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第十三章 朱肉の匂い

紙には、匂いがある。新しい紙の匂い。古い紙の匂い。写真の裏の匂い。コピーの、匂いのない匂い。そして――学校から来る紙には、どれとも違う匂いがある。印刷のインクの乾いた匂いと、「決めてください」と言ってくる匂いが混ざった、硬い匂い。

その日の帰りのホームルームで、先生が机の列を回って紙を配った。白い紙。A4。端がきっちり直角で、やけにまっすぐな顔をしている。

「三者面談のお知らせ。保護者に必ず渡して。期日までに提出ね」

“必ず”という言葉は軽いのに、胸の奥へ落ちると急に重い。幹夫(みきお)はその紙を受け取って、いったん机の上に置いた。置くと、紙が机の木目の上で少しだけ滑った。滑るだけで、紙が「ここにいる」を主張する。主張する白は、作文の白よりも、もっと硬い。

上のほうに、学校名と担任名。そして真ん中に、日程の表。その下に、太字で「保護者氏名」と「印」。印、という一文字が、花火の光みたいに急に目に刺さった。

幹夫は紙を二つ折りにした。二つ折りにすると、扱いやすくなる。扱いやすくなると、怖さも少し薄まる。それでも折り目は増える。折り目が増えるということは、誰かが触る順番が増えるということだ。

鞄に入れるとき、原稿用紙の折り目を思い出した。折り目がひとつ増えただけで、紙は別の紙になる。別の紙になってしまったものを、もう元に戻す方法はない。

放課後、しずてつの踏切が鳴る前の一拍が来た。来た瞬間に身体が分かる。「これから鳴る」と。遮断機が下りる前の、あの“止まれる時間”が、今日はいつもより長く感じた。

止まれる時間が長いと、考えが増える。増えた考えは、紙の中の「保護者氏名」と「印」のあいだに、勝手に居座る。

電車が通り過ぎ、遮断機が上がる。幹夫は線路を渡りながら、鞄の中の紙を、手の甲で確かめた。紙は軽い。軽いのに、軽いままでは持てない種類の軽さだった。

家に着くと、台所からだしの匂いがした。祖母が鍋を温めている匂い。湯気が立つ前の匂い。その匂いは内側へ沈む匂いで、学校の紙の硬さを、いったん胸の奥へ押し戻してくれる。

「おかえり」

祖母の声。幹夫は「ただいま」と返し、靴を脱いだ。靴を脱ぐという動作は、世界をいったん軽くする。外の砂を落とし、外の匂いを剥がす。剥がすと、言葉も少しだけ出やすくなる。

納屋のほうに回ると、父が茶袋の口を縛っていた。麻ひもが擦れる音。機械油の匂い。土の匂い。父の背中はいつも通り硬い。硬いのに、今日はその硬さが頼もしい。

幹夫は鞄から紙を出し、父の目の前に差し出した。差し出すと、紙が風にふわっと揺れた。揺れる紙は、決まっていないことを増やす。

父は紙を受け取って、目を落とした。目の落とし方が、茶畑の葉を見るときと少し似ている。一気に読まない。まず、全体の形を確かめる。次に、必要なところだけを見る。

「……面談か」

父の声は短い。“面談”という言葉が父の口から出ると、茶袋より重く聞こえた。

幹夫は「うん」とだけ返した。返した声は小さいのに、納屋の影の中では沈まなかった。

父は紙の下のほうまで視線を動かし、「印」のところで止まった。止まった時間は短い。短いのに、わざと作った間に見える。父は紙を片手で持ったまま、もう片方の手でポケットを探し――探さずに、いったん納屋の棚の方へ歩いた。

棚の引き出しを開ける。朱肉の蓋を開ける。あの、独特の匂いが立った。甘くないのに強い匂い。赤い色の匂い。

父が小さな判子を取り出すとき、幹夫は見てしまった。引き出しの奥に、もう一つ、別の判子があるのを。木の箱に入った、見慣れない形。父はそれに触れないまま、自分の判子だけを取り、引き出しを閉めた。

