく、“皆様の情報”なんですね」

怜子はうなずいた。

「主体を変えました」

「会社から見た見出しではなく、住民から見た見出し」

「ええ」

山崎が言った。

『それは大事です。危機の文書は、主語で姿勢が見えます』

怜子は、その言葉を忘れないようにメモした。

主語で姿勢が見える。

午後一時三十七分。

コールセンターが稼働した。

最初の一時間で、問い合わせは三百件を超えた。

「自分の情報は漏れたのか」「病名が出ているのか」「家族に知られたくない」「詐欺に使われるのではないか」「なぜ民間企業が自分の情報を持っているのか」「A市は責任を取るのか」「アステリオンとは何の会社か」「テレビで見た画像は本物か」「削除してもらえるのか」「今後、健康相談を受けても大丈夫か」

FAQは、開始からすぐに更新が必要になった。

山崎の表がなければ、回答は混乱していただろう。質問ごとに、回答状態、根拠資料、最終確認者、更新日時が入っている。コールセンター側には、未確認事項を断定しないよう何度も伝えられた。

だが、それでも現場は揺れる。

コールセンター担当者から、飯倉に連絡が入った。

「“ご心配をおかけして申し訳ありません”と言うと、“心配ではなく被害だ”と怒られています」

飯倉は、怜子を見た。

怜子は、言葉に詰まった。

心配。被害。

たしかに、会社はよく「ご心配をおかけして」と言う。だが、すでに名前が公開された人にとって、それは心配ではない。被害だ。

山崎が言った。

『公開が確認された方、または個別に影響が具体化している方には、“ご不安”や“ご心配”だけでなく、“ご迷惑とご負担”を入れたほうがよいです。ただし、“損害”という語は法的評価もあるので、須堂先生と確認してください』

須堂が答えた。

「“ご迷惑とご負担”は問題ありません。個別被害が確認された場合の表現は、別途整理しましょう」

飯倉がFAQを修正した。

このたびは、ご心配に加え、多大なご迷惑とご負担をおかけしております。

たった一行。

だが、現場の声によって、会社の謝罪文が少しだけ現実に近づいた。

午後二時十二分。

日下部澄江の家族から、A市に電話が入った。

娘だという。

普段は隣県に住んでおり、母とは週に一度電話をしている。A市から母に連絡があったあと、母がひどく動揺して電話してきたらしい。

A市の担当者は、娘の同意を得て、アステリオン側にも説明を求めた。

怜子、瀬尾、A市の西森、担当保健師が同席した。

電話の向こうの娘は、怒っていた。

『母は、インターネットなんてほとんどわかりません。なのに、自分の病気が近所に知られるかもしれないと怯えています。あなたたちは、これを“情報”って呼ぶんですか』

怜子は、すぐには答えられなかった。

『母にとっては生活なんです。病気も、介護も、一人暮らしも、全部、本人が隠したり、我慢したりしながら暮らしていることなんです』

怜子は、受話器を握りしめた。

「おっしゃる通りです」

『おっしゃる通り、じゃないんです。どうしてこんなことになったんですか』

怜子は、用意された説明文を見た。

第三者による不正アクセス。委託先管理。外部サービス。旧システム。調査中。

どれも正しい。だが、そのまま読めば、紙の声になる。

怜子は、文案から目を離した。

「現時点で、すべての原因はまだ確認できていません。ただ、外部から攻撃を受けたことに加えて、当社が関係するシステムや委託先、過去に引き継いだ環境の管理に問題があった可能性があります。お母様の情報をお預かりした立場として、当社が説明責任を負います」

電話の向こうで、娘が息を吸う音がした。

『母は、何をすればいいんですか』

「まず、お母様に責任はありません。不審な電話や訪問があった場合は、一人で判断せず、A市または専用窓口へご連絡ください。今後、確認できた内容は、A市と連携して書面でもお伝えします。必要であれば、ご家族同席での説明機会も設けます」

