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第10章 出雲、川がゆっくり語る


第二部「光と嵐の間」

第10章 出雲、川がゆっくり語る

速い風は、いつも居場所を壊す。けれど遅い川は、居場所をつくる。流れは急がず、同じところを撫で続け、ついには土に「ここでいい」と言わせてしまう。

天岩戸の章を書き終えると、部屋の中に「祭のあと」の匂いが残った。墨の匂いに、ほんの少しだけ汗の気配が混じる。紙面から笑いが立ち上がる、というのはおかしな話だが、笑いは音で、音は湿り気に染みる。染みたものは、あとから匂いになる。

ナガタが、机の端に頬杖をつきながら言った。

「……で、次は出雲か」

出雲、と言った瞬間、部屋の空気が少し遅くなる気がした。高天原の出来事はいつも速い。神々はすぐ怒り、すぐ隠れ、すぐ踊る。息が短い。だが出雲は、息が長い。川が長い。湿り気が深い。

「そうだ」私は硯に水を足しながら答えた。「天の話の次に、地の話を置く。地の速度を入れないと、この国が薄くなる」

ナガタはあくびを飲み込み、目を細めた。

「地の速度、ね。上は嫌がるぞ。“退屈”って言う」「退屈は、暮らしだ」私は墨を摺り、黒をゆっくりほどく。「暮らしがなければ、建国はただの掛け声になる」

ナガタは紙束をめくって、異伝の端を指で叩いた。

「ほら。こっちは“簸の川上”って書く。こっちは“肥の河上”。こっちは“斐伊”だ。川の字面が落ち着かない」「川は、落ち着かないのが本性だ」「でも“ゆっくり語る”って言ったのはお前だぞ」「落ち着かないものが、ゆっくり落ち着こうとする。そこに物語がある」

ナガタは、半分呆れた顔で笑った。

「出雲ってさ、何がいいんだ」「川だ」私は即答した。「川が、しゃべりすぎない。しゃべりすぎないから、聞く者の胸がしゃべり出す」

ナガタは、少しだけ真面目な顔になった。

「……素戔嗚が、そこで変わるんだな」「変わる」私は頷いた。「嵐が、ただの嵐ではいられなくなる」

私は筆を取った。黒を濃くしすぎない。ここは闇の続きではない。だが光の章でもない。川の章だ。濃淡の“中ほど”が要る。

——素戔嗚尊、天を逐はれて、地に降りましき。

風は、降りるときに匂いを拾う。

天では匂いが薄い。薄いのは清らかだからではない。天は匂いを地に落としてしまうからだ。匂いは重い。重いものは沈む。沈んだ匂いは土に溜まり、苔に染み、川に混じる。

素戔嗚は、降りた。

降りる、という言葉は簡単だが、降りるという行為は、胸の奥がしんとする。追放された者が降りるのは、移動ではない。居場所の交換だ。天の居場所を失い、地の居場所をまだ持たない。持たない状態のまま、風だけが先に走る。

素戔嗚の足が地に触れた瞬間、草がひるんだ。草は、風に慣れている。だが“人格を持った風”には慣れていない。草は人に触れられるときのように、少しだけ身構える。

「……ここが、地か」

素戔嗚が言う。声は、天で泣いていた声より低い。低い声は、土に届く。土に届いた声は、すぐに吸われる。吸われた声は返ってこない。返ってこないから、言葉は慎ましくなる。

素戔嗚は歩いた。

歩きながら、匂いを吸い込む。木の匂い。湿った葉の匂い。遠い焚き火の匂い。焚き火の匂いがあるということは、人がいるということだ。人がいるということは、暮らしがあるということだ。暮らしがある場所は、神でも乱暴には触れにくい。乱暴に触れれば、壊れるのは神殿ではなく鍋だ。鍋が壊れれば、腹が空く。腹が空けば、祈れない。

