第11章 オロチは川の名残
- 山崎行政書士事務所
- 2月11日
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第二部「光と嵐の間」
第11章 オロチは川の名残
大きな災いは、だいたい「水の顔」をして来る。角を持たず、牙も見せず、ただ、増えて、広がって、いつもの岸を、いつもの岸でなくしてしまう。——それを人は、恐れの名で呼ぶ。
「……オロチ、どう書く」
ナガタが言った。出雲の章を書き終えた紙の余白を、指先でそっと撫でる。余白を撫でる指は、紙の湿り気を測る。湿り気は、次の出来事の匂いを予告する。
「怪物として書けば、すぐ終わる」私は硯の水を見ながら答えた。「でもそれだと、出雲の川が黙ってしまう」
ナガタが鼻で笑う。
「川に口はない」「ない。だからこそ、こちらが言葉を間違えると、すぐ嘘になる」私は墨を摺った。「オロチは、川の名残だ。洪水の記憶だ。濡れた土の怒りだ。——それを“ただの怪物”にすると、土地の怖さと優しさが削れる」
ナガタは異伝の束を引っ張り出し、あの便利で腹立たしい札を見せた。
——一書曰く。
「こっちは“八岐”の説明がやたら丁寧だ」「丁寧なのは怖いからだ」「こっちは腹が赤いって強調する」「水が赤く濁るときの色だ」「こっちは苔が生えてる」「流木の苔だ」
ナガタは一枚の紙をひらひら振って、ふっと肩を落とした。
「……結局、台風みたいなもんだな」「そうだ」私は頷いた。「だけど台風は斬れない。斬れないものを斬ったふりで書くのが神話で、斬れないものと折り合う手順を書くのが風土だ」
ナガタは少しだけ目を細めた。
「酒、だな」「酒だ」私は言った。「酒は刃じゃない。時間だ。米だ。水だ。火だ。——人の手だ」
ナガタがぼそりと言う。
「神話の解決が、だいたい発酵に寄るの、好きだなこの国」「好きというより、仕方ない」私は笑った。「急がないと勝てない相手に、急がない方法で勝つ。——それが、川の国の癖だ」
私は筆を取った。出雲の川の音の上に、少しずつ、酒の匂いを置いていくために。
素戔嗚は、言った。
「酒を造れ。強き酒を」
老夫婦は頷いた。頷きは、暮らしの頷きだ。暮らしの頷きは、約束を含む。約束を含んだ頷きは、時間を動かす。
米を洗う。
川の水で洗う。冷たい水は、米の白を際立たせる。白い米は、まだ“何者でもない”匂いを持つ。何者でもない匂いは、これから何にでもなれる匂いだ。国の始まりの匂いに似ている。
蒸す。
湯気が立つ。湯気は、地の底からの息とは違う。人の火の息だ。人の火の息は、柔らかい。柔らかい湯気は、家の匂いになる。
麹を入れる。
見えない働きが始まる。見えない働きは、信じるしかない。信じるしかない時間は、心を静かにする。静かになった心は、川の音を聞ける。
甕を並べる。
八つ。八つという数は、正確な数ではない。多い、という気持ちの数だ。多いという気持ちの数は、恐れとよく似ている。恐れが多いと、人は手を増やす。手を増やすと、段取りが生まれる。
門を作る。
八つ。棚を立てる。
八つ。甕を据える。
八つ。
同じ言葉を繰り返すと、呪文になる。呪文になると、恐れが少しだけ整う。整った恐れは、逃げるだけではなく、待つことができる。
待つ間、川は流れる。
出雲の川は、急がない。急がないまま、同じ土を撫で続ける。撫で続けられた土は、やがて「ここが岸だ」と言い出す。岸が言い出せば、人はそこに立てる。立てれば、身構えられる。
櫛名田比売は、櫛の姿で素戔嗚の髪に挿されていた。
櫛は、言葉を持たない。だが櫛は、肌に近い。肌に近いものは、胸の鼓動を聞く。櫛名田比売は、素戔嗚の胸の鼓動を聞きながら、ただ祈る。祈りは音を出さない。音を出さない祈りは、強い。
やがて、空気が変わる。
川上の風が、いきなり重くなる。重くなった風は、木の葉の裏側をめくり、湿った匂いを表に出す。湿った匂いが濃くなると、土が先に怯える。土が怯えると、川の音が少し高くなる。高くなった川の音は、来るものを知らせる。
来た。
八岐大蛇。
それは蛇というより、「増水した川の姿」だった。頭が八つ、尾が八つ、というのは、枝分かれした流れの数だ。ひとつの胴が、谷を跨いでうねり、そのうねりの隙間から、別の流れが顔を出す。顔を出した流れが、また別の谷へ伸びる。
大蛇の腹は赤い。
赤いのは血ではない。赤いのは、土が削られて水に混ざった色だ。赤土の濁りは、山が怒っている色であり、同時に、田が肥える色でもある。怖いのに、どこか懐かしい。
大蛇の背には苔が生えている。
苔は、水が長く触れた証拠だ。長く触れたものに苔は生える。苔が生えるほどこの災いは古い。古い災いは、伝承になる。伝承になると、人は備える。備えがある災いは、まだ勝てる。
大蛇は、門の前で匂いを嗅いだ。
嗅いだ匂いは、酒だった。
