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第13章 高千穂、霧が迎える


第三部「霧の降り口、稲のはじまり」

第13章 高千穂、霧が迎える

霧は、歓迎のしかたを知っている。いきなり抱きしめて、顔を隠し、それでもちゃんと道だけは残して、「急ぐな」と、濡れた声で言う。

硯の水を替えると、墨の匂いがいったん引いた。引いた匂いの向こうに、まだ乾ききらない紙の白がある。白は、次の物語のための空白だ。空白は、降りるための踊り場でもある。

ナガタが、あくびを噛み殺しながら言った。

「……降りるんだな」「降りる」私は頷いた。「剣が“置かれた”以上、次は“持って降りる”。――天の道具が、地の匂いを嗅ぐ章だ」

ナガタは紙束をぱらぱらとめくり、すぐ嫌な顔をした。

「……地名が難しい」「どれ」「これ。高千穂。……読めるけど、次だよ次」彼は別の紙を指で叩く。「槵触(くしふる)。これ、誰が考えた字だよ」「山が考えたんだろ」「山が字を書くな」「山は書く。地形で書く」

ナガタは半笑いで肩を落とし、異伝の束をひらりと出した。

——一書曰く、筑紫の日向の高千穂に降る。——一書曰く、笠沙(かささ)の岬に降る。——一書曰く、槵触之峯に降る。

「ほら。降り口が多い」「霧が多い国だからな」私は、墨を摺る手をゆっくりにした。「降り口が一つだと、国が一色になる。ここは、雲の切れ目を複数残す」

ナガタが、いかにも役所っぽい声で言う。

「でも上は、“道が見える文にせよ”だぞ」「道は見せる」私は答えた。「ただし一本道じゃない。分岐のある道だ。分岐があるから、国は迷子を抱えられる」

ナガタは呆れたように笑って、結局、頷いた。

「じゃあ、高千穂でいくか」「いく」私は筆を取った。「高天原から高千穂へ。――“高”の字を降ろすんだ」

「うまいこと言ったつもりか」「つもりだ」

小さく笑ったあと、私は紙の上に、降りるための一行を置く。

——天照大神、皇孫(すめみま)に勅して、葦原の瑞穂の国を治めしめたまふ。

天の光は、いつも正しい顔をしている。

正しい、というのは眩しいということではない。迷いを見せない、という意味だ。迷いを見せない光は、人を安心させる。だが安心は、ときに油断を育てる。油断が育つと、足元の湿り気を忘れる。

天照は、鏡の前に立っていた。

鏡は、光を映す。映した光は、逃げ場がない。逃げ場がないから、責任が形になる。責任は、誰かに渡されるために形になる。

天照は呼ぶ。

皇孫――邇邇芸命(ににぎのみこと)。

名は柔らかい。口に出すと、舌の上で少し丸くなる。丸くなる名は、刃よりも穂に近い。穂は、まだ実っていない未来の匂いだ。

邇邇芸は、天照の前に出る。

天の衣は乾いている。天の乾きは清潔だ。だが乾きは、匂いを薄くする。匂いが薄い場所では、決意が軽くなることがある。

天照は、鏡を渡す。

「これを、我が御魂(みたま)と思ひて拝め」

鏡は冷たい。冷たいが、それは拒絶の冷たさではない。“正しくあれ”という冷たさだ。正しさはいつも、少し冷たい。

次に、玉を渡す。

玉は、触ると体温を覚える。体温を覚えた玉は、持ち主の胸の鼓動を記録する。鼓動の記録は、迷いを許す。迷いを許すから、長い旅に耐えられる。

そして――剣。

出雲の川と酒と濁りを知った刃だ。草に隠れ、風に現れる刃だ。それを天が受け取っていたという事実は、少し奇妙で、少し怖い。天は乾いているのに、刃の奥に湿り気の記憶が残っている。乾きの中の湿り気は、いつか必ず疼く。

天照は言う。

「葦原の瑞穂の国へ降れ」

葦原――湿地の匂いのする言葉だ。瑞穂――水と穂の匂いのする言葉だ。天の命令は、いつも乾いた音をしているのに、行き先の名だけが濡れている。

邇邇芸は頷いた。

頷きは、軽くはなかった。軽くない頷きは、すでに地の重さを想像している頷きだ。

供の神々が整列する。

名を並べれば名簿になる。だからここでは、名より息を描く。

祝詞を持つ者の息。道具を抱える者の息。弓矢を負う者の息。先頭で風を受ける者の息。――それぞれの息が、天の乾きを少しずつ濡らしていく。

やがて、一行は雲の縁に立つ。

雲は、下から見ると軽い。上から見ると、重い。重い雲は、底が見えない。底が見えないものに降りるのは怖い。怖いから、誰かが道を指す。

——天の八衢(やちまた)。

分かれ道。

分かれ道には、必ず立っているものがある。境界の神。境界の番人。こちらでもあちらでもない顔をして、どちらへも行ける顔をしている者。

猿田彦(さるたひこ)が、そこにいた。

背が高く、目が強い。目が強いのは威嚇ではない。霧の中で道を見失わない目だ。鼻が大きいのは滑稽ではない。匂いで方角を嗅ぎ分ける鼻だ。この国の境界は、目と鼻でできている。

