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第22話 DPIAって誰のあだ名ですか?

 静岡市葵区、青葉通りから少し入った山崎行政書士事務所では、その朝、さくらが応接室のテーブルに名札を並べていた。

 山崎香澄。 悠真。 蓮斗。 奏汰。 ふみか。 しょうこ。 そして、最後に一枚。

 DPIA様。

「……さくらちゃん」

 湯呑みを持った香澄が、名札を見て静かに言った。

「はい」

「これは?」

「今日の相談者の方です」

 さくらは真剣な顔で答えた。

「相談票に、“DPIAについて相談”って書いてあったので。海外の方かなと思って、ローマ字表記のままにしました」

 事務所が一瞬、静かになった。

 陽翔がタブレットを抱えたまま、そっと近づく。

「DPIA様……」

 奏汰がヘッドホンを片耳だけ外した。

「人ではありません」

「えっ」

 さくらの顔が固まった。

 悠真が書類を整えながら、いつもの落ち着いた声で言った。

「DPIAは、Data Protection Impact Assessment。日本語では、データ保護影響評価などと呼ばれることがあります」

 さくらは名札を見た。

 DPIA様。

 もう一度見た。

「……あだ名じゃないんですか?」

 陽翔が腹を押さえた。

「DPIAさん、青葉通りに現る」

「笑わないでください!」

 さくらは慌てて名札を回収しようとした。

 しかし、みおが資料を抱えて入ってきて、その名札を見た。

「DPIA様……なんだか、少し偉い人みたいですね」

「偉い人ではなく、評価手続きです」

 悠真が言った。

 しょうこは名札を見て、淡々と分類した。

「誤分類です」

「しょうこさん、分類が冷静すぎます」

 さくらは両手で顔を覆った。

「すみません……。また、やってしまいました」

 ふみかがピンクのクリップボードを開きながら、やさしく笑った。

「でも、略語って人名みたいに見えることありますよね。Pマークはまだマークって分かるけど、DPIAはたしかに誰かのイニシャルっぽいです」

「DPIA・山田さんとか」

 陽翔が言った。

「いません」

 奏汰が即答した。

 香澄は笑いをこらえながら言った。

「今日は、難しい略語が出てくる相談になりそうね。さくらちゃん、その名札は記念に裏返しておきましょう」

「捨てないんですか?」

「今日の学びとして」

 悠真が小さくため息をついた。

「思い出フォルダならぬ、思い出名札ですね」

「悠真さんが先に言った!」

 陽翔が目を輝かせた。

「記録しなくていい」

 午前十時、入口の鈴が、からん、と鳴った。

「お世話になります。駿河ヘルスリンクの瀬戸です」

 入ってきたのは、三人だった。

 代表の瀬戸は四十代前半の女性。落ち着いたジャケット姿だが、手には付箋だらけのファイルを抱えている。 隣には、プロダクト責任者の若い男性、北原。ノートパソコンを抱え、目の下に少し疲れが見える。 そして、法務兼総務担当の望月。こちらはすでに相談票を握りしめており、何かを一つでも忘れたら大変だという表情をしていた。

「本日はよろしくお願いいたします」

 香澄が迎える。

「こちらこそ。実は、新しい個人データ活用サービスについて、DPIAが必要ではないかと言われまして」

 瀬戸がそう言った瞬間、さくらの肩がぴくりと動いた。

 陽翔が小声で言った。

「DPIA様、再登場」

「陽翔さん」

 さくらが睨む。

 瀬戸は不思議そうに首をかしげた。

「何か?」

 香澄がにこやかに言った。

「いえ、少し事務所内で略語の確認をしておりまして」

 悠真は、裏返された名札をそっとファイルの下へ隠した。

 しかし、北原が見てしまった。

「……DPIA様?」

 応接室の空気が止まった。

 さくらの顔が赤くなる。

 北原は一瞬きょとんとしたあと、声を出して笑った。

「すみません。でも、分かります。うちの社内でも“DPIAって誰の担当者?”って言われました」

「社内にも仲間が!」

 さくらが思わず言った。

 瀬戸も笑った。

「略語って、最初は本当に人を遠ざけますよね。今日は、そこを分かりやすく整理していただきたくて」

 香澄はうなずいた。

「もちろんです。難しい略語も、一つずつほどいていきましょう」

 相談は、駿河ヘルスリンクが始めようとしている新サービスについてだった。

 サービス名は「みちしるべケア」。

 利用者がスマートフォンアプリに健康状態、睡眠、歩数、食事の記録、通院予定、介護サービスの利用状況などを入力すると、地域の医療・介護・生活支援サービスを提案する。将来的には海外在住の家族も見守り情報を確認できるようにし、クラウド上でデータを分析して、必要な支援につなげる構想だという。