風は、鍋に弱い。

そういう弱さが、出雲の空気にはあった。

やがて素戔嗚は、川に出た。

川は、山から降りてきた水だった。水は冷たく、しかし冷たさが尖っていない。尖っていない冷たさは、人を怒らせない。怒らせない水は、長く触れられる。長く触れられるものは、心をほどく。

川は急がない。

急がないというより、急げない。川は、土の説得に時間を使っている。ここを削る、あそこを残す、ここを曲がる、あそこで溜まる——土と相談しながら進む。相談は遅い。遅い相談は、嘘をつきにくい。

素戔嗚は川の音を聞いた。

川の音は、天の太鼓と違う。天の太鼓は、闇に穴を開けるために鳴る。川の音は、穴を塞がず、ただ撫で続けるために鳴る。撫で続ける音は、怒りを薄める。薄まった怒りは、涙に変わる。涙に変わる怒りは、ようやく言葉になる。

そのとき、素戔嗚は聞いた。

泣き声。

天で聞いた泣き声とは違う。風の泣き声ではない。腹の底から、ゆっくり立ち上がる泣き声だ。泣き声がゆっくりだと、こちらの胸もゆっくり痛くなる。

川上に、老いた夫婦がいた。

男は足を引きずり、女は手を震わせ、二人とも、泣き方が疲れていた。疲れた泣き方は、泣き止む気力を残していない。泣き止まない泣き声は、川の音に溶けて、いっそう遅くなる。

二人の間に、若い娘が立っていた。

娘は泣いていない。泣いていないのに、泣き声の中心にいる。泣き声の中心にいる者は、泣かない。泣けば崩れるからだ。崩れたら、残りの者も崩れる。

素戔嗚は近づき、言った。

「何ゆえに泣く」

問う声が、天での問いと違う。天での問いは怒りの問いだった。いまの問いは、風が初めて“居場所”を探す声だった。

老いた男が答える。

「我らは、足名椎(あしなづち)、手名椎(てなづち)。この娘は、櫛名田比売(くしなだひめ)。……泣くは、理由が尽きぬゆえ」

理由が尽きぬ、という言い方は重い。尽きぬ理由は、毎年の洪水みたいだ。止まらない。止まらないから、暮らしの方が先に折れる。

素戔嗚は川を見た。川は何も言わない。言わないが、黙っているわけでもない。黙って流れて、全部聞いている。

老いた女が続ける。

「この川上に、恐ろしきものあり。八つの頭、八つの尾。目は赤く、腹はいつも濡れて、山を越えて来ては、娘を喰ろうてゆく」

——八岐大蛇(やまたのおろち)。

名を口に出した瞬間、空気の匂いが変わる。土の匂いが、少し鉄に近づく。川の匂いが、少し血に近づく。恐れは、匂いで先に来る。恐れの匂いは、人の背中を丸める。

足名椎が、指を折って数えるように言う。

「娘は八人ありき。されど一年に一人ずつ、喰われて、残るはこの櫛名田比売のみ」

一年に一人ずつ、というのが、胸に刺さった。黄泉の坂で交わされた数の約束を思い出す。千人、千五百。数は冷たい。だが一年に一人、という数は、冷たいだけではない。季節の匂いがする。春が来るたびに、喪が来る。夏が来るたびに、覚悟が来る。秋が来るたびに、諦めが来る。冬が来るたびに、次の年の恐れが育つ。

