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第24章 八咫烏、黒い翼が道を縫う


第四部「道の骨、東の光」

第24章 八咫烏、黒い翼が道を縫う

黒は、闇の色ではない。雨の白の中で、道を一本にまとめるための色だ。黒い翼がひとつ羽ばたけば、迷いは、縫い目のように縮まっていく。

熊野を書いたあとの部屋は、まだ湿っていた。実際に湿っているわけじゃないのに、指先が紙の端を触るたび、「雨の名残」が戻ってくる。雨は厄介だ。落ちない。落ちないから、物語に向く。

ナガタが、湯呑みを持ったまま言った。

「……カラスかよ」「カラスだ」私は頷く。「神話って、たまに“急に現場に強い生き物”を出すだろ」「現場に強いって何だよ」「雨に強い。森に強い。方向感覚に強い。——人間より強い」

ナガタは、ふっと鼻で笑った。

「要するにGPSだ」「言い方が下品」「でもほら、雨でスマホ使えないとき、だいたい鳥が勝つだろ」「勝つな。鳥が勝ってたまるか」「勝ってるんだよ」

私は墨を摺りながら、少しだけ笑った。笑ったせいで、黒が一瞬だけ軽くなる。軽くなった黒で、黒い翼を書く。矛盾の手触りがちょうどいい。

ナガタが、例の札をひらひらさせる。

——一書曰く、八咫烏、三足にして来たり、道を導く。——一書曰く、高御産巣日、遣はす。——一書曰く、天照大神の命なり。

「三本足って、盛りすぎだろ」「盛りすぎるくらいじゃないと、雨の中で道が一本にならない」「二本で十分だろ」「二本だと滑る。三本だと踏ん張れる」「雑な理屈だな」「雑じゃない。熊野は滑る」

ナガタは「なるほど……」という顔をしてしまい、悔しそうに口を尖らせた。

「じゃあ書け。三本足のカーナビ」「だから言い方」私は筆を取った。

——八咫烏、熊野の山に降り立ちて、皇軍の前を導く。

雨はまだ降っていた。

降っているのに、さっきまでの雨と違う。さっきの雨は「消す雨」だった。道を消し、声を消し、方角を消す雨。今の雨は「縫う雨」だ。縫うために濡らし、縫い目を見せるために白くする雨。

森の中の白に、黒が立った。

八咫烏。

黒い翼。黒い嘴。黒い影。白い雨の中で、黒は“線”になる。線になる黒は、安心でもあるし、誘惑でもある。

「……あれが」

誰かが呟く。呟きは雨に吸われるはずなのに、今日は吸われない。吸われないのは、黒が“聞こえる場所”を作っているからだ。黒は、視界だけではなく、耳にも効く。

烏が、鳴いた。

からすの声は、きれいじゃない。きれいじゃない声は、森に馴染む。森に馴染む声は、嘘をつきにくい。嘘をつきにくい声は、道に向いている。

伊波礼毘古(いわれびこ)は、剣を握ったまま烏を見た。

布都御魂(ふつのみたま)の冷たさが、手のひらに残っている。冷たさが残っているうちは、眠りに戻らない。眠りに戻らない者は、進める。

烏は、首をかしげた。

かしげ方が、妙に人間くさい。人間くさい仕草は、危うい。危ういのに、人はそれに甘える。甘えると、足が前へ出る。

烏が、ふっと飛び立つ。

飛び立つ音は大きくない。大きくない音が、雨の中で目立つ。目立つ音は、次の一歩の合図になる。

烏は、少し先の枝に降りる。

降りた枝が、しなる。しなった枝から、水が落ちる。落ちた水が土に点を作る。点は、すぐ線になる。

烏がまた飛び、また降りる。

降りる、飛ぶ、降りる、飛ぶ。

その繰り返しが、森の中に黒い縫い目を作る。縫い目があると、白い布――雨の世界が、ほどけなくなる。ほどけなくなると、人の胸もほどけなくなる。

「……行け」

伊波礼毘古が言う。

短い言葉だ。短い言葉は、雨に強い。

供の者たちは、烏の後を追った。

追う、と言っても追いつけない。烏は飛ぶ。人は歩く。だから烏は、追いつける距離だけ飛ぶ。追いつける距離だけ飛ぶ導きは、優しい。優しい導きは、油断を育てるのではなく、勇気を育てる。