 北原が画面を開いた。

「高齢の方や、そのご家族の支援に役立てたいんです。静岡市内の介護事業者や薬局、地域包括支援の方とも連携できたらと思っていて」

 ふみかのピンクのクリップボードに、すでに文字が走っていた。

 健康情報。 生活記録。 家族連携。 海外在住家族。 クラウド分析。 介護事業者。 同意。 越境移転。 DPIA。

 陽翔がのぞき込む。

「ピンクのクリップボード、本日も高速処理です」

「今回はかなり大事な情報ですから」

 ふみかは真剣だった。

 悠真がホワイトボードに書いた。

 個人データ。 利用目的。 リスク。 クラウド構成。 越境データ移転。 社内説明。 DPIA。

「まず、DPIAを“誰かのあだ名”ではなく、何のためのものか確認しましょう」

 さくらが小さくうなずいた。

「はい……」

 悠真は続けた。

「DPIAは、新しいサービスやデータの使い方が、人のプライバシーや権利にどんな影響を与えるかを事前に考え、リスクを減らすための評価です。怖い書類を作るためではありません。人を守るための確認作業です」

 みおがぽつりと言った。

「始める前の、思いやりの点検ですね」

 応接室が少し静かになった。

 陽翔が小声で言った。

「結論の妖精、DPIA様を一瞬で人間味あるものに」

「DPIA様ではありません」

 奏汰が言った。

 瀬戸は、みおの言葉にうなずいた。

「思いやりの点検……。それなら、社内にも説明しやすいかもしれません」

 最初に整理したのは、個人データの種類だった。

 しょうこがホワイトボードを三つに分けた。

 利用者本人の情報。 家族の情報。 連携先に渡る情報。

「まず、誰の情報を扱うのかを分けます」

 しょうこは淡々と書き込んでいく。

 氏名。 年齢。 連絡先。 健康状態。 服薬。 睡眠。 歩数。 食事。 位置情報の可能性。 介護サービス利用状況。 家族の連絡先。 海外在住家族の閲覧情報。

 北原は、ホワイトボードを見て少し顔を引き締めた。

「こうして並べると、かなり重い情報ですね」

「はい」

 香澄は穏やかに言った。

「サービスの目的は温かいものです。でも、扱う情報が温かいからこそ、丁寧に守る必要があります」

 ふみかが続けた。

「健康や生活に関する情報は、利用者さんにとってとても大切です。誰が見られるのか、何のために使うのか、どこまで家族や事業者に共有するのかを、分かりやすく説明しましょう」

 望月がメモを取りながら言った。

「同意書やプライバシーポリシーも必要ですよね」

「必要です」

 悠真が言った。

「ただし、長い文章を用意するだけでは不十分です。高齢の利用者さんやご家族が理解できる言葉で、何に使うのか、誰に共有するのか、やめたいときどうするのかを説明することが大切です」

 さくらが小さく手を挙げた。

「DPIAって、つまり“この説明で本当に利用者さんが困らないか”も見るんですか?」

「はい」

 香澄がうなずいた。

「とても大切な視点です」

 さくらの顔に、少し安心したような表情が戻った。

 次に、GDPRの話になった。

 瀬戸がファイルを開く。

「海外在住の家族にも見守り情報を見てもらう予定があります。さらに、将来的には海外の利用者にも展開したいという話が出ています。そこで、GDPRという言葉が出てきて……」