『情報は消せるんですか』

怜子は、言葉に詰まりそうになった。

攻撃者のサイトに出た情報を、完全に消せる保証はない。拡散されれば、なおさらだ。

「完全に消去できると、現時点でお約束することはできません」

瀬尾が目を閉じた。

怜子は続けた。

「ただし、削除要請、拡散防止のための対応、関係機関への相談、二次被害防止の案内は進めます。できることと、できないことを分けて、継続してご説明します」

電話の向こうで、長い沈黙があった。

やがて娘が言った。

『できないことを、できるみたいに言わないでください』

「はい」

『母に、もう一度説明してください。会社の人からではなく、市の保健師さんから。母は、知らない会社を信用できません』

「承知しました」

『それと、母の名前を、社内で資料みたいに扱わないでください』

怜子は、声を失った。

資料みたいに。

まさに、そうしていた。

公開サンプル。対象者リスト。個別連絡記録。問い合わせ分類。

必要な管理ではある。しかし、その言葉の中で、日下部澄江はまたデータになっていく。

怜子は、ゆっくりと言った。

「ご指摘、受け止めます。お母様のお名前と情報を、単なる資料として扱わないよう、対応記録の持ち方も見直します」

電話は、それで終わった。

怜子は、しばらく受話器を置けなかった。

山崎が静かに言った。

『今の言葉も、対応方針に反映しましょう』

「はい」

『個別対象者の資料には、管理番号だけでなく、対応上必要な範囲で“本人への配慮事項”を入れてください。たとえば、連絡希望方法、家族同席希望、聞こえづらさ、専門用語を避ける必要性。個人情報を増やすことになるので管理は慎重に。ただ、対応の尊厳には必要です』

怜子は、うなずいた。

「本人への配慮事項」

『はい。被害者対応を、案件管理だけにしないための欄です』

怜子は、個別対応表に新しい欄を作った。

本人への配慮事項

日下部澄江の行には、こう入力された。

担当保健師からの説明を希望。家族同席の可能性あり。近隣への知られ方について強い不安あり。専門用語を避ける。

それは、ほんの数十文字だった。

だが、そこに初めて、日下部澄江という人が少しだけ戻ってきたように感じた。

午後三時六分。

社内の空気が、変わり始めた。

第一報や外部調査委員会のときとは違う。今度は、従業員たちが被害者の声に触れ始めた。

コールセンターから共有される質問。A市から届く要望。SNSに投稿される住民の不安。日下部澄江の娘の言葉。

「資料みたいに扱わないでください」

その一言は、対策本部の中で何度も引用された。

遠野は、データ抽出用の画面を見ながら言った。

「項目名だけ見ていると、忘れますね」

瀬尾が答えた。

「忘れないと、作業できない瞬間もあります」

「でも、忘れたままではだめですね」

「はい」

佐伯が、通知文案を修正しながら言った。

「“対象者”という言葉も、使いすぎると冷たいです」

飯倉がうなずいた。

「“情報が関係する可能性のある方”に置き換えられるところは置き換えます。ただ、長くなる」

怜子は言った。

「長くなってもいいところは、長くしましょう」

山崎が補足した。

『全部を柔らかくすると、逆にわかりにくくなります。表では“対象者”を使い、本文では“情報が関係する可能性のある方”を使うなど、用途で分けるのがよいです』

飯倉が笑いそうになった。

「山崎さん、文章の交通整理までされるんですね」

『行政文書は交通整理に近いです。読む人が迷わないように、標識を立てる仕事です』

怜子は、その比喩に小さくうなずいた。

迷宮の糸。交通整理の標識。山崎の仕事は、目立たないが、迷った人を止める。

午後三時四十二分。

公開された十名のうち、最後の一人への一次連絡が終わった。

一人は連絡がつかなかった。一人は施設入所中で、家族と施設管理者への説明が必要になった。一人は、本人が強い怒りを示し、書面での説明と責任者の訪問を求めた。

椎名は、その報告を聞いて言った。

「訪問する」

怜子は、すぐに確認した。

「誰のところへですか」

「求めがあった方のところへ。私が行く」

須堂が慎重に言った。

「訪問自体は検討できます。ただし、社長ご自身が調査対象になる可能性がある中で、個別訪問の発言が後で問題になることがあります。A市と調整し、同行者、説明範囲、記録方法を決めるべきです」