猿田彦は、言葉少なに立っている。

言葉が少ない者は、地の側に近い。地の側の者は、余計なことを言わない。余計なことを言うと、風が荒れる。風が荒れると、霧が濃くなる。霧が濃くなると、道が消える。

邇邇芸が一歩進む前に、天宇受売(あめのうずめ)が出る。

岩戸の前で闇を笑わせた女だ。笑いを知っている者は、境界に強い。境界は怖い。怖いものは、笑いの手つきで撫でるとほどける。

宇受売は猿田彦に向かって言う。

「汝は誰ぞ。ここに立ちて、道を塞ぐは何ゆゑぞ」

塞いでいるように見えるだけで、塞いでいない。境界の者は、通すために立つ。通すために立つから、まず“止める”顔をする。

猿田彦は答える。

「皇孫の道を案内せんため」

案内。この国の“はじまり”に、案内がいるのがいい。力で押し通るのではなく、土地の癖を知る者が先に立つ。癖を知る者がいると、旅は乱暴にならない。

宇受売は頷き、そして少しだけ笑った。

その笑いは、祭の笑いとは違う。道案内を受け取る笑いだ。「助かった」という生活の笑いだ。

一行は、降りる。

降りる、というのは落ちることではない。速度を合わせることだ。天の速さを捨て、地の遅さを受け取る。その“受け取り”の瞬間に、霧が必要になる。

霧は、速度を揃える。

霧の中では、景色が急に来ない。急に来ないから、胸が追いつける。追いつけるから、足が確かになる。

雲を抜けた瞬間、空気が変わった。

匂いが、入ってくる。

濡れた木の匂い。苔の匂い。土の匂い。遠い水の匂い。そして、火山の国特有の、どこか粉っぽい匂い――灰の匂い。

天の衣が、少しだけ重くなる。湿り気が、布の繊維に絡む。絡む湿り気は、天の者にとって最初の“地”だ。

足元が現れる。

岩。草。黒い土。小さな水たまり。水たまりに落ちる霧の粒。

ここが、高千穂。

高いのに、湿っている。高いのに、苔が厚い。高いのに、霧が歓迎する。

――この国は、高いところほど濡れている。

邇邇芸は息を吸った。

吸い込んだ息が、胸の奥で少し温まる。温まった息は、喉の奥で「生きる」の形になる。生きる、というのは、匂いを吸うということだ。

猿田彦が、先を指す。

「こちらへ」

指された先に、道は見えない。だが道がないのではない。霧が道を隠しているだけだ。

隠すというのは、拒絶ではない。霧の隠し方は、守りだ。いきなり全部を見せると、人は走る。走ると転ぶ。転ぶと刃が起きる。刃を起こさないために、霧は最初に目隠しをする。

邇邇芸は、歩幅を小さくした。

小さくした歩幅は、地の速度になる。地の速度になった足は、土を乱暴に踏まない。乱暴に踏まない足跡は、稲のための足跡だ。

邇邇芸の供の者が、袋を抱えている。

袋の中には、穂がある。稲の穂。まだ実っていない未来を、すでに“穂”として持ってくる矛盾。けれど矛盾があるから、国は面白い。国は、まだ無いものを持ってくるところから始まる。

霧の中で、穂は少しだけ濡れる。

濡れた穂は、ふっと匂いを立てる。米の匂いは、まだここにはない。だが米の匂いの“予告”が、霧の中で小さく息をした。

邇邇芸は、その匂いを嗅いで、ほんの少しだけ笑った。

笑いは声にならない。声にならない笑いは、決意の形だ。

「……ここで、よい」

よい、という言葉は短い。短い言葉は、地の言葉だ。天の命令は長いが、地の決定は短い。

霧が少し薄くなる。

薄くなった霧の向こうに、一本の木が見えた。木の枝先に、ひとつだけ、季節に早い白いものが揺れている。

花かもしれない。花でないかもしれない。だが“咲く予感”だけは確かにある。

――花は、契約の匂いがする。

邇邇芸は、足を止めた。止めた瞬間、霧がまた一度だけ濃くなった。霧は、知っている。ここから先は、国の形が“家”へ変わる場所だと。

「……霧、いいな」

ナガタが、紙面を覗き込みながら言った。声が、出雲の川のときより少し柔らかい。

「いい」私は頷いた。「高天原の乾きを、霧で濡らせた。降臨が“落下”じゃなく“馴染む”になった」

ナガタは「槵触」の字を見て顔をしかめた。

「で、これ書くのか」「書く」「嫌だなあ」「嫌なら、“一書曰く”で逃げる」「結局それか」「結局それだ。霧みたいに」

ナガタが笑った。短い笑い。霧の中で出す笑いは、ちょうどそれくらいがいい。大きい笑いは、道を見失う。

私は紙の余白に、次の題を置いた。

——第14章 咲く花、散る花、守る約束。

霧が迎えたのは、土地だけではない。この国の季節の癖も迎える。そして季節の癖は、必ず“花”の顔でやってくる。

 
 
 

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