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第21章 足跡は西から東へ――潮の国の、長い朝


第四部「道の骨、東の光」

第21章 足跡は西から東へ――潮の国の、長い朝

朝は、いつも東から来る。けれど足跡は、いつも西から始まる。海の塩が乾く前に、人はもう次の岸の匂いを嗅いでいる。

硯の水を替えると、墨の黒がいっそう締まって見えた。第三部までの水は、どこか乳の白や霧の白と混ざっていた。けれど「道」を書く水は、白さを許さない。道は白い線ではなく、黒い筋だ。踏まれた土が黒くなる。汗が黒くなる。炭が黒くなる。黒が残るから、道になる。

ナガタが、紙束の端を揃えながら言った。

「……ついに東征だな」「ついにだ」私は頷く。「でも“征”って字が嫌だな。攻める匂いが強い」「攻めるだろ」「攻めるけど、攻める匂いだけにしたくない」私は墨を摺りながら言った。「これは“引っ越し”でもある。“道づくり”でもある。潮の国が、朝日の国へ歩く話だ」

ナガタは鼻で笑った。

「引っ越しって。神話が急に生活になるな」「生活にならない建国は、掛け声で終わる」「掛け声で終わると、役所が喜ぶ」「役所は喜ぶな。息をしろ」

ナガタが、例の札をひらひらさせる。

——一書曰く、神倭伊波礼毘古命、兄らと共に東に向かふ。——一書曰く、筑紫に留まり、また進む。——一書曰く、難波に至りて戦ふ。

「ほら、もう“戦ふ”って書いてある」「書いてある」私は頷いた。「でも“戦ふ”の前に、“歩く”がある。“進む”がある。進む足の裏の湿り気を書きたい」

ナガタは少し目を細めた。

「足の裏、好きだなお前」「国は足の裏でできる」私は言った。「頭で作った国は、すぐ割れる。足で踏んだ国だけが長持ちする」

ナガタが肩をすくめる。

「じゃあ、足の裏、書け。長い朝、書け」「書く」私は筆を取った。

——神倭伊波礼毘古命、日向の地を出でて、東の国を望みたまふ。

日向の朝は、塩の匂いで始まる。

波が砕け、白い泡が砂に線を引く。線はすぐ消える。消えるから、また引かれる。繰り返しの線を見ていると、人は不思議な勇気を持つ。どうせ消えるなら、と。どうせまた来るなら、と。消えることを前提にした勇気は、少しだけ乱暴だが、しぶとい。

神倭伊波礼毘古命――伊波礼毘古(いわれびこ)は、海を見ていた。

見方が、もう子どもの見方ではない。波を眺めているようで、波の向こうの“岸”を嗅いでいる。嗅いでいるのは、征服の匂いではない。居場所の匂いだ。居場所の匂いは、人を歩かせる。

その横に、兄たちがいる。

五瀬命(いつせ)。稲氷命(いなひ)。御毛沼命(みけぬ)。

名はそれぞれ違うのに、背中の匂いが似ている。同じ家で育った者の背中には、同じ火の匂いがある。同じ火の匂いがある者は、喧嘩しても、最後には同じ鍋に戻る。

五瀬が、海へ顎をしゃくった。

「……行くか」

言葉が短い。短い言葉は、朝に似ている。朝は長いのに、言葉は短い。短い言葉でしか始められないものがある。船出もそれだ。

伊波礼毘古は頷く。

「行く。西から東へ」

西から東へ。

言うほど簡単ではない。西から東へ行くということは、朝日に顔を向けるということだ。朝日は眩しい。眩しいものに向かうと、人は自分の影を見失う。影を見失うと、足元の石を踏み外す。踏み外せば、舟は転ぶ。転ぶ舟は、国の骨を折る。