飯倉が言った。

「メディアに出れば、パフォーマンスと見られます」

椎名は、疲れた顔で言った。

「では、行かないほうがいいのか」

怜子は答えた。

「行くか行かないかではなく、何のために行くかです」

「謝罪するためだ」

「謝罪は必要です。ただ、被害者の方が望んでいるのは、社長の姿か、具体的な説明か、今後の対応か。そこをA市経由で確認しましょう」

山崎が言った。

『訪問も、文書と同じです。相手のためなのか、会社の姿勢を見せるためなのか。目的が混ざると、相手に伝わります』

椎名は、しばらく黙った。

「わかった。A市と相談して決める」

怜子は、その発言を記録した。

企業の謝罪は難しい。行けばよいわけではない。行かなければよいわけでもない。頭を下げることで、相手の傷を会社の演出にしてしまうこともある。

謝罪は、会社のためにするものではない。

その当たり前のことが、危機の中では簡単に見えなくなる。

午後四時十八分。

A市の住民向け説明会を開く案が出た。

オンラインと対面の併用。高齢者向けに地域会館でも実施。手話通訳、要約筆記、紙資料。質問受付。後日配信。個別相談ブース。

アステリオンからは、椎名、怜子、瀬尾、遠野が出る案が出た。

A市の西森は言った。

『住民説明会では、技術的な詳細より、何が漏れた可能性があるのか、何をしているのか、住民は何をすればいいのかを優先してください』

遠野がうなずいた。

「わかりました」

『それと、専門用語は避けてください。“外部通信”“旧環境”“API”“フォレンジック”と言われても、住民にはわかりません』

遠野は少し困った顔をした。

「では、どう言えば」

山崎が助け舟を出した。

『“外部通信”は、“本来想定していない相手にデータが送られた可能性”。“旧環境”は、“買収前から使われていた古いシステム”。“フォレンジック”は、“専門会社による原因と範囲の調査”。ただし、正確性が落ちすぎないよう、説明資料の用語集を作りましょう』

遠野がメモを取った。

「用語集、作ります」

飯倉が言った。

「住民向け資料の最初に入れましょう。“この資料で使う言葉”」

山崎が言った。

『よいです。危機の説明会では、言葉の意味がずれると不信になります』

怜子は、また一つ表を作った。

用語。住民向け説明。専門的補足。使用可否。注意点。

佐伯がそれを見て言った。

「今日だけで、何個表を作っているんでしょう」

山崎が答えた。

『表は、混乱を四角くする道具です』

飯倉が、今度は本当に少し笑った。

「それ、山崎事務所のキャッチコピーにできますよ」

『検討します』

その小さな笑いは、すぐに消えた。だが、場の空気を少しだけ人間に戻した。

午後五時二分。

攻撃者から、次のメールが届いた。

件名は、今度は日本語だった。

名前を読め

本文は短い。

数字に戻すな。彼らには名前がある。まだ百人分ある。

添付ファイルはなかった。

だが、その一文だけで十分だった。

百人分。

飯倉が青ざめた。

「次を出すということですか」

遠野が言った。

「可能性が高いです。ただ、脅しだけかもしれません」

瀬尾が言った。

「公開済み十名への対応も終わっていないのに」

須堂が言った。

「交渉窓口に、公開抑止を再度試みさせます。ただし、身代金方針は変えない前提ですね」

椎名がうなずいた。

「変えない」

怜子は、攻撃者の文面を見つめた。

数字に戻すな。彼らには名前がある。

攻撃者は、倫理を語っている。だが、名前を晒しているのは攻撃者だ。人の尊厳を踏みにじりながら、会社に尊厳を思い出せと言っている。

その矛盾が、怜子には許せなかった。

しかし、攻撃者の言葉に怒るだけでは足りない。なぜその言葉が刺さるのか。それを見なければならない。

会社は、たしかに数字に戻そうとしていた。対象者数。最大範囲。件数。FAQ分類。問い合わせ件数。リスクレベル。

処理のためには必要だ。だが、処理だけでは償えない。

午後五時二十七分。

怜子は、対策本部の資料の冒頭に新しいページを追加した。

タイトル。

被害者対応の基本方針

本文は、短くした。

一、情報が関係する可能性のある方を、件数だけで扱わない。二、確認できていることと、確認できていないことを分けて説明する。三、本人に責任があるように読める表現を避ける。四、問い合わせや怒りを、会社にとっての負担ではなく、相手の不安として記録する。五、できないことを、できるように言わない。六、更新があるたびに、前の説明との違いを明らかにする。七、被害者対応を、広報・法務・行政対応の後ろに置かない。