それを、川は見てきたのだろう。川は、ゆっくり語る。語るというより、記憶する。記憶したものを、誰かの足元へそっと運ぶ。

素戔嗚は、娘を見た。

櫛名田比売の髪は、川の光を吸っていた。川の光は、太陽の光より柔らかい。水が一度噛んでから返す光だ。噛んだ光は角が取れる。角が取れた光は、人の顔を痛くしない。

素戔嗚の胸の奥で、何かがほどけた。

ほどけたのは、怒りかもしれない。それとも、居場所を失ったままの怖さかもしれない。

素戔嗚は言う。

「そのものを、我が退けん。されど——この娘を、我に賜れ」

言葉は乱暴だ。けれど乱暴さの裏に、縋るような匂いがあった。居場所を失った者が、居場所を“縁”として作ろうとする匂いだ。

足名椎と手名椎は、顔を見合わせた。見合わせるだけで、答えが揺れる。答えが揺れると、川の音が少し大きくなる。川は、迷いを責めない。迷いを流して、少しずつ澄ませる。

手名椎が、震える声で言った。

「汝は、天の神にあらずや」

素戔嗚は頷いた。頷き方が、どこか疲れている。誓約を終え、岩戸を開け、追われて降りてきた疲れだ。

足名椎が言う。

「天の神ならば……頼み奉る。この娘を救い、妻とせよ」

妻、という言葉が出た瞬間、風が少し止まった。風が止まるというのは、あり得ないようで、確かに起こる。人が誰かを「ここだ」と決める瞬間、胸の中の風は止まる。止まった風の代わりに、息が深くなる。

素戔嗚は、川辺に座った。

座る、という行為が、ここでは大事だった。天の神は立ったまま世界を見下ろしがちだ。だが川辺に座ると、目線が土に近づく。土に近づいた目線は、暮らしを見つける。暮らしを見つけると、手が動く。

素戔嗚は言う。

「酒を造れ」

老夫婦は目を瞬かせた。

「……酒?」「酒だ」素戔嗚は川を見た。「川は急がぬ。酒も急がぬ。急がぬものは、強い。強い酒で、あれを眠らせる」

酒を造るとは、時間を味方につけることだ。時間は、嵐の子が一番苦手なものだ。苦手なものを味方にしようとしているところが、素戔嗚の変わり目だった。

素戔嗚は、櫛名田比売を見て言う。

「ひとつ、頼みがある」

娘は、初めて小さく頷いた。頷きの角度が、川の曲がり方に似ていた。無理をしない曲がり方だ。

素戔嗚は、娘をそっと手に取る。

手に取る、という言い方は変だ。だが神話は、こういう乱暴な言い方を許す。乱暴さの中に、守りの手つきが混ざることもある。

——一書曰く、櫛名田比売を櫛に変へて、髪に挿す。

櫛。

櫛という道具が、また出てくる。黄泉では櫛を折って火にした。禁を破るための火だった。ここでは櫛が、守りになる。命を隠すための形になる。同じ道具が、違う役目を持つ。違う役目を持つことで、世界は「やり直し」を覚える。

素戔嗚の髪に挿された櫛は、ぬくもりを持った。

川の音が、その瞬間だけ少し明るく聞こえた。川が“ゆっくり語る”というのは、こういうことだ。川は、誰かが変わる瞬間を、騒がずに祝う。

素戔嗚は立ち上がり、言った。

「八つの門を作れ。八つの棚を立てよ。八つの甕を据えよ。酒を満たせ」

言葉はもう、嵐の叫びではない。段取りの言葉になっている。段取りは、暮らしの言葉だ。

老夫婦は頷き、娘の代わりに、深く頭を下げた。頭を下げる仕草の重さに、年輪がある。年輪がある仕草は、神をも急がせない。

素戔嗚は川を見た。

川は流れている。流れているのに、急いでいない。急いでいないのに、止まっていない。その流れ方が、これからの戦いの手本になる。

嵐の子は、そこで初めて「待つ」という技を覚えた。

「……出雲、いいな」

ナガタが、私の紙面を覗き込みながら言った。声が少し柔らかい。

「いい」私は頷いた。「川が、勝手に叙情を連れてくる」

ナガタは、櫛のくだりを指でそっと叩いた。

「櫛、戻したな」「戻した」「黄泉の火の櫛が、守りの櫛になる。……やり直しって、こういう形が好きだな」「この国が好きなんだ」私は言った。「同じ道具で、別の生き方を覚える国だ」

外では、風が一度だけ枝を揺らした。だが出雲の川の音は、揺れない。揺れないからこそ、風はその上で暴れられる。暴れても、戻ってこれる場所がある。

私は紙の余白に、次の題を置いた。

——第11章 オロチは川の名残。

 
 
 

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