それでも行く。

なぜなら――朝が東にあるからだ。朝のある方角へ行くのは、欲ではなく本能に近い。「明るいほうへ」と、体が言う。体が言うことに逆らうと、文章が嘘になる。

舟が用意される。

舟板の匂い。縄の匂い。樹脂の匂い。海の匂いに木の匂いが混ざると、「旅」の匂いになる。

供の者たちが荷を積む。

米。塩。干した魚。弓矢。布。火打ち石。そして――祭の道具。

道具が多い旅ほど、迷う。迷うから道具が増えるのか、道具が増えるから迷うのか、どっちが先かは分からない。分からないが、この国はいつも道具を増やしてきた。道具があると、安心する。安心があると、勇気が出る。

五瀬が、船縁を叩く。

「潮、読め」

読め、というのが面白い。潮は文章ではない。だが潮は、読むしかない。読まなければ、舟はどこへでも連れていかれる。

塩椎神(しおつち)の影が、どこかにいる。

姿は見えない。だが潮の匂いの中には、作法がいる。作法がいるから、旅は“無謀”にならずに済む。

舟は出る。

岸が遠ざかるとき、胸が少しだけ冷える。冷えるのは恐いからではない。“戻れる”という可能性が、少しずつ薄くなるからだ。戻れる可能性が薄くなると、人は腹を括る。腹を括ると、足の裏の感覚が鋭くなる。

海の上の足の裏は、板を感じる。

板は硬い。硬さは安心だ。硬いものがあると、人は立てる。立てると、遠くが見える。見える遠くは、夢に見える。

島々が、点々と浮かぶ。

瀬戸は、海なのに川の顔をする。流れはあるが、怒鳴らない。波はあるが、泣き叫ばない。島が多い海は、人に優しいふりをする。優しいふりをする海ほど、油断を誘う。

伊波礼毘古が、島影を見て言った。

「……道だ」

道。

海の上にも道がある。道があるというより、道に見えるものがある。点々の島が、踏み石みたいに並ぶ。並ぶと、人は勝手に「行ける」と思う。思うから行く。行くから道になる。

しかし海は、いつも“隙間”を残す。

隙間は、怖い。怖い隙間があるから、人は祈る。祈るから、国は“ただの移動”ではなく“始まり”になる。

——一書曰く、安芸に留まり、また吉備に留まる。

留まる。

留まるという言葉が、旅に厚みを与える。止まって食べる。止まって寝る。止まって焚く。止まって笑う。止まるたび、土地の匂いが胸に溜まる。溜まった匂いは、次に行く力になる。