森の匂いが濃い。

杉の匂い。朽ち木の匂い。苔の匂い。雨に潰された土の匂い。その全部が混ざって、「熊野」の匂いになる。

熊野の匂いは、甘くない。甘くないのに、どこか懐かしい。懐かしいのは、人が本当は“森の湿り気”でできているからだ。家も衣も言葉も、元は森の中の湿り気から生まれた。

烏は、川の前で止まった。

止まった、というより、低い石に降りて、じっとこちらを見る。

川は増えていた。雨の川は、声が太い。太い声の川は、命令のように聞こえる。

——渡るな、と。

だが烏は、鳴いて、少し上流へ飛んだ。

上流へ飛ぶ、というのが道だ。道は、いつも“少し上流”にある。楽なところはだいたい罠だ。罠ではないところへ行くには、少しだけ苦労が要る。

一行は、烏の指す場所で川を渡った。

水が膝を叩く。冷たい。冷たい水は、血を思い出させる。血を思い出すと、竈山が胸に立つ。立つ竈山の熱の上で、足元の冷えがいっそう冴える。

伊波礼毘古は、川の中でふと空を見た。

空は白い。白いのに、どこか薄くなっている。薄くなる白は、雨が“終わり方”を覚えた白だ。

烏は、その白の薄さを先に知っている顔をしていた。

鳥は、空の変化に早い。早い者は、迷わない。迷わない者の背中を見ると、人は迷いを恥じられる。恥じると、背筋が少し伸びる。伸びた背筋は、道を折らない。

烏の導きは、地図ではない。

地図は線を決める。烏は「線になる前の気配」を見せる。枝の揺れ。風の温度。雨の粒の角度。湿った土の沈み方。それらが、右か左かを決める。

伊波礼毘古は、少しずつ、烏の読み方を覚える。

読む、という行為が、また戻ってくる。

潮を読んだ。影を読んだ。雨を読んだ。いまは、烏の沈黙を読む。

沈黙を読む者は、強い。強い者は、勝つために強いのではない。迷わないために強い。迷わない者だけが、国の骨を折らずに歩ける。

烏が、急に高く舞った。

高く舞う黒は、雲の白に刺さる。

刺さった黒が、くるりと回り、向きを定める。その瞬間、伊波礼毘古の胸が“東”を思い出す。

東は、見えない。けれど“東の匂い”がする。

匂いがするのは気のせいかもしれない。だがこの国では、気のせいがだいたい本当になる。

森の奥で、風が少し変わった。

熊野の風は重い。だがいまの風は、少し乾いている。乾きが混じると、森の匂いが薄まる。薄まったところに、別の匂いが入る。

草の匂い。開けた場所の匂い。人の火の匂い。そして、どこか“盆地”の匂い。

「……出るぞ」

誰かが言った。今度は吸われない。吸われないのは、みんなが同じ匂いを嗅いだからだ。

烏が、最後に一度だけ低く鳴いた。

鳴き方が、さっきまでと違う。急かす鳴き方ではない。「ここからは、お前たちの足で縫え」と言う鳴き方だ。

森が、ほどける。

木々の密度が落ち、空の白が広がる。広がった白の中で、雨が小さくなる。小さくなった雨は、やっと“雨粒”の顔をする。

そして――

谷が見えた。

谷の底を川が走り、その向こうに、山が重なり、さらに向こうに、うすい光が溜まっている。

光が溜まっている場所は、平らだ。平らな場所は、人を住まわせる。人を住まわせる場所は、国になる。

伊波礼毘古は、息を吸った。

吸った息が、熊野の湿り気ではない。まだ湿っているが、もう“閉じた湿り気”ではない。開いた湿り気だ。開いた湿り気は、前へ進ませる。

烏が、谷の上を横切って飛んだ。

黒い翼が、空に一本の線を引く。

その線の先に、まだ見えないけれど確かにあるものがある。

――大和。

言葉にした途端、胸が少しだけ痛む。痛むのは、五瀬の空席がまだ濡れているからだ。濡れている空席は、乾かす場所を探している。乾かす場所が、国になる。

烏が、ふっと見えなくなる。

見えなくなるのは終わりではない。烏が“道そのもの”になった、ということだ。道になったものは、もう姿を見せなくていい。

一行は、歩き出す。

雨の音が、背中で小さくなる。背中で小さくなった雨は、もう迷いの雨ではない。汗と混じって、ただの湿り気になる。

湿り気は、暮らしの始まりだ。

「……カラス、消えたな」

背後でナガタが言った。声が、少しだけ安心している。導きがある章は、読む側も導かれた気になる。

「消えた」私は頷く。「導きって、最後は消えるべきなんだ。残ると、依存になる」

ナガタは、不満そうに口を尖らせる。

「でもさ、もうちょい“神の使い感”出してもよかったんじゃない?」「出したら嘘になる」私は言った。「烏は烏のままが強い。現場に強いものは、だいたい地味だ」

ナガタが「現場に強い」を気に入った顔をして、嫌だった。

「次は?」「次は、人だ」私は硯の水を替えた。熊野の冷たさが、ようやく抜けていく。

「人の“うそ”と“まこと”が出る。道が開けると、次に増えるのは、人の言葉だ。言葉が増えると、罠も増える」

 
 
 

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