第18章 満ち潮、引き潮――兄の胸をほどく方法
- 山崎行政書士事務所
- 2月11日
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第三部「霧の降り口、稲のはじまり」
第18章 満ち潮、引き潮――兄の胸をほどく方法
海の呼吸を、手のひらに載せるとき、人は初めて知る。強さとは、押すことではなく、引くことにも責任が要るのだと。——潮は、優しさの顔をした圧力だ。
海神の宮を書いたあとの硯は、なぜか乾きが遅かった。水を替えても、墨が塩を含んだみたいに、ねっとりと紙に残る。海の章は、文章の外へも匂いを漏らす。困ったものだ。けれど困ったものほど、この国では長く残る。
ナガタが、紙束の端を揃えながら言った。
「……次、潮の珠だろ。潮満珠と潮干珠」「そうだ」私は頷いた。「世界の呼吸を握る道具だ」
ナガタは眉を寄せる。
「嫌だなあ。神話ってたまに、世界の心臓を握らせるよな。子どもにハサミ渡すみたいな」「だから作法が付いてくる」私は硯の水を見た。淡い水面が、今日は妙に落ち着かない。落ち着かない水面は、潮を思い出す。「海は、道具だけ渡さない。言い方も渡す。使い方も渡す。間違えたら、国が沈む」
ナガタは紙束の異伝を一枚抜いた。
——一書曰く、潮満珠を以て溺らし、潮干珠を以て救ふ。
「ほら、書いてある。これそのまま書いたら、弟が兄をいじめてる話になるぞ」「いじめじゃない」私は即答した。「胸をほどく方法だ」「どうやって溺らしてほどくんだよ」「溺れると、人は嘘を吐けない」私は言ってから、少しだけ自分の冷たさに気づいて、墨を摺る手を緩めた。「……いや。嘘を吐けないんじゃない。嘘が潮に溶けて残らない。残らないと、やっと“本音”が浮く」
ナガタは呆れたように笑った。
「本音、浮くんだ」「浮く。木の葉みたいに」私は筆を取った。「海の喧嘩は、理屈じゃ止まらない。潮の速度で止まる」
「上は、“人心を乱すな”って言うぞ」「乱す」私は言った。「でも乱れたあとに、ちゃんと戻す。戻すのが潮干珠だ。戻し方まで書けば、人心は乱れっぱなしにならない」
ナガタは、しぶしぶ頷いた。
「……じゃあ、やれ。潮汐表、始めろ」「潮汐表じゃない」私は小さく笑って、最初の一行を置いた。
——火遠理命、海より帰りて、釣鉤を携へ来る。
海の底から戻る者は、戻り方が少し遅い。
体が遅いのではない。心が、まだ青の中に半分沈んでいる。青が残った胸は、空の乾きにすぐ馴染めない。馴染めないまま歩くから、足取りが少しだけ柔らかく見える。柔らかい足取りは、地上では頼りなく見える。頼りなく見えるものほど、実は底が深い。
火遠理(ほをり)は、海辺に立った。
立った瞬間、風が胸を叩いた。海の底には風がない。風のない世界に慣れた者の胸は、風を“痛み”として受け取る。痛みは、生の側の合図だ。生の側の合図があると、責任も戻ってくる。
火遠理の手には、釣針があった。
小さい。小さいのに、重い。重いのは金属のせいではない。兄の暮らしの重さだ。潮の時間割の重さだ。失くしたことの重さだ。三年の青の重さだ。
そして、もう一つ。
布に包まれた二つの珠。
潮満珠(しおみつたま)。潮干珠(しおひるたま)。
珠は、光る。光り方が、鏡の光と違う。鏡は空を返す。珠の光は、海を閉じ込めた光だ。閉じ込めた光は、どこか息苦しい。息苦しい光は、怖い。
火遠理は思い出す。
綿津見の声。
「満ちさせるときは、相手を沈ませるためではない。沈む者の胸から、硬いものを抜くためだ。干かすときは、勝つためではない。戻すためだ。戻して、顔を見て、言葉を結ぶためだ」
