第八章 折り目の場所
- 山崎行政書士事務所
- 1月31日
- 読了時間: 6分

作文は、返ってくるときがいちばん重い。出すときは「手放す」重さで、読まれるときは「裸になる」重さで、返ってくるときは「自分のところへ戻ってくる」重さになる。戻ってくる重さは、逃げ場がない。
翌日、先生は机の列を回りながら、プリントみたいに淡々と原稿用紙を返した。淡々としているから助かる。特別扱いされると、言葉の方が居心地を悪くする。幹夫(みきお)の原稿用紙は、右上の角が少しだけ折れていた。折れている角は、誰かの指がそこに触れた証拠みたいで、幹夫は一瞬だけ息を浅くした。
紙の端に、鉛筆で小さく書き込みがあった。
「“匂い”で始まるの、強い。目の前の夏じゃなく、体の奥の夏が出てる」
体の奥の夏。その言い方が、褒め言葉の形をしているのに、どこか診断みたいに聞こえた。診断されると、隠していたものが見つかった気がする。見つかった気がすると、嬉しいより先に恥ずかしさが来る。
幹夫は原稿用紙を二つ折りにした。折り目をつけると、紙は少しだけ落ち着く。落ち着くのは、言葉がしまわれるからだ。しまわれると、また自分だけのものみたいな顔をする。
昼休み、俊が弁当を食べながら言った。
「先生さ、ああいうの好きだよな。匂いとか」
幹夫は「そうかも」と言いかけて、やめた。“好き”と言ってしまうと、あれが誰の文か、俊がちゃんと分かってしまう気がした。分かってしまうと、次の言葉が必要になる。次の言葉は、まだ用意できていない。
俊はそれ以上踏み込まず、唐揚げにレモンを絞った。レモンの匂いが一瞬だけ教室に広がる。酸っぱい匂いは、言葉より先に口の中を変える。変わった口で話すのは、少し難しい。
放課後、家へ向かう足はいつもより遅かった。遅いのは、寄り道のせいじゃない。鞄の中の紙が、歩くたびに少しずつ位置を変えるせいだ。紙は軽い。軽いのに、揺れると存在感が増える。
しずてつの踏切が鳴る前の一拍が来た。来た瞬間に、身体が分かる。“これから鳴る”と分かる時間が、いちばんうるさい――と、前に書きかけて消した言葉が、また喉の手前まで出てきた。出てきた言葉は、もう消せない。消せないから、黙る。
遮断機が下り、電車が通り過ぎる。窓の中に買い物袋。制服の肘。スマホを見下ろす目。生活はいつも通りに流れていく。いつも通りのものは、こちらに説明を要求しない。要求しないぶん、こちらの中の説明不足が浮く。
電車が去り、遮断機が上がる。幹夫は線路を渡りながら、鞄の中の原稿用紙を思った。あれは、もう“声になった紙”だ。声になった紙は、誰かの耳に触れた。触れた以上、もう完全には戻らない。
家の玄関を開けると、台所から湯の匂いが漏れてきた。祖母がやかんを鳴らす前の、あの気配。湯気が立つ前の、空気の揺れ。それは踏切の一拍と似ているのに、ここでは怖くない。続きが分かるからだ。湯が沸いて、茶が淹れられて、苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残るものがある、と知っている場所は、安心する。
「おかえり」
祖母の声は生活の匂いがする。幹夫は「ただいま」と言った。言い方は小さかったけれど、沈まなかった。沈まなかったのは、昼に読まれた紙が、胸の奥の段差を少しだけ低くしたからかもしれない。
居間では父がテレビをつけたまま、音量を小さくしていた。父は振り向かずに言った。
「……それ、返ってきたか」
それ、という言い方。名を呼ばないのに、指しているものが分かる。分かるから、胸の奥が少しだけ固くなる。固くなるのに、逃げないでいられる固さだった。
「……返ってきた」
父は一拍だけ間を置いた。間は短い。短い間ほど、わざと作った間に見える。わざと作る間は、言葉が足りない人の優しさにもなる。
「見ても、いいか」
父の口から“見てもいいか”が出たことに、幹夫は驚いた。驚いたせいで、返事が遅れる。遅れた返事は、拒否にも聞こえてしまう。拒否に聞こえないように、幹夫は原稿用紙を鞄から丁寧に取り出した。折り目を伸ばしすぎない。伸ばしすぎると、読まれた痕が消えてしまう気がした。
父は受け取った。受け取り方は乱暴じゃない。けれど丁寧すぎもしない。丁寧すぎると、怖さが見える。父は怖さを見せないための手の使い方を知っている。
父はその場で読まなかった。読まずに、居間の机の端に置いた。置き方が、湯飲みの底を畳に置くときみたいに静かだった。置く、というのは「ここに残す」という意味でもある。残すと決めたものだけが、机の上に置かれる。
「……茶ぁ飲め」
祖母が台所から言った。いつも通りの一言が、いまの家にはちょうどよかった。幹夫は湯飲みを両手で包んだ。熱が掌に移る。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。その順番の中で、父が机の端の紙に触れないままテレビを見ているのが、妙に大人の沈黙に見えた。
夜、風呂から上がって部屋へ戻ると、机の端の紙はなくなっていた。なくなった場所だけが、妙に白い。白い場所は、何かがあった証拠になる。証拠になると、胸の奥が少しだけ落ち着かない。
幹夫が寝支度をしていると、廊下で足音が止まった。父が戸を開けずに言った。
「……戻したぞ。机に」
それだけ。でも“戻した”という動詞には、いろんなことが混ざる。受け取った。見た。返した。――どれも言わないまま、戻した、だけで済ませる。済ませる言葉の中に、父の限界と誠実さが同じ量だけ入っている気がした。
幹夫は机を見た。原稿用紙は、元の場所にあった。ただ、折り目が一つ増えていた。増えた折り目は、紙を持ち上げた指の癖みたいだった。読み終えて、畳んだ場所。畳んだ場所は、読む人の“最後の手触り”になる。
幹夫はその折り目を指でなぞらなかった。なぞれば、痕が強くなる。強くなると、父が読んだことが“確定”してしまう気がした。確定してしまうと、次の言葉が要る。次の言葉は、まだ出せない。
その夜、スマホが震えた。母からだった。
「作文、見てみたい。 無理ならいい。写真でも、いつかでも」
“いつかでも”という逃げ道が、優しくて、かえって痛かった。痛いのに、ありがたい。ありがたいのに、返事が難しい。幹夫は原稿用紙の折り目を見つめたまま、返信欄を開いた。
写真。写真なら、紙の重さが減る気がする。でも、写真にすると、文字だけが裸になる。先生が名前を言わずに読んだときみたいに、戻ってくる場所がなくなる気がする。
幹夫は結局、短く打った。
「今度、持ってく」
送信を押したあと、胸の奥がきゅっと縮んだ。縮んだのに、固まらない。固まらない縮み方を、最近よくする。覚えてしまったということは、たぶん、世界の重さの入り口に足をかけているということだ。
窓の外で虫が鳴いた。蝉ではない、小さな声。夏が本気を出す前の声。その声は、続きがある鳴き方をしていた。途切れても、また鳴ける鳴き方。
幹夫は原稿用紙を二つ折りにした。折り目を合わせると、増えた折り目がぴたりと重なる。父の折り目と、自分の折り目が、同じ場所で噛み合う。
折り目は、答えじゃない。でも、折り目の場所には、誰かが触れた順番が残る。残る順番だけが、いまの幹夫にとっては十分だった。





コメント