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第十六章 受話器の熱

紙は、終わったはずのことを、平気な顔でまた始めさせる。赤い印のある紙。折り目の増えた紙。匂いから始まった紙。そして今日の紙は、インクとトナーの乾いた匂いに、やけに軽い言葉を貼りつけてきた。

「同意書」

放課後、担任が机に置いた薄い紙の上に、その二文字があった。同意、というのは肯定の形をしている。けれど幹夫(みきお)には、肯定というより「決めてください」の言い換えに見えた。決めてください、と言われると、決めないで済ませてきたところが浮く。浮くと、胸の奥が少しだけ狭くなる。

「校内文章コンクールの推薦、幹夫。出していい?」

先生の声はいつも通り穏やかで、穏やかな声は断りにくい。断りにくいことを知っているのに、先生は押しつけてこない。押しつけてこないぶん、こちらが自分で押してしまう。

幹夫は小さく頷いた。頷きは声より先に出ることがある。声は形を選ぶけれど、頷きは形が少ない。形が少ないものは、逃げ道も少ない。

紙の下に、署名欄があった。「保護者署名」その横に、小さく二行分の空白。

空白が二つあると、世界は「二つ書ける」を前提にしている。二つ書ける前提は、二つ書かないといけない前提にもなる。空白は作文の余白と違って、こちらの息に合わせてくれない。

幹夫は紙を二つ折りにして、鞄に入れた。折り目が増える。折り目が増えると、触る順番が増える。順番が増えるということは、誰かを増やすということにも似ている。

帰り道、踏切は鳴る前にいちばんうるさかった。遮断機が下りる前の一拍。止まれる一拍。止まれるから、考えてしまう。考えるから、うるさくなる。

電車が通り過ぎる。窓の中に、買い物袋と制服の肘と、スマホを見下ろす目。生活はいつも通り流れていく。いつも通りのものは、こちらに答えを要求しない。要求しないから、こちらの中の答え不足だけが目立つ。

家に着くと、だしの匂いが先に迎えた。祖母が鍋を温めている匂い。湯気が立つ前の匂い。その匂いは内側へ沈む匂いで、学校の紙の硬さを、いったん胸の奥へ押し戻してくれる。

「おかえり」

祖母の声。幹夫は「ただいま」と返して、鞄の中の紙を手のひらで確かめた。紙の角が指に当たる。角の硬さは、逃げ道を減らす硬さだった。

納屋のほうから、麻ひもの擦れる音がした。父が茶袋の口を縛っている音。土と機械油と茶の青さが混ざった匂い。混ざった匂いは、どこにも属さないのに、ここだけの匂いだった。

幹夫は納屋の入口で、いったん呼吸を整えた。整えるというほど整わない。でも整えるふりをすると、口が動かしやすくなる。

「……父ちゃん」

父は振り向かずに「ん」と返した。短い返事。短い返事は、続きを待つ返事だ。

幹夫は鞄から紙を出し、差し出した。紙が風でわずかに揺れる。揺れる紙は、決めていないことを増やす。

父は受け取って、目を落とした。最初に全体を見る。次に必要なところだけ見る。茶畑の畝を見るときと同じ目の動き。

「……同意書か」

父の声は短い。“同意書”という言葉が父の口から出ると、印鑑の赤よりも現実に聞こえた。

父の視線が、署名欄で止まった。二行分の空白。止まった時間は短い。短いのに、わざと作った間に見える。わざと作った間は、言葉が足りない人の優しさにもなるし、怖さの隠し場所にもなる。

父は紙の端を指で押さえて、皺にならないように整えた。整える動作は、言葉の代わりに「受け取った」を作る。受け取ったことが先に作られると、こちらも少しだけ息が深くなる。

「……いつまでだ」

「……来週」

父は頷かなかった。代わりに、紙を二つ折りにして、納屋の棚の端に置いた。置き方が、湯飲みの底みたいに静かだった。静かに置くと、物は逃げない。逃げないぶん、後でちゃんと向き合わされる。

夜。風呂上がりの廊下は、昼の熱が少しだけ残っていて、畳が生っぽい匂いをしていた。台所からは祖母の片付けの音。湯気はもうないのに、茶の匂いだけが部屋の隅に残っている。

