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第17章 海神の宮、青に溺れる



第三部「霧の降り口、稲のはじまり」

第17章 海神の宮、青に溺れる

青は、色ではない。息をひとつ深くすると、胸の中まで満ちてしまう“場所”だ。その場所では、思い出さえも薄くなり、失くしたものの重さだけが、静かに残る。

海辺の章を書きはじめると、部屋が少し塩辛くなる。もちろん塩が撒かれたわけではない。墨の匂いが、言葉の潮に引っ張られて、勝手に舌へ来るだけだ。

ナガタが、紙束の端を揃えながら言った。

「……海の宮殿ってさ、派手に書くと嘘になるよな」「派手なのに、派手じゃないように書く」私は硯の水面を見た。水面は淡い。淡いのに底が見える。川の淡さだ。海の淡さは、底を見せない。

「どうやって」「青で埋める」「青で?」「匂いじゃなく、重さで」私は言った。「海は匂いを削る。代わりに重さを押し付ける。重さの中で、心が溺れる」

ナガタは半分呆れた顔で、半分納得した顔をした。

「……じゃあ、姫だな」「姫だ」私は頷き、筆を取る。「影から出てくる姫。——海の底で、言葉を拾い直す姫」

そして私は、前の章の続きの行を、紙の上でほどく。

——井の水に影映りて、そこに女神あり。

火遠理(ほをり)は、井戸の傍に立ち尽くしていた。

海の底なのに、井戸がある。井戸があるのは、海が海だけでは成立しないからだ。塩だけでは生きられない者がいる。淡い水があるから、海の底にも家ができる。

井戸の縁に、濃い影が落ちた。

影は、揺れる。揺れる影は、波ではない。生き物の影だ。

火遠理は、息を止める。

止めた息のせいで、胸の中が少し苦しくなる。苦しくなると、人は自分が生きていることを思い出す。思い出した瞬間に、ここが“底”だと知ってしまう。知ってしまうと、足がすくむ。

井戸を覗き込んだ者が、ゆっくり顔を上げた。

髪が黒い。黒い髪が水にほどけて、長い藻のように揺れている。揺れているのに乱れて見えないのは、海の揺れが彼女の味方だからだ。海に味方されたものは、どこか恐ろしいほど美しい。

瞳が、青い。

青い瞳というより、青が瞳の奥で息をしている。青が息をする瞳は、まっすぐ見るだけで人を溺れさせる。溺れるのは怖い。だが怖いのに、目を逸らせない。

女は、火遠理を見た。

見た瞬間、ほんの少しだけ笑った。笑い方が、波が引くときの静けさに似ている。静かな笑いは、言葉より先に「怖がるな」と言う。

彼女は言った。

「汝は、誰」

声は、水の中の声だった。水の中の声は、角が取れている。角が取れているのに、届く。届き方が不思議だ。耳ではなく、胸に触れる。

火遠理は、言葉を探す。

探しても、すぐには出ない。海が言葉を削ってしまったからだ。削られた言葉の代わりに、喉の奥に塩の味が残っている。

それでも火遠理は言った。

「……山の子。釣針を失い、ここへ来た」

言った瞬間、恥ずかしさが胸へ上がる。“釣針を失った”という事実は、海では小さすぎる。小さすぎるのに、ここまで来てしまった。来てしまったという事実が、ますます小さく見える。