 さくらがまた少し身構えた。

「GDPR様……ではないですね」

 陽翔が吹き出した。

「さくらちゃん、学習が早い」

「もう間違えません」

 奏汰が言った。

「GDPRも人ではありません」

「はい」

 悠真はホワイトボードに書いた。

 GDPR。 越境データ移転。 海外家族の閲覧。 海外クラウド事業者。 海外展開の可能性。

「GDPRは、EU域内の個人データ保護に関する規制として知られています。今回、すぐに適用されるかどうかは、サービスの対象や提供方法、利用者の所在地などを慎重に確認する必要があります」

 かなえが補足した。

「海外在住の家族が見るだけなのか、海外の利用者を対象にサービスを提供するのか、海外の事業者にデータを移転するのか。ここを分けましょう」

 しょうこがすかさず分類した。

 一、海外にいる家族が閲覧する。 二、海外クラウド事業者がデータを処理する。 三、海外の利用者向けにサービス展開する。

「この三つは、同じ“海外”でも意味が違います」

 瀬戸は目を丸くした。

「確かに、社内では全部“海外対応”で一緒になっていました」

 陽翔が言った。

「海外丼ですね。具材が全部混ざっている」

「丼にしないでください」

 悠真が言った。

「でも、分ける必要があるのはその通りです」

 北原がノートパソコンを見ながら言った。

「クラウドの構成でも、データ保存場所や分析サービスのリージョンを確認する必要がありますね」

 その言葉で、蓮斗と奏汰が同時に顔を上げた。

「構成図を見せてください」

 二人の声が重なった。

 陽翔が小声で言う。

「クラウド班が同時起動しました」

 北原は少し緊張しながら、クラウド構成図を表示した。

 利用者アプリ。 認証基盤。 APIサーバー。 データベース。 分析基盤。 通知サービス。 家族向け閲覧画面。 外部事業者連携。 ログ保存。 バックアップ。

 蓮斗は構成図をじっと見つめた。

「データベースの保存リージョン、分析サービスの処理場所、バックアップ先、ログ保存先が確認ポイントです」

 奏汰が続ける。

「家族向け閲覧画面では、本人のどの情報をどこまで見せるか。介護事業者には何を共有するか。外部連携先ごとにアクセス権限を分ける必要があります」

 北原がうなずく。

「今は、管理者画面でかなり広く見える設計になっています」

 応接室の空気が一瞬だけ冷えた。

 蓮斗が静かに言った。

「管理者画面は、よく怪物になります」

 陽翔がすかさずメモを取る。

「本日の名言、怪物系です」

 奏汰が言った。

「最初から最小権限で設計しましょう。役割ごとに見える情報を分ける。閲覧、編集、削除、出力を分ける。アクセスログを残す。異常な閲覧に気づけるようにする」

 ふみかがピンクのクリップボードに書き込む。

 本人。 家族。 介護事業者。 社内管理者。 開発者。 委託先。 それぞれの閲覧範囲。

「DPIAでは、こういう技術設計も評価に入れるんですね」

 さくらが言った。

 蓮斗はうなずいた。

「入ります。プライバシーのリスクは、契約書だけでなく、画面や権限やログにも現れます」

 瀬戸は構成図を見つめた。

「人を支えるサービスのはずなのに、設計を間違えると、人を不安にさせるかもしれないんですね」

 香澄はやさしく答えた。

「だから、始める前に考えるんです」

 次に、リスクの洗い出しに入った。

 りながホワイトボードに大きな表を作った。

 リスク。 影響。 発生可能性。 対策。 残る課題。 説明方法。

「たとえば」

 りなは書き始めた。

 本人が知らない範囲で家族に情報が見える。 介護事業者が必要以上の情報を閲覧する。 海外のクラウドサービスにデータが保存されることを本人が理解していない。 退職者アカウントが残る。 管理者が必要以上にデータを見られる。 分析結果が誤解を生み、不安を与える。 データ削除や利用停止の手順が不明確。 漏えい時の報告手順がない。