——潮は罰ではない。呼吸だ。
火遠理は、その呼吸を手に持ったまま、歩き出す。
山の道は、まだ火山灰の匂いを残していた。
灰は目に見えないのに、靴の裏に付く。付いた灰は、家の床に残る。残った灰は、春に掃かれる。掃かれる灰がまた土に戻る。この国の暮らしは、いつも“残るもの”と一緒にできている。
火照(ほでり)は、海辺にいた。
海辺にいるだけで、すでに怒っているように見える男だった。海の男は、待つときでも顔が硬い。硬くないと、潮の気まぐれに負けるからだ。
火遠理が近づくと、火照は言った。
「釣針は」
言葉が短い。短い言葉は、波みたいに何度も来る。来るたびに胸を削る。
火遠理は、釣針を差し出した。
差し出す手は震えていない。震えていないのは勇気ではない。青が、恐れを薄めてしまったからだ。恐れが薄い手は、かえって誠実に見える。
火照は釣針を掴む。
掴んだ瞬間、指先が少しだけ緩んだ。緩むのは、安心の形だ。安心は一瞬で、すぐ次の言葉が出る。
「……遅い」
遅い。その一言は、釣針を返された喜びをすぐ潮に溶かしてしまう。
火照は続ける。
「代わりを作ったな。千本も。あれは何だ。我を馬鹿にしたのか」
火遠理は、息を吸った。
吸い込んだ空気に、潮の匂いが混じる。潮の匂いは、言葉を荒くする。荒い言葉は喧嘩になる。喧嘩はまた、国を痩せさせる。
火遠理は、言葉を選んだ。
「……知らなかった。海の道具は、形ではなく癖だと」
火照の目が細くなる。
「癖だと?」
「兄の手の癖。潮の読み。魚を待つ呼吸。それを、俺は知らなかった」
火照は笑わない。海の男は、謝罪をすぐ許さない。許すと、次の波でまた奪われるからだ。
「知らなかったで済むか」
その言葉が、火遠理の胸を冷たくした。冷たくした胸に、綿津見の言葉が浮かぶ。
——潮の作法を使え。——ただし、戻せ。必ず戻せ。
火遠理は、布をほどいた。
珠が、淡く光る。光り方が、朝日ではなく、満ち潮の光り方だ。満ち潮は、すべてを“あること”にしてしまう光だ。岩も、砂も、足跡も、境界も。
火照は珠を見て、眉を寄せた。
「……何だ、それは」
火遠理は言った。
「海の呼吸だ」
そして、潮満珠を掌に置く。掌が冷たくなる。冷たさは刃の冷たさではない。水位の冷たさだ。水位の冷たさは、容赦がない。
火遠理は、短く言った。
「満ちよ」
言葉は祈りではない。命令でもない。合図だ。
海が、応えた。
最初は、波が一段大きくなるだけだった。次に、砂の色が変わる。乾いた砂が濡れ、濡れた砂が沈む。沈んだ砂は足を取る。足を取られると、怒りの立ち方が崩れる。
火照の足首に、水が触れた。
触れた水は冷たい。冷たい水は、海の男でも一瞬だけ身構える。身構えた瞬間、胸の硬さがひび割れる。
水は、膝へ。腰へ。胸へ。
水が胸まで来ると、人は言葉が短くなる。短くなった言葉は、本音に近づく。近づきすぎると叫びになる。
火照が叫ぶ。
「やめろ!」
やめろ、という叫びは、頼みだ。頼みの声は、海では弱い。弱いから、さらに潮が来る。
火遠理は、潮満珠を握ったまま、言葉を増やさない。
増やさないのは冷たさではない。増やすと、相手を支配してしまうからだ。支配ではなく、ほどきたい。
火照は水に押され、ついに膝をつく。
膝をつくと、海の男の誇りが一度沈む。沈んだ誇りは、泡になる。泡になった誇りは、やっと軽くなる。
火照の声が変わる。
「……弟よ。わかった。わかったから——」
“わかった”は、溺れかけた者の言葉だ。わかった、と言えるところまで来たなら、もう十分だ。
火遠理は、潮干珠に持ち替えた。