女は、その小ささを笑わない。

笑わないのが、海の礼儀だ。海は大きすぎるから、小さいものを笑う必要がない。小さいものは、小さいまま受け取る。

彼女は、井戸の水面を指で撫でた。

水面が揺れ、光が割れる。割れた光が、火遠理の頬に触れる。触れた光は冷たい。だが拒絶ではない。海の底の冷たさは、抱きしめる冷たさだ。

「父に告げましょう」

女はそう言い、ふっと身を翻した。

翻した瞬間、周りの青が一度だけ濃くなる。濃くなる青は、足を止めさせる。足を止めた火遠理の胸に、ひとつの感情が沈んだ。

——戻れないかもしれない。

戻れない、というのは恐い。だが恐いのに、どこか甘い。甘いのは、山の苦さが胸から抜けるからだ。山は常に登り下りがある。海は、ただ沈む。

沈むほど、静かになる。

静かになるほど、世界が美しく見える。

美しさは、時に罠だ。罠は、甘い匂いで近づく。海の罠は、匂いではなく青で近づく。

女は、海神の宮へ戻った。

海神——綿津見(わたつみ)の大神。

名は重い。重い名は、潮の満ち引きと同じだ。満ちて、引いて、満ちて、引いて——繰り返すだけで、世界を支える重さ。

彼女は言った。

「井のほとりに、麗しき人あり。影を水に映し、木陰に立ちて、言葉少なし」

綿津見は、少し目を細めた。

目を細める仕草が、海の凪に似ている。凪は穏やかだ。だが凪は、嵐の前触れにもなる。穏やかさと怖さを同じ顔で持つのが、海の癖だ。

「招け」

それだけだった。

“招け”という命令は乾いている。だがここは海の底だ。乾いた命令でさえ、すぐに湿り気を帯びる。

女は再び火遠理のもとへ来て、手招きした。

手招きの仕草が、潮が寄せる仕草に似ている。寄せるものは、いつも静かだ。静かだから、抗えない。

火遠理は歩いた。

歩くたび、床が柔らかい気がした。土ではない。砂でもない。珊瑚の骨のような白。貝殻の欠片のような鈍い光。海の底の道は、硬いのに沈む。沈むということは、音が少ないということだ。

音が少ない道の先に、宮があった。

宮は、光でできているように見えた。だが光は眩しくない。眩しくない光は、目を疲れさせない。疲れない目は、いつまでも見てしまう。

見てしまううちに、時間が溶ける。

海の底の時間は、溶ける。溶けた時間は、手で掬えない。掬えない時間は、忘却になる。忘却は、溺れる者の味方だ。

火遠理は、宮の中へ通された。

玉のようなものが、壁の隙間で淡く光る。貝の内側の光。魚の鱗の裏側の光。光が跳ねるたび、青の濃淡が変わる。濃淡が変わる青は、深さを作る。深さができると、人は息を深くしてしまう。深くした息が、ますます青を胸に入れる。

——青に溺れる、とはこういうことだ。

綿津見が、火遠理の前に座した。

座り方が、岩の座り方に似ている。動かないのに、圧がある。圧があるものは、言葉を急がせない。急がない言葉は、嘘をつきにくい。

綿津見は言った。

「汝、何を求む」

火遠理は、やっと言葉を拾い直す。

「兄の釣針を失った。返すべきものを返せず、恥に沈む。——その釣針を探しに来た」

綿津見は、わずかに頷いた。

頷きは、波の一つだ。小さいのに確かな波。

「三年、ここに居よ」

火遠理は、その言葉が理解できず、目を瞬いた。三年。山の三年は、春夏秋冬を三度越える。畑を耕し、獣を狩り、屋根を葺き替え、薪を積む。忙しい三年だ。

だが海の底の三年は、違う匂いを持つ。

忙しくない。けれど空っぽでもない。青が、毎日少しずつ胸を満たす。満ちた青が、言葉を減らす。減った言葉の代わりに、目が多くなる。目が多くなると、美しさが増える。美しさが増えると、戻る理由が薄くなる。