山崎が言った。

『八つ目を入れてください』

「何でしょう」

『本人の希望する連絡方法や配慮事項を、可能な範囲で尊重する』

怜子は追加した。

八、本人の希望する連絡方法や配慮事項を、可能な範囲で尊重する。

瀬尾が言った。

「これ、社内全体に共有したほうがいいですね」

飯倉もうなずいた。

「コールセンターにも、役員にも、広報にも」

椎名が言った。

「全社に出そう」

須堂が少し考えてから言った。

「表現は確認しますが、方針としてはよいと思います」

怜子は、山崎に言った。

「山崎さん、これも整えていただけますか」

『もちろんです。ただ、これは御社の言葉として出すべきです。私は整えるだけです』

「わかっています」

山崎は、いつもそこを間違えない。

山崎行政書士事務所は、文書を作れる。整理表も、通知項目も、台帳も、手続の道筋も作れる。だが、会社の姿勢そのものは、会社が決めなければならない。

外部専門家は、誠実さを代行できない。

午後六時十二分。

百人分の追加公開に備え、個別対応チームが組まれた。

A市、アステリオン、コールセンター、地域包括支援センター、弁護士、フォレンジック会社。対象者が高齢者や要配慮者の場合の連絡順。家族への説明可否。施設入所者への連絡方法。メディア対応。拡散画像の削除要請。二次被害相談。

山崎は、役割分担表にまた一列を加えた。

相手に最初に接する人

怜子が聞いた。

「なぜ、この列を?」

『最初に接する人の言葉で、その後の信頼が決まるからです。責任者が誰かも大事ですが、最初に電話する人、最初に訪問する人、最初にメールを送る人はもっと大事です』

A市の西森がうなずいた。

『その通りです。日下部さんも、知らない会社から電話が来ていたら、もっと混乱したと思います』

怜子は、列を追加した。

相手に最初に接する人。

それは、法務の表としては珍しい列だった。だが、被害者対応の表としては必要だった。

企業は、責任者の名前を重視する。だが、人は最初に自分へ語りかけた人の声を覚える。

午後七時。

A市住民向け説明会の資料案が完成した。

表紙には、アステリオンのロゴは小さく入っている。A市の表記が先。タイトルは簡潔。

A市健康管理事業に関する情報流出の可能性について

最初のページには、こう書かれた。

本日は、確認できていること、まだ確認できていないこと、今後の対応を分けてご説明します。

二ページ目。

皆様に責任はありません。

三ページ目。

どのような情報が関係する可能性があるか。

四ページ目。

現在行っている対応。

五ページ目。

不審な連絡があった場合。

六ページ目。

問い合わせ先と今後の更新方法。

怜子は、資料をめくりながら言った。

「やっと、人に向けた資料になった気がします」

飯倉が答えた。

「まだ怖いですけどね」

「ええ」

山崎が言った。

『怖さが残っているのは、悪いことではありません。相手にとって怖い話なのですから』

怜子は、その言葉にうなずいた。

午後七時三十八分。

攻撃者の公開サイトに、新しい動きはなかった。

百人分は、まだ出ていない。

交渉窓口による時間稼ぎが効いているのか。攻撃者が次の効果的なタイミングを待っているのか。内部者との連携が切れたのか。それとも、百人分という脅し自体が虚偽なのか。

確認できない。

確認できないものは、確認できないと扱うしかない。

遠野は、公開サイト監視と削除要請の状況を報告した。

「SNS上の拡散画像は、一部削除されています。ただし、完全には止められません」

飯倉が言った。

「メディアから、公開された十名の名前について問い合わせが来ています」

怜子の顔が強張った。

「名前は絶対に出さない。こちらからも、確認しない。本人や家族への取材自粛を強く求める」

須堂がうなずいた。

「広報文に入れましょう。公開された情報の拡散や本人特定につながる行為を控えるよう要請する」

山崎が言った。

『住民向けにも、第三者が画像や名前を見つけた場合に拡散しないでほしい旨を入れるべきです。ただし、命令口調ではなく、二次被害防止のお願いとして』

飯倉が文案を作った。

公開または拡散されている可能性のある情報を見つけた場合でも、画像の保存、再投稿、氏名等の共有はお控えください。関係する方々への二次被害につながるおそれがあります。

