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第12章 剣は草に隠れ、風に現れる


第二部「光と嵐の間」

第12章 剣は草に隠れ、風に現れる

刃は、光を生むのではない。光と影のあいだに、線を引く。けれど線はいつも、まっすぐではなく、草に隠れ、風にあおられ、いつのまにか「残るもの」の顔をしている。

出雲の章を書き終えたあと、紙の上の匂いが変わった。酒の匂いと、土の匂いと、川の匂いが混じって、そこに鉄の匂いが細く刺さっている。鉄の匂いは、いつも少し冷たい。冷たい匂いは、言葉を硬くする。硬くなりすぎると、叙情が割れる。割れた叙情は、刃みたいに危うい。

「……次は剣、か」

ナガタが言った。言い方が、もう“武器”を見ている人の言い方だった。さっきまで川の音で遅くなっていた空気が、ここで少しだけ張る。張る空気は、痛い。

「剣だ」私は頷いた。硯の水に、少しだけ新しい水を足す。足した水が墨を薄め、黒が柔らかくなる。柔らかくなった黒で、硬いものを書く。矛盾みたいだが、この国はいつも矛盾を抱えてきた。

ナガタが紙束をめくる。

「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)……って書くの、面倒くさそうだな」彼は「叢」の字を指で叩いた。「この字、草が多すぎる。草に埋もれてる」「だからいい」私は言った。「草に埋もれる剣だ。雲に埋もれる剣だ。名前がそのまま風土だ」

ナガタは口を尖らせる。

「でも“草薙剣”のほうがいいじゃん。すっと読める」「それは、後の名だ」「後っていつだよ」「後だ」「雑っ」「雑さもまた、書紀の味だ」

ナガタが呆れたように笑い、すぐ真顔になった。

「……で、どう書く。あれだけの災いを斬って出てきた剣を、ただ“献上しました”で終わらせるのか」「終わらせない」私は言った。「剣は終わりじゃない。剣は“残り方”だ。災いの残り方。救いの残り方」

「残り方」ナガタが小さく復唱する。

私は紙面を指で軽く叩く。紙の音が、乾いた草を踏む音に似ていた。乾いた草は、火に弱い。火に弱い草を守るには、水が要る。水を守るには、境界が要る。境界を作るには、刃が要る。刃は怖い。怖いけれど、怖さを置く場所がないと国は崩れる。

「天照に渡す」私は言った。「渡して、刃を“ただの刃”から、国の約束に変える」「約束に変える、って……」「刃が使われないようにする、ってことでもある」

ナガタは鼻で息を吐いた。

「剣を使わないために剣を置く。ほんと矛盾の国だな」「矛盾を抱えて立つのが、柱だ」私は笑った。「柱も剣も、だいたい同じ役目をしてる」

ナガタが紙束の端から一枚抜いた。

——一書曰く、素戔嗚尊、其の剣を天照大神に献る。

「ほら。もう書いてあるじゃん」「書いてある」私は頷いた。「でも“献る”の中身を書きたい」

献る。その二文字は軽い。軽すぎる。献る、という言葉の中にあるのは、距離だ。離れた者が、何かを渡して距離を測る。距離を測るということは、もう戻らないということでもある。だから献上は、別れにも似ている。

私は筆を取った。剣の冷たさを、そのまま紙に置かないように。冷たさの周りに、草と風と雲の匂いを巻きつけるように。

——素戔嗚尊、尾より得たる剣を取りて、天に献りき。

須賀の宮は、まだ新しい木の匂いがした。

新しい木の匂いは、どこか頼りない。頼りないのに、人を安心させる。家とはそういうものだ。完成した家より、建てたばかりの家のほうが、未来の匂いがする。

素戔嗚は、その宮の縁に座り、剣を膝に置いた。

剣は、軽くない。重さがあるのではなく、記憶がある。尾の中の硬さ。濁りの匂い。酒の匂い。川の音。老夫婦の涙。櫛の震え。それらが刃に薄く貼り付いている。

刃を見れば、雲が見える。

天叢雲——という名は、刃の模様から来たのかもしれない。波打つ鋼の文様が、空に浮かぶ雲のように見える。雲は形を持たないくせに、誰もが「雲だ」と分かる。形がないのに分かるものは、匂いと同じだ。