閉める音が、静かすぎた。静かすぎる音は、隠したいものがある音に聞こえる。

父は納屋の端の板の上で、朱肉に判子を押し、紙に“ぽん”と押した。押すときの力は強すぎない。でも迷いがない。迷いがない押し方は、決めてしまう押し方だ。

赤い印が、紙に残る。赤は小さいのに、紙の白を一気に現実にする。その赤は、花火の赤よりも遅く燃え、茶町の火入れよりも速く決まる色だった。

父は次に、「保護者氏名」の欄に自分の名字を書いた。書くときの鉛筆の音が、茶葉の擦れる音より乾いていた。乾いた音は、後から耳に残る。

書き終えて――父のペン先が、紙の端で止まった。止まった先に、小さな欄があった。「緊急連絡先(その他)」そして、その横に空白。

空白は、作文の余白と違う。空白は“書ける”場所ではなく、“書け”と言ってくる場所だ。

父は紙を持ったまま、視線を上げずに言った。

「……母さんの番号、今も同じか」

母さん、という言い方が、納屋の中の空気を少し硬くした。硬くなるのに、割れない。割れない硬さは、長いあいだ触られなかった場所の硬さだった。

幹夫は一拍遅れて答えた。

「……たぶん。LINEは、変わってない」

“たぶん”を入れたのは、確かめていないからじゃない。確かめたくない種類の確かさがあるからだ。確かにしてしまうと、次が動いてしまう。

父は「そうか」とも言わず、空白を見たまま、朱肉の蓋を閉めた。蓋が閉まる音は小さいのに、匂いだけはまだ残る。

父は紙を折り、幹夫に返した。

「……これ、出せ」

それだけ。段取りの言葉。段取りの言葉は、逃げ道にもなる。でも今日の「出せ」は、逃げ道ではなく、通り道を作る言い方に聞こえた。

夜、机の上でその紙を広げた。赤い印が、白の中で一番強い。文字より先に赤が見える。赤が見えると、紙はもう“家の紙”ではなく“外の紙”になる。外の紙は、世界を動かす。

スマホを手に取る。母に、連絡しなければならない。“しなければならない”は重い。重いのに、画面を点ける指は震えなかった。

幹夫は短く打った。

「学校の面談の紙きた。連絡先、書く欄ある」

送信して、スマホを伏せた。暗い画面に映る自分の目は、どこか「連絡係」の目をしていた。連絡係の目は、子どもの目のままではいられない気がする。

しばらくして、返信が来た。

「うん、書いて。番号は変わってない。 面談、行ったほうがいい? お父さん、なんて?」

“お父さん”という文字が、画面の上で光る。光る文字は、紙の赤より軽い。軽いのに、軽さの中に痛みがある。

幹夫は「わからない」と打って、消した。「別に」と打って、消した。どれも違う気がした。

結局、こう打った。

「父ちゃん、番号聞いた」

それだけ。それ以上は書かなかった。書けなかったのではなく、今日はそれで足りる気がした。足りるというより、これ以上書くと、判子の赤がもう一段濃くなる気がした。

母からの返信は短かった。

「そっか。ありがとう。 面談、行ける日なら行く。無理なら言って」

無理なら言って、という逃げ道が、優しくて、かえって胸に残る。逃げ道があると、逃げないことを選んだとき、選んだ重さがはっきりする。

幹夫は返事を打たなかった。代わりに、机の上の紙を二つ折りにして、鞄に入れた。折り目が増える。折り目が増えることは、触る順番が増えることだ。

窓の外で虫が鳴いた。蝉ではない、小さな声。夏が本気を出す前の声。その声は、途切れてもまた鳴ける鳴き方をしていた。

幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど朱肉の匂いと、紙の空白と、父の一瞬の止まり方が――これから来る「会う」よりも手前の重さを、先に知らせてしまうことがあるのだと、その夜の机の端で、指先だけがそっと覚えていた。

 
 
 

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