怜子は、それを見てうなずいた。

会社が、初めて被害者の側に立って社会へ呼びかける文だった。

午後八時十五分。

椎名は、全社向けに短い追加メッセージを出した。

本件に関する対応では、情報が関係する可能性のある方々を、件数やデータ項目だけで扱わないでください。その一人ひとりに、生活があり、家族があり、知られたくない事情があります。私たちは、会社を守るためではなく、情報をお預かりした方々に向き合うために対応します。

この文には、法務の修正がほとんど入らなかった。

飯倉が言った。

「社長の言葉ですね」

怜子はうなずいた。

「ええ」

それが遅すぎたのか、まだ間に合うのか。怜子にはわからない。

だが、少なくとも椎名の言葉は、取締役会の沈黙とは違っていた。

午後八時五十六分。

日下部澄江の娘から、A市経由で短い連絡が届いた。

母はまだ不安がっています。ただ、市の保健師さんから説明を受け、少し落ち着きました。会社には、母のような人がほかにもいることを忘れないでください。

怜子は、その文を印刷し、対策本部の壁に貼った。

佐伯が聞いた。

「貼るんですか」

「個人名は伏せて、許可を得た範囲でね」

山崎が言った。

『よいと思います。ただし、感動話として扱わないことです。これは会社への要望です』

「わかっています」

怜子は、文の下に小さく書いた。

要望:忘れないこと。

午後九時二十三分。

百人分の追加公開は、まだ起きていなかった。

しかし、対策本部は休めなかった。

本人通知の印刷業者選定。郵送先の確認。戻り郵便対応。専用サイト更新。A市説明会のリハーサル。行政への更新報告。外部調査委員会への資料提出。ミナセ、オルフェ、ネレイドへの追加照会。ミュトス利用台帳の作成。法務共有領域の再整理。

やるべきことは、増える一方だった。

山崎が、ふと怜子に言った。

『真柴さん、通知文の最後に、更新予定を明記しましょう』

「次回更新日ですか」

『はい。何もなくても、次にいつ情報を更新するか。被害者の方は、待たされること自体が不安になります』

怜子はうなずいた。

通知文の末尾に、こう入れた。

次回の情報更新は、〇月〇日〇時を予定しています。新たに重要な事実が判明した場合は、予定時刻を待たずにお知らせします。

山崎が言った。

『よいです。沈黙の時間を短くする工夫です』

沈黙の時間。

取締役会の沈黙。会社の沈黙。通知を待つ人の沈黙。

沈黙は、危機の中で人を蝕む。

だから、次に話す時刻を約束する。それだけでも、少し違う。

午後十時四分。

攻撃者から、またメールが届いた。

件名はない。

本文は、一行。

You are learning too late.

学ぶのが遅すぎる。

怜子は、その文を見た。

その通りかもしれない。

遅すぎる。三年前に学ぶべきだった。六十四日前に気づくべきだった。Project Orpheusの前に止まるべきだった。ミナセの外部サービス利用時に確認すべきだった。山崎が旧台帳に貼ったラベルを、もっと早く見るべきだった。