素戔嗚は、ふと空を見上げた。

雲が流れていた。流れる雲は、止まれない。止まれないものを見ると、居場所を失った者の胸は疼く。

「……これは、我のものではない」

素戔嗚はぽつりと言った。声は、出雲の川に似た低さだった。天での叫びはもうない。叫びがなくなった代わりに、言葉が重い。

剣は、勝利の褒美として来たのではない。災いの腹の中から出てきた、冷たい記憶だ。記憶を自分の腰にぶら下げて暮らすのは、危うい。危ういものは、いずれ居場所を壊す。

素戔嗚は、思い出す。

岩戸の前の闇。神々の笑い。天照が戸を少し開けたときの細い光。あの光は、自分のせいで閉じられた。

「……返さねばならぬ」

返す、という言葉も違う。返すには借りたものの匂いがいる。だがこれは借りたのではない。手に入れてしまったものだ。手に入れてしまったものを手放すのは、返すより痛い。

痛いから、償いになる。

素戔嗚は剣を布に包んだ。布に包むと、刃は見えなくなる。見えなくなると、怖さが少しだけ柔らかくなる。人はみんな、怖いものを布で包んで暮らしている。言葉で包むこともある。笑いで包むこともある。祭で包むこともある。

「これを、天に」

素戔嗚は使いの者に渡した。

使いの者は、受け取った瞬間に肩が沈んだ。剣は重い。だが本当に重いのは、そこに付いた責任だ。責任は、肩に乗る。

使いの者は、山を越える。

山道は草が深い。冬枯れの草は細く、乾いている。乾いている草は、布の端に絡む。絡む草が、布を少しだけずらす。ずれた布の隙間から、刃が一瞬だけ光る。

光った刃は、すぐ草に隠れる。草は、刃を隠す。隠しながら、風に揺れる。揺れた草が布をまたずらし、刃がまた光る。剣は、草に隠れ、風に現れる。

雲が低い日だった。

雲が低いと、山の匂いが濃い。濃い匂いの中で刃が光ると、光は鋭くなる。鋭くなった光は、使いの者の心を急かす。

急いではいけない。急いだ足は転ぶ。転んだ剣は、血を呼ぶ。血を呼んだ剣は、いよいよ“武器”になる。いま渡したいのは武器ではない。記憶だ。約束だ。

使いの者は歩幅を小さくした。小さくした歩幅に合わせて、草も揺れ方を小さくする。小さな揺れは、世界を壊さない。

やがて平野に出る。

平野は草の海だった。草は背丈を伸ばし、風の方向を教える。風は草の先で見える。見える風は、嵐になる前に備えさせる。この国で草は、ただの草ではない。風見だ。季節の舌だ。稲の親戚だ。

その草原を、剣は通る。

布の下で、刃は眠る。眠っている刃ほど怖いものはない。けれど眠っている刃ほど、守りの匂いを持つものもない。眠りは、使わないという決意の形だ。

遠くに、空が開ける。

高天原は見えない。見えないが、空気が少し変わる。変わる空気の匂いは、乾いている。乾いた匂いは、責任の匂いだ。濡れた匂いは暮らしの匂いで、乾いた匂いは秩序の匂いだ。

剣は、濡れた匂いから乾いた匂いへ渡される。

渡されるということは、意味が変わるということだ。

天照は、鏡の前にいた。

鏡は、光がある限り嘘をつけない。鏡が嘘をつけないから、光も嘘をつけない。嘘をつけない光は、いつも少し疲れている。

そこへ、剣が運ばれる。

布が解かれた瞬間、天照の眉がわずかに動いた。刃の光を見たのではない。匂いを嗅いだのだ。

鉄の匂い。川の匂い。酒の匂い。濁りの匂い。そして、遠い恐れの匂い。

「……これは」

天照は言葉を探す。探した言葉は、すぐには見つからない。光は言葉を早く見つけがちだ。だが今回は早く見つけない。早く見つけた言葉は、嘘になりそうだった。

使いの者が、額を床につけて言う。

「素戔嗚尊より。尾より得たる剣を、献り奉る、と」

献る。その言葉が、天照の胸を少しだけ刺した。献るというのは、距離を置く言葉だ。距離を置かれた光は、熱を失う。熱を失うと、乾く。乾くと、割れる。割れないために、光は受け取る。