幹夫が自分の部屋で机に向かっていると、居間の方で、引き出しが開く音がした。次に、蓋が外れるような小さな音。そして――朱肉の匂いが、遅れて廊下へ流れてきた。

朱肉の匂いは、甘くないのに強い。あの赤い色の匂い。匂いがすると、紙が動く気配がする。紙が動く気配がすると、胸の奥が先に狭くなる。

幹夫は鉛筆を持ったまま、耳だけを居間に向けた。言葉は聞こえない。でも、父の呼吸の間合いだけが分かる。息を吸って、吐いて、どこかで止める。止めた息は、言葉になり損ねた息だ。

しばらくして、電話の呼び出し音がした。家の電話の、少し古い音。鳴る前の一拍がない音。鳴ったらすぐ鳴る音。踏切より優しくない。優しくないけれど、迷いを挟ませない音だった。

父の声が、低く聞こえた。

「……もしもし」

それだけで、幹夫は分かった。母へかけている。分かった瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。縮むのに、固まらない。固まらない縮み方を、最近よくする。

父は続けた。言葉は途切れ途切れで、こちらの部屋まで全部は届かない。届かないけれど、断片だけが残る。

「……学校の……紙……」「……署名……二つ……」「……来週……」「……無理なら……」

“無理なら”という言葉が、父の口から出たことに、幹夫は驚いた。父は普段、無理ならと言わない。段取りを先に決める。決めて、進める。無理なら、は逃げ道を置く言葉だ。逃げ道を置くということは、相手の中に事情があると認めることだ。

居間の向こうで、父の声が少しだけ小さくなる。小さくなると、聞き取れない。聞き取れないのに、声の温度だけが分かる。温度は、言葉より先に届く。

しばらくして、父が一度だけ、短く笑ったような息を吐いた。笑いではない。でも、険がほどけたときの息に似ていた。

「……ああ。……そうか」

父の「そうか」が、今夜は柔らかく聞こえた。柔らかい「そうか」は、相手の言葉を受け止めている「そうか」だ。受け止める「そうか」は、家の中の空気を少しだけ動かす。

電話が切れる音。切れたあとの静けさは、踏切の後の静けさより、ずっと重い。重い静けさは、そこに「誰かがいた」を残す。

父は何かを机に置いたらしい。紙が擦れる音がした。それから、ペンの先が紙を走る音。乾いた音。乾いた音は、後から耳に残る。

幹夫は鉛筆を持ったまま、何も書けずにいた。書けないのではなく、今夜は書く場所が違う。文字が置ける場所と、置けない場所がある。置けない場所は、だいたい胸の奥にできる。

翌朝、納屋の棚の端に置かれていた紙は、封筒に入れられていた。折り目は増えていない。朱肉の赤が、折り目の内側に隠れているのが分かる。隠れているのに、あると分かる。その分かり方は、富士が雲に隠れていても「いる」と分かる分かり方に少し似ていた。

父は朝飯を食べながら、いつもより言葉が少なかった。少ないというより、言葉の中身を使い切ったあとの静けさだった。使い切った静けさは疲れているのに、どこか落ち着いて見えることがある。

祖母が湯飲みを置いて言った。

「紙、出すだら?」

父は短く言った。

「……出す」

それだけ。段取りの声。でもその段取りは、昨日までの段取りと少し違う匂いがした。誰かを避ける段取りではなく、誰かと並ぶ段取りの匂い。

学校へ行く道で、幹夫のスマホが震えた。母からだった。

「昨日、お父さんから電話きた。 びっくりしたけど……ありがとう。 面談のときみたいに、また一緒に行ける日、作ろうね」

“びっくりした”の後ろに、言葉がいくつも隠れているのが分かった。嬉しい、怖い、懐かしい、まだ痛い。どれも混ざって、短い文になっている。

幹夫は返信欄を開いて、しばらく止まった。止まった指は、便利な言葉を探す。便利な言葉はいつでも見つかる。でも便利な言葉ほど、本当のところをこぼしてしまう。

幹夫は、短く打った。

「うん」

送信して、画面を伏せた。暗い画面に映る自分の目は、昨日より少しだけ「橋」ではなく、「道」の目をしていた。橋は両岸の間に立つ。道は、同じ地面の上を続く。続くとき、重さは一気に来ない。少しずつ、足の裏に分かれて来る。

幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど受話器の熱が冷めるまでのあいだ、声は駿河湾に沈むのではなく――沈まない場所を探して、静かに形を変えることがあるのだと、その日の踏切の一拍より短い瞬間に、指先だけがそっと覚えていた。

 
 
 

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