だが、遅すぎるからといって、学ばない理由にはならない。

怜子は、攻撃者のメールを保存対象に入れた。

そして、返信はしなかった。

午後十時三十二分。

A市住民説明会のリハーサルが始まった。

遠野は、技術説明を短くするのに苦戦していた。

「攻撃者は、委託先の夜間監視環境を経由して、外部クラウド監視コンソールにアクセスし、旧環境の接続情報を……」

飯倉が止める。

「住民向けには長いです」

遠野は眉を寄せた。

「では」

山崎が言った。

『“本来は直接つながらないはずの複数のシステムや委託先の管理情報が、過去の引き継ぎや設定の不備によりつながっていた可能性があります”。どうでしょう』

遠野は、少し悔しそうにうなずいた。

「正確性は少し落ちますが、住民説明としては許容できます」

怜子が言った。

「補足資料に詳細を入れましょう」

瀬尾は、個人情報の説明を練習した。

「対象となる可能性のある情報は、氏名、住所、生年月日、健康診断情報、介護関連情報などです」

山崎が止めた。

『“など”の後に不安が残ります。全部言い切れない場合は、“主なものは”としてください。そして、詳細は表にする』

瀬尾は言い直した。

「関係する可能性のある主な情報は、以下の通りです」

怜子は、説明会資料を見直しながら思った。

これは、謝罪会見ではない。説明会だ。

謝るだけでは足りない。わかるように話す。わからないことをわからないと言う。怒りを受ける。質問を持ち帰る。次の更新を約束する。

それは、契約審査よりもはるかに難しい法務の仕事だった。

午後十一時十八分。

説明会リハーサルが終わった。

椎名は、最後に頭を下げる練習をした。

飯倉が言った。

「長すぎます」

椎名が顔を上げた。

「謝罪が?」

「はい。長く頭を下げれば誠実というものでもありません。言葉で説明してください」

椎名は、苦笑した。

「広報は厳しいな」

飯倉は、疲れた顔で答えた。

「住民はもっと厳しいです」

怜子は、そのやり取りを見ていた。

会社は少しずつ変わっている。本当に変わるかどうかは、まだわからない。だが少なくとも、社長に対して「頭を下げるだけでは足りない」と言える空気が生まれている。

それは、沈黙する取締役会とは違う空気だった。

午後十一時五十九分。

日付が変わる直前、百人分の追加公開は起きなかった。

対策本部に、ほんのわずかな安堵が流れた。

だが、その安堵は長く続かなかった。

午前零時二分。

ミュトスの監査ログから、新しい事実が見つかった。

遠野が、怜子を呼んだ。

「真柴さん」

「何」

「公開された十名のデータですが、攻撃者が外部から取得したデータと、完全には一致しません」

怜子は、疲れた頭で意味を捉えようとした。

「どういうこと?」

「攻撃者が最初に持っていたサンプルには、日下部さんの介護認定区分は含まれていました。ただ、保健師訪問履歴の一部は含まれていませんでした」

瀬尾が顔を上げた。

「でも、公開サイトには訪問履歴がありました」

「はい」

遠野は、画面を切り替えた。

「その訪問履歴は、A市への説明資料を作るために、昨日午後に社内で抽出した確認用データに含まれていました」

怜子の体が、一瞬で冷えた。

「つまり」

遠野は、重い声で言った。

「公開された十名分の一部項目は、攻撃者が最初から持っていたものではなく、当社の被害範囲確認作業の過程で作られた資料から出た可能性があります」

文書保管室の空気が止まった。

飯倉が呟いた。

「また内部から……」

佐伯は、口元を押さえた。

瀬尾は、椅子に座り込んだ。

怜子は、画面を見つめた。

被害者対応のために作った資料。A市に説明するための確認データ。漏えい範囲を特定するための抽出表。

それが、さらに漏れた。

救おうとして、傷を広げたのかもしれない。

山崎の声が、電話の向こうで低く響いた。

『その確認用データの作成者、保存場所、閲覧者、共有先、ダウンロード履歴を直ちに保全してください』

怜子は、返事をした。

「はい」

声がかすれていた。

山崎は続けた。

『被害者対応資料そのものが二次流出した可能性があります。これは、次章で扱うべき重大事項です』

怜子は、目を閉じた。

次章。

そうだ。

事件は終わらない。むしろ、会社が対応しようとするたび、別の傷が開く。

個人情報はデータではない。そのことをようやく学び始めた会社が、また名前を傷つけたかもしれない。

怜子は、震える指で議事録を開いた。

そして、逃げずに入力した。

午前零時二分。公開済み十名分のデータの一部について、当社が被害範囲確認作業の過程で作成した確認用データに由来する可能性を認識。二次流出の可能性として調査・保全を開始。

入力を終えたとき、怜子は日下部澄江の娘の言葉を思い出した。

母の名前を、社内で資料みたいに扱わないでください。

その願いに、会社は応えられたのか。

まだ、わからない。

だが、もし応えられなかったのなら、その事実もまた、隠してはならない。

怜子は、画面の中の一文を見つめた。

神話はもうない。残っているのは、名前だけだ。

そしてその名前を守れなかった会社が、今度こそ、名前を持つ人々の前に立たなければならなかった。

 
 
 

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