天照は剣を取った。

取った瞬間、冷たさが指先から上がる。冷たさは刃の冷たさだけではない。あの闇の冷たさだ。岩戸の内側で聞いた笑いの音が、刃の奥に薄く残っている気がした。

剣は、鏡と違う。

鏡は映す。剣は分ける。玉は繋ぐ。鏡と玉があるだけでは、世界はほどけることがある。ほどけたとき、ほどけたままでは暮らしが危うい。危うさを一度だけ止める線が要る。その線が、刃だ。

天照は、剣を畏れた。

畏れた、というのは嫌ったのではない。畏れるというのは、軽く扱わないということだ。軽く扱わないから、国の道具になる。

天照は言った。

「これは、ただの武ではない」

言い方が、誰かに聞かせる言い方だった。つまり、すでに“制度の言葉”になっている。制度の言葉は、個人の痛みを薄める。薄める代わりに、長持ちさせる。

天照は剣を置いた。

置いた場所に、光が落ちる。光が落ちると、刃の文様が雲に見える。雲は集まり、ほどけ、また集まる。集まる雲は雨を連れてくる。雨は稲を育てる。剣の中に、雨の予感が見える。剣が雨の予感を持つというのは不思議だが、災いの記憶はいつも雨の顔をしている。

天照は、剣に名を与える。

——天叢雲剣。

名を与えた瞬間、剣は“物”から“約束”になる。約束になると、刃は少しだけ眠る。眠った刃は、使われないためにそこにある刃になる。

だが、剣はまだ知っている。

草の匂い。風の気まぐれ。川の遅さ。酒の甘さ。それらを知っている刃は、いつか草の中で目を覚ます。

天照は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

目を伏せた光は、影を作る。影ができると、世界は立体になる。立体になった世界の中で、剣はただ静かに、次の季節を待つ。

「……“草薙”はいつ書く」

ナガタが現実に戻してくる。彼は紙面の「天叢雲」の字を見て、顔をしかめている。たぶん、字が面倒だからだ。

「今は書かない」私は言った。「今は“雲”だ。雲の名でいい」「でも読者は“草薙剣”のほうが馴染むぞ」「馴染みは後でいい」私は墨の匂いを吸い込み、ゆっくり吐く。「馴染むっていうのは、時間が経った証拠だ。時間は、物語の味になる」

ナガタは不満そうに唇を尖らせた。

「じゃあ注釈で逃げよう。“後に草薙剣と号す”って」「……それは、便利すぎる」「便利じゃないと役所が読まない」「役所は読むな。信じろ」「無理だよ」

二人で小さく笑った。笑いは短い。短い笑いが、ちょうどいい。剣の章の笑いは、長いと刃になる。

私は紙の端に、小さく書き添えた。

——一書曰く、後に草薙剣と号す。

ナガタが「ほらな」と言いたげに頷く。私は「ほらな」と言いたげにため息をついた。

でも、悪くない。異伝は、雲の流れだ。雲が流れて雨になるように、名が流れて馴染みになる。

窓の外で、風が草を揺らした。揺れた草は見えないのに、揺れの音だけが聞こえる。その音を聞きながら、私は思う。

剣は、草に隠れても、消えない。風に現れても、派手に叫ばない。ただ、必要なときだけ光る。そういう“残り方”が、この国にはよく似合う。

私は新しい紙を一枚、そっと引き寄せた。

次は、雲より上の話だ。剣と鏡と玉が、ただ置かれるだけでは終わらない。置かれたものは、いつか“降りる”ために整えられる。

余白に、次の題を置く。

——第三部へ。第13章 高千穂、霧が迎える。

 
 
 

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