 望月は表を見て、少し青ざめた。

「たくさんありますね」

 香澄は首を振った。

「これは、サービスが悪いという意味ではありません。大切なサービスだからこそ、起こりうることを事前に見るんです」

 みおが言った。

「傘を持っていくのは、雨を願っているからじゃないですもんね」

 応接室が少しやわらいだ。

 陽翔が小さく拍手した。

「DPIA、傘になる」

「比喩としては良いです」

 悠真が言った。

 さくらは、裏返した名札をちらっと見た。

 DPIA様。

 さっきまで、人名に見えていたその文字が、少し違って見えた。

 難しい略語。 英語の四文字。 でも、その中身は、誰かが困らないように先に考えること。

「DPIAって、優しいんですね」

 さくらがぽつりと言った。

 陽翔が驚いた顔をした。

「さくらちゃんが、DPIA様と和解しました」

「様はつけません」

 さくらは少し笑った。

 午後は、社内説明資料の整理に入った。

 瀬戸が言った。

「社内の開発チームや営業チームに、DPIAの必要性を説明したいんです。ただ、“GDPR対応のためにDPIAをやります”と言っても、たぶん伝わりません」

「伝わりにくいですね」

 しょうこが即答した。

「社内説明は、役割ごとに変えましょう」

 しょうこはホワイトボードに三つの相手を書いた。

 経営層。 開発チーム。 営業・サポートチーム。

「経営層には、事業リスクと信頼の話。開発チームには、設計に反映すべき要件。営業・サポートチームには、利用者への説明と問い合わせ対応。これを分けます」

 陽翔が感心した。

「しょうこさん、社内説明まで譜面にするんですね」

「今回は五線譜ではありません」

「三段譜ですね」

「違います」

 ふみかが社内説明の見出し案を出した。

 なぜDPIAを行うのか。 どんな個人データを扱うのか。 利用者にどんな影響があるのか。 リスクを減らすために何をするのか。 開発・営業・管理部門が守ること。 問い合わせや事故時の対応。

 悠真が言った。

「難しい略語から入るのではなく、“利用者さんが安心して使えるサービスにするため”から説明したほうがよいです」

 瀬戸は大きくうなずいた。

「それが一番、当社らしいです」

 北原も言った。

「開発チームにも、単なる法務チェックではなく、設計の品質を上げるためだと伝えたいです」

 奏汰が言った。

「プライバシー要件は、後付けするとつらいです。最初から設計に入れるほうが、結果的に作りやすい」

 陽翔が言った。

「プライバシーも、最初から弁当に仕切りを入れるほうが楽ですね」

「また弁当ですか」

 さくらが笑う。

「あとからカレーとショートケーキを分けるのは大変です」

 悠真が少しだけ考えた。

「今日のたとえとしては、分かりやすいです」

「久しぶりの弁当比喩、採用!」

 夕方近く、DPIAの初回整理がまとまった。

 サービスで扱う個人データを洗い出す。 利用目的と共有先を整理する。 本人、家族、介護事業者、社内担当、委託先ごとに閲覧範囲を決める。 GDPRや海外展開の可能性について、対象者や提供地域を分けて確認する。 越境データ移転がある場合、クラウド保存場所や委託先、説明内容を確認する。 クラウド構成では、保存リージョン、バックアップ、ログ、アクセス権限、削除手順を整理する。 リスクを洗い出し、対策と残る課題を記録する。 社内説明資料を作り、経営・開発・営業サポートそれぞれに伝える。 利用者向けの説明文、同意、問い合わせ対応、利用停止・削除手順を整える。

 しょうこが、いつもの三行にまとめた。

「一、DPIAは、個人データの使い方が人に与える影響を事前に考えること。 二、GDPR、越境移転、クラウド構成は、“誰の情報がどこでどう使われるか”に分けて見る。 三、難しい略語も、利用者を守るための道具として社内に伝える。」