吉備の浜は、米の匂いがした。

米の匂いがする浜は、強い。強い浜は、人を住まわせる。住まわせた浜は、人を送り出せる。送り出せる浜は、国の背中になる。

そして、さらに東へ。

波の色が変わる。風の匂いが変わる。空の高さが変わる。

潮の国は、朝日の国へ近づくほど、朝日が痛くなる。

痛い朝日。

痛いのに、嬉しい。嬉しいのに、怖い。

その矛盾が、いよいよ「戦い」の匂いを呼ぶ。

難波(なにわ)の浜に着いた日、空はやけに明るかった。

明るい空は、油断を呼ぶ。油断を呼ぶ明るさは、敵の矢を見えなくする。見えなくなるのは矢ではない。矢の“意志”だ。意志は光の中に隠れる。光が強いほど、影は濃くなる。

浜に立つ者がいた。

長髄彦(ながすねひこ)。

名が長い。長い名の者は、土地に根が深い。根が深い者は、簡単に動かない。動かない者は、動く者を嫌う。動く者は、動かない者を怖がる。

怖がり合いの中で、矢は飛ぶ。

矢は、風を裂く音が小さい。小さい音は、遅れて痛みになる。遅れて来る痛みは、最初、意味が分からない。意味が分からないから、体が先に崩れる。

五瀬が、膝をついた。

「……っ」

声が短い。短い声は、痛みの声だ。痛みの声は、周りの胸を一気に硬くする。

矢が刺さっていた。

刺さる場所の赤は、すぐに砂に落ちる。砂は血を吸う。吸った血は、潮で薄まる。薄まった血が、浜をほんの少し赤茶に染める。

伊波礼毘古は、五瀬の顔を見る。

兄の顔が、笑っているようで、笑っていない。笑っていないのに、歯を食いしばっている。歯を食いしばる者は、まだ倒れない。

五瀬が言った。

「……まずいな」

「何が」伊波礼毘古が問うと、五瀬は空を見上げた。

「日だ」

日。

太陽。

太陽は、東にある。そして彼らは東へ向かって進んできた。つまり今、彼らは――朝日に向かって戦っている。

五瀬は苦く笑った。

「日神の御子(ひのかみのみこ)が、日を正面に受けて戦う。……これは、日と喧嘩している形だ」

言い方が、妙に生活っぽかった。喧嘩という言葉が出ると、神話は急に家になる。家の喧嘩は身内で済むが、太陽との喧嘩は世界を巻き込む。

伊波礼毘古は、息を呑む。

確かに、眩しい。矢が見えない。敵の影が読めない。そして何より、自分たちの影が足元に薄い。

影が薄い戦いは、勝ち方が汚くなる。汚い勝ちは、後で国を腐らせる。腐る匂いは黄泉に似る。黄泉に似る匂いを、ここへ持ち込みたくない。

五瀬が続ける。

「回れ」

「……回る?」「回って、日を背にしろ。日を背にすると、影が前に出る。影が前に出れば、敵の形が読める」

読む。

ここでも読む。

潮を読んできた者が、今度は影を読む。読む対象が変わるだけで、作法は同じだ。作法が同じだと、人は少し落ち着ける。落ち着くと、恐さが道具になる。

伊波礼毘古は頷いた。

頷きは速かった。速い頷きは、決断の匂いだ。

——一書曰く、日の御子、日に向かひて戦ふは良からず、と曰ひて、道を改む。

道を改む。

この一文が、妙に好きだった。戦の話なのに、結局「道」になっている。この国の骨は、いつも道でできている。

彼らは退く。

退くという言葉は、負けに見える。だが退くは、潮が引くのと同じだ。引くから、次に満ちる。満ちるために引く。引くのは逃げではなく、呼吸だ。

退く間、五瀬の血が落ちる。

落ちた血は、砂に吸われる。吸われた血は、潮で消える。消えるのに、匂いだけ残る。匂いが残るから、誰かが覚える。覚えるから、道が骨になる。

舟はまた海へ出る。

海は、何も言わない。何も言わないまま、方向だけを変えさせる。方向を変えた舟は、紀の国へ回り込む。

雲が少し低い。

低い雲は、朝を長くする。朝が長いと、決断の余韻が伸びる。余韻が伸びると、痛みも伸びる。伸びる痛みの中で、人は「道を改む」という言葉を噛みしめる。

伊波礼毘古は、五瀬の肩を支えながら、海を見る。

海は、返事をしない。けれど返事をしない海が、いつも境界を残すように、返事をしない空も、いつも朝を残す。

朝は、まだ終わらない。

西から東へ向かった足跡は、いったん曲がり、今度は“東から入るための西回り”を始める。

道は直線ではない。直線で作った国は、折れる。曲がる道だけが、この島に馴染む。

私は筆を止めた。

背後でナガタが、ゆっくり息を吐いた。

「……“日と喧嘩”って言い方、笑うところなのに笑えないな」「笑えないときの笑いが、いちばん国に効く」私は言った。「五瀬の血が落ちた浜を、ちゃんと“潮で消えるのに匂いが残る”にしたかった」

ナガタは、紙面の「道を改む」を指で叩いた。

「結局、道なんだな」「結局、道だ」私は頷く。「戦が先に見えても、国の骨は道に残る。足跡が骨になる」

ナガタが小さく笑った。

「じゃあ次は、五瀬が……」「書く」私は遮らずに言った。「痛みの行き先まで書く。痛みは放置すると黄泉になる。だから、ちゃんと送る」

硯の水を替える。水面が一度だけ揺れた。潮の揺れではない。“次の章が重い”という揺れだ。

 
 
 

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