火遠理は、返事をできなかった。

返事ができない沈黙を、綿津見は責めない。責めない沈黙は、海の家の沈黙だ。

女——海神の娘は、火遠理の傍に来て言った。

「ここでは、急がなくてよい」

その一言で、火遠理の胸がゆるむ。ゆるんだ胸に、青がまた入る。入った青は、少し甘い。甘いのは、彼女の名が持つ匂いのせいだ。

豊玉姫(とよたまひめ)。

“豊”は満ちる。“玉”は溜まる。満ちて溜まる名は、潮に似ている。

火遠理は、豊玉姫と日々を過ごした。

海の底の庭を歩く。庭には風がない。風がないのに、何かが揺れている。揺れているのは藻だ。藻は風ではなく潮で揺れる。潮で揺れるものは、時間を揺らす。

水面のない水の世界で、彼は初めて「上」を忘れた。

上を忘れると、息が楽になる。息が楽になると、笑える。笑えると、怖さが薄まる。怖さが薄まると、責任が薄まる。

責任が薄まった頃、三年が過ぎていた。

——一書曰く、ここに三年居りて後に思ひ出づ。

思い出す、というのは残酷だ。青に溺れていた者を、水面へ引き上げるからだ。引き上げられた胸は、急に苦しくなる。苦しい胸は、やっと“失くしたもの”の重さを思い出す。

火遠理は、はっとして言った。

「……釣針」

言った瞬間、口の中が塩辛くなる。塩辛さは、恥の味だ。

豊玉姫は、目を伏せた。

伏せた目の影が、海の底の影に溶ける。影に溶けたまま、彼女は言った。

「父に告げましょう」

告げる、という言葉が、潮のように穏やかだった。穏やかだから、胸が余計に痛い。

綿津見は、魚たちを集めた。

鯛、鰹、鰯、鮫、鯨——名を並べれば名簿になる。だがここは海だ。名簿の前に、群れの気配がある。気配が動くと、宮殿の光が少しだけざわめく。

綿津見は問う。

「誰ぞ、釣針を呑める者ある」

魚たちは、沈黙する。

沈黙する魚は、賢い。賢い沈黙は、海の底の掟だ。だが沈黙の中から、ひとつ、苦しげな気配が浮かび上がる。

口を押さえるように、鯛が身を捩る。

鯛の目が、どこか申し訳なさそうだ。申し訳なさそうな魚の目は、人間の目に似る。似ると、人は許してしまいそうになる。

綿津見は命じる。

「吐け」

鯛が、口を開いた。

その瞬間、金属の冷たい光が、青の中で一度だけ鋭くなった。

釣針が、出た。

出た釣針は、泣いているように見えた。泣いているのは釣針ではない。釣針を失って、探して、青に溺れて、思い出した火遠理の胸だ。

綿津見は言った。

「これを持ち帰れ。されど、その返し方には、潮の作法がある」

作法。

作法という言葉は、土の国にも海の国にも要る。作法があると、喧嘩は呪いになりにくい。呪いになりにくい喧嘩は、国を折らない。

綿津見は、さらに二つの珠を授ける。

満ち潮の珠。引き潮の珠。

珠は小さい。だが小さい珠が、海の呼吸を握っている。握ってしまったものは、怖い。

怖いからこそ、渡される。

火遠理は、珠を受け取る手が震えるのを感じた。震える手は、まだ人間の手だ。神話の手はいつも決まっているように見えるが、決まっているふりをして震えている。

豊玉姫は、火遠理の横で黙っていた。

黙り方が、海の底の黙り方だった。言葉を惜しむ黙り方。言ってしまうと、戻れなくなる黙り方。

火遠理は、彼女を見た。

見た瞬間、胸の中の青が少しだけ苦くなる。苦くなる青は、別れの匂いだ。

私は筆を止めた。

「……溺れたな」背後でナガタが言った。声が、少しだけ遠い。海の章を読むと、声が遠くなる。海が距離を作るからだ。

「溺れた」私は頷く。「美しさで溺れさせないと、“三年”が軽くなる。海の三年は、忘却の三年だ」

ナガタは紙面の「釣針が泣いているように見えた」のあたりを指で叩いた。

「物が泣くの、好きだなお前」「泣いてるのは人だ」私は言った。「でも人が泣くとき、手の中の物も一緒に濡れる。濡れた物は、泣いて見える。——それが湿り気の国の見え方だ」

ナガタは、ふっと息を吐いた。

「……で、次は帰るのか」「帰る」私は新しい紙をそっと引き寄せた。「帰り方が問題だ。珠で潮を動かすってことは、世界の呼吸に指を突っ込むってことだ」

ナガタが、嫌そうに笑った。

「また厄介な道具だな」「厄介な道具で国はできる」

余白に、次の題を置く。

——第18章 満ち潮、引き潮——兄の胸をほどく方法。

 
 
 

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