 瀬戸は、その紙を見て静かに息を吐いた。

「これなら、社内に説明できます」

 北原も言った。

「構成図の見直しも必要ですね。管理者画面の権限、家族が見られる情報、ログ、削除手順。開発チームで整理します」

 望月は、少し笑った。

「最初はDPIAという言葉だけで怖かったんです。でも今は、サービスを始める前の大事な準備だと思えます」

 さくらが、裏返した名札をそっと表に返した。

 DPIA様。

 全員が見た。

 さくらは少し恥ずかしそうに言った。

「この名札、今日の最初は間違いでした。でも、なんだか今は、DPIAに席を用意するのも悪くない気がします」

「席?」

 瀬戸が尋ねる。

「新しいサービスを作る会議に、利用者さんの安心を考える席を用意する、というか……」

 応接室が静かになった。

 みおが嬉しそうに微笑んだ。

「さくらさん、それ、すごくいいですね」

 悠真も静かにうなずいた。

「DPIAを人扱いしたことが、最後に良い比喩になりましたね」

 陽翔が感動したように言った。

「DPIA様、ついに名誉回復」

「様はつけません」

 さくらは今度は笑って言った。

 香澄は、名札を見てやさしく微笑んだ。

「難しい制度や略語も、会議の端に置いておくものではなく、ちゃんと席を用意して向き合うものなのかもしれませんね」

 瀬戸は深くうなずいた。

「当社の社内説明で、その話を使わせてください。新サービスの会議には、利用者の安心の席を用意しましょう、と」

「ぜひ」

 香澄が言った。

 三人が帰るころ、青葉通りには夕方の光が差していた。

 瀬戸は入口で振り返り、笑顔で言った。

「今日はありがとうございました。DPIA様にも、よろしくお伝えください」

 さくらが顔を赤くした。

 陽翔が吹き出した。

 悠真は小さく咳払いした。

「正式には、DPIAです」

 瀬戸は笑いながら事務所を出ていった。

 からん。

 入口の鈴が鳴り、事務所には一日の終わりの静けさが戻った。

 さくらは名札を手に取り、しばらく眺めていた。

「DPIAって、最初は本当に分からない言葉でした」

「今は?」

 香澄が尋ねる。

「利用者さんを守るための道具、です」

 ふみかがうなずいた。

「個人情報保護やプライバシーって、書類や規程だけじゃなくて、サービスの作り方そのものに関わるんですね」

 蓮斗が言った。

「クラウド構成も、プライバシーの一部です」

 奏汰が続けた。

「権限、ログ、保存場所、削除。全部、人を守る設計です」

 しょうこはホワイトボードの三行を消す前に、少しだけ見つめた。

「略語は短いですが、中身は長いですね」

 陽翔が言った。

「湯呑み候補です」

「略語を湯呑みに印字しないでください」

 さくらが言った。

 悠真は、珍しく少し笑った。

「今回は、名札で十分です」

 その日の終業前、悠真は正式な資料を保存した。

「個人データ新サービス_DPIA初回整理_初版.docx」

 陽翔が横からのぞいた。

「正式ですね。DPIA様感がありません」

「必要ありません」

「では、思い出フォルダ用に」

「作る前から止めます」

 しかし、三分後。

 共有フォルダに新しいファイルができていた。

「DPIAって誰のあだ名ですか_利用者の安心に席を用意する版.xlsx」

 悠真は画面を見た。

 削除キーに指を置いた。

 その瞬間、さくらが言った。

「それは……思い出フォルダなら、残してもいいです」

 みおも頷いた。

「今日の学びが入っています」

 香澄が微笑んだ。

「残しましょう」

 悠真は静かにため息をついた。

「思い出フォルダなら」

 翌朝、駿河ヘルスリンクの瀬戸からメールが届いた。

「昨日はありがとうございました。社内会議で“利用者の安心の席を用意する”という説明を使ったところ、開発チームにも伝わりました。DPIA様の名札も作ろうかという話になりましたが、いったん資料内の見出しに留めます」

 陽翔が読み上げると、事務所に笑いが広がった。

 さくらは少し恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑った。

 香澄はお茶を淹れながら、青葉通りの朝を見た。

 難しい略語は、人を遠ざけることがある。 GDPR。 DPIA。 越境移転。 クラウド構成。 アクセス権限。 リスク評価。

 けれど、一つずつほどいていけば、それらは誰かを困らせるための言葉ではない。 人を守るための道具になる。

 利用者が安心してサービスを使えるように。 家族が必要な情報だけを見られるように。 社員が説明できるように。 開発者が最初から守る設計を選べるように。

 青葉通りの契約書は、今日も笑う。 DPIA様という少し不思議な名札が、難しい略語の向こうにいる人たちの安心を、そっと照らした朝に。


 
 
 

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