酒の匂いは、米と水と火と時間の匂いだ。時間の匂いに、災いは弱い。災いは急に来る。急に来るものは、ゆっくりしたものに足を取られる。
大蛇は、甕に頭を突っ込んだ。
酒が減る音がする。ごくごくという音は、川の音に似ている。だが川の音より、だらしない。だらしない音は、勝てる音だ。
八つの頭が、八つの甕に吸いつく。
八つの尾が、八つの門の隙間から伸びる。
大蛇は飲む。飲んで、飲んで、飲んで——
やがて、大蛇は眠る。
眠りは、世界が一瞬だけ隙を見せることだ。隙を見せた瞬間、人は動く。動かなければ、隙はすぐ閉じる。
素戔嗚は立った。
立ち方が、天のときと違う。天では、立つことが威嚇だった。ここでは、立つことが仕事だった。仕事の立ち方は、静かだ。
剣を抜く。
剣は、空気を切る。空気が切れると、匂いが立つ。鉄の匂い。鉄の匂いは、血を呼ぶ匂いだ。だがここで呼びたいのは血ではない。ここで呼びたいのは、「終わり」だ。
素戔嗚は、胴を斬った。
——と、書くのは簡単だ。だが実際は、斬るというより、押し返す。流れを、別の溝へ押しやる。勢いを、勢いのまま逃がす。災いの背中に刃を当てて、向きを変える。
大蛇の身体から、濁りが溢れる。
溢れた濁りは、すぐに土へ吸われる。土は、濁りを拒まない。拒まない土は、苦労を覚える。苦労を覚えた土は、春に芽を出す。災いの跡が、肥えになる。この国は、そうやって怖さを暮らしに編み込む。
素戔嗚は、尾を斬った。
尾を斬るとき、剣の手応えが違った。肉の手応えではない。硬いものに当たった手応え。
——何かがある。
素戔嗚は、もう一度斬り、刃を確かめる。
尾の中から、光るものが出てくる。
剣。
剣が剣を生む。鉄が鉄を見つける。水の災いの奥から、乾いた刃が出てくる。それは不思議というより、川の癖だ。川は、上流から流れてきたものを沈め、沈めたものを、別の時代に掘り起こさせる。
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)。
名を付けた瞬間、剣はただの武器ではなくなる。記憶になる。象徴になる。そして象徴は、いつか人を動かす。
素戔嗚は、その剣を持ち上げた。
酒の匂いと、血の匂いと、鉄の匂いが混ざる。混ざった匂いは、戦いの匂いではなく、どこか“祭のあと”の匂いに近い。片づけの匂い。終わったあとの、息の匂い。
老夫婦が、泣いた。
泣き方が、さっきと違う。恐れの泣き方ではない。終わったことを体が信じきれなくて、遅れて出てくる涙だ。遅れて出てくる涙は、温かい。
櫛名田比売の櫛が、素戔嗚の髪の中で震えた。
震えは、まだ解けきらない緊張の名残だ。名残があるから、国は用心を覚える。
素戔嗚は、言った。
「ここに住む」
その言葉が、出雲の川に落ちた。川は相変わらず急がない。けれど、その一言の重さだけは受け取り、いつもの音のまま、少しだけ柔らかくなった気がした。
素戔嗚は、須賀に宮を作る。
宮を作るというのは、居場所を作るということだ。居場所ができると、嵐は嵐のままではいられない。嵐は、屋根の角度を気にし始める。壁の厚みを考え始める。雨樋の位置を迷い始める。迷い始めると、暮らしに近づく。
素戔嗚は、歌を詠んだ。
八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を
歌は、宣言ではなく、手触りだ。八重垣という言葉の重なりが、囲う気持ちの重なりになる。囲うというのは、閉じ込めることではない。守るために、風の入り口を決めることだ。風の入り口が決まれば、家は家になる。
「……“川の名残”でいけたな」
ナガタが言った。紙面を見ている目が、少し落ち着いている。出雲の川に、彼の息も引っ張られたのだろう。
「いけた」私は頷いた。「オロチを“斬った”っていうより、“向きを変えた”感じにした。治水の匂いを残したかった」
ナガタは、剣のくだりで指を止めた。
「で、出るんだな。剣が」「出る」「都合よすぎないか」「都合がいいから、象徴になる」私は言った。「象徴っていうのは、だいたい都合がいい。都合がいいものだけが、人を動かす」
ナガタは少し笑った。
「じゃあ次は、その“都合のいい象徴”を、どう厄介にするかだな」「厄介にする」私は静かに頷いた。「剣は勝利の証じゃない。災いの記憶でもある。風土の怖さの形でもある。——だから、残る」
外で、風が一度だけ吹いた。出雲の川の音は、変わらない。変わらない音があるから、風は暴れても戻ってこられる。
私は新しい紙を敷き、墨を少しだけ濃くした。次は、刃の章だ。刃は光る。光るものを書くには、黒が要る。
余白に、次の題を置く。
——第12章 剣は草に隠れ、風に現れる。





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