潮干珠は、温かくはない。だが潮満珠より少しだけ“帰り道”の匂いがする。帰り道の匂いは、胸をほどく。
火遠理は言う。
「干け」
海が、引く。
引く海は、怒っていない。怒っていないのに、ものすごく強い。強い引きは、押し返しよりも怖い。押し返しは抵抗できる気がするが、引きは気づかぬうちに足元を持っていく。
海はするすると退き、火照の身体から水が離れる。
離れた水が、火照の肌に塩を残す。塩は乾く。乾いた塩は、ひりつく。ひりつきは、後から来る反省の形だ。
火照は、ぜいぜいと息をして、砂に手をついた。
手をついた砂が濡れている。濡れている砂は、さっきまで海だった場所だ。海だった場所に手をついた瞬間、火照は“自分が潮の上で生きている”ことを思い出す。
火遠理は言う。
「兄よ。怒りの胸を、そのままにして生きると、潮に負ける。潮は誰にも勝たない。ただ満ちて、引く。その呼吸に合わせて、生きよう」
火照は、何も言えない。
言えないのは敗北のせいではない。潮の中で、言葉が削られたからだ。削られた言葉の後には、本音が残る。本音は、すぐには言葉にならない。
火照が、ようやく言った。
「……もう一度、やるな」
火遠理は少しだけ笑った。
「やらない。やりたくないから、戻した」
戻す、というところが肝心だ。この国の力の使い方は、たいてい“戻す”までが作法だ。戻さない力は、黄泉に似る。戻す力だけが、国を長持ちさせる。
火照は、砂の上で頭を下げた。
頭を下げる姿は、海の男には似合わないはずなのに、なぜか似合った。似合うのは、潮が彼の胸の角を削ったからだ。角が削れた胸は、人の胸だ。
火照は言った。
「我は、汝に仕へん」
仕える、という言葉は重い。重いが、重い言葉は暮らしを支える。兄が弟に仕えるのは不自然に見える。だが自然と不自然の境界は、潮がいつも濡らして曖昧にしてしまう。境界が曖昧になると、国はしぶとくなる。
火遠理は、珠を布に包み直した。
布に包むと、海の呼吸が少し静かになる。静かになった海の呼吸は、また海へ戻っていく。人が握り続けていいものではない。握り続けると、必ず慢心になる。
——一書曰く、ここに兄、弟の前に伏して、海辺を守りき。
海は、ここで喧嘩を終わらせる。終わらせ方が、刃ではなく潮なのが、この国の味だ。
「……溺らせて、戻したな」
ナガタが言った。声が少しだけ安堵している。溺れる場面を書くと、読む側の息も勝手に浅くなる。浅くなった息が、戻されるとほっとする。
「戻した」私は頷いた。「“勝った”じゃなく、“呼吸を合わせた”として書けたと思う」
ナガタは、潮満珠と潮干珠のところを指で叩いた。
「でもこれ、危険な道具だな。誰でも欲しがる」「欲しがる」私は正直に言った。「だから布に包む。だから作法を書く。だから“戻す”まで書く」
ナガタは、少しだけ笑った。
「潮汐表、ちゃんと物語になってたぞ」「だから潮汐表じゃない」私はため息みたいに笑い、硯の水を替えた。
海の呼吸が一段落すると、次に来るのは——また“覗くな”の約束だ。
覗くな、はこの国で何度も繰り返される。黄泉で。火の産屋で。そして今度は、海の産屋で。
海の姫は、地上で子を産む。産むとき、人はまた、どうしても覗きたくなる。覗きたくなるのは悪ではない。怖いからだ。怖いから、確かめたくなる。確かめた瞬間、世界はもう戻れない顔をする。
私は紙の余白に、次の題を置いた。
——第19章 鵜の羽の産屋、覗かない約束。





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