第25章 宇陀、罠の匂いと若い告白
- 山崎行政書士事務所
- 2月11日
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第四部「道の骨、東の光」
第25章 宇陀、罠の匂いと若い告白
罠は、土の匂いをする。新しい木の匂いではなく、古い落ち葉が溶けた匂い。——人の嘘は、だいたい湿っている。
熊野の雨を抜けた紙は、なぜか乾きが早かった。雨の章で湿ったはずなのに、次の章へ行くと急に乾く。たぶん「道」が開けたからだ。道が開けると、風が通る。風が通ると、紙も心も乾く。乾きは楽だ。けれど乾くと、匂いが薄くなる。匂いが薄くなると、人の嘘が目立つ。
ナガタが、机の端で指を鳴らした。
「宇陀(うだ)だな。ここ、嫌な話だろ」「嫌だ」私は即答した。「雨より嫌だ。森より嫌だ。だって、ここからは“人の仕掛け”だ」
ナガタは顔をしかめる。
「熊野は神の毒気だの夢だの烏だの、まだ“自然の厄介さ”で済むじゃん。宇陀はさ、床が抜けるんだろ」「神話の罠、だいたい床が抜ける」「現代の罠もだいたい床が抜けるぞ。社会的に」「役所の罠は書類で抜ける」「やめろ、胃が痛い」
私は墨を摺った。黒が、さっきまでの熊野の黒と違う。熊野の黒は雨と森の黒だった。宇陀の黒は、“人の裏側”の黒だ。
「宇陀って、盆地の匂いがする」私が言うと、ナガタは首を傾げた。
「盆地の匂い?」「朝、霧が溜まって、昼、日が刺して、夜、冷える。匂いが逃げない。だから嘘も逃げない」
ナガタが、異伝の束をぺらっとめくる。
— 一書曰く、宇陀に兄宇迦斯(えうかし)・弟宇迦斯(おとうかし)あり。— 一書曰く、兄は欺かむとす。弟は告ぐ。— 一書曰く、罠を設けたり。
「ほら。兄弟喧嘩の最悪版」「喧嘩じゃない」私は言った。「“家の中の政”だ。そして国ってのは、だいたい家の中の政が拡大したものだ」
ナガタがため息をついた。
「若い弟が裏切るやつ?」「裏切る、って言い方にすると薄い」私は筆を持ち直す。「若い弟が“未来に賭ける”やつだ。賭けるとき、手は震える。震える手の匂いを書きたい」
ナガタが鼻で笑った。
「匂いばっかだな」「国は匂いでできてるって、もう何回も言った」「はいはい。じゃあ、罠の匂い、書け」
私は紙の上に、宇陀へ入る一行を置いた。
——神倭伊波礼毘古命、八咫烏の導きに従ひて、宇陀の地に入りたまふ。
宇陀の朝は、霧で始まる。
霧は熊野の霧と違う。熊野の霧は「隠す」霧だった。宇陀の霧は「溜める」霧だ。溜める霧は、盆地の底に沈み、話を沈め、匂いを沈める。沈めたものは、昼になってもすぐには抜けない。だから宇陀では、言葉より先に“気配”が残る。
伊波礼毘古(いわれびこ)の一行が谷を越えたとき、空気が少し甘かった。
甘い、と言っても花の甘さではない。湿った草の甘さ。落ち葉が土に戻る途中の甘さ。そこに、わずかに鉄の匂いが混じる。
鉄の匂い。
鉄は武器の匂いにもなるが、罠の匂いにもなる。武器の鉄は正面の鉄だ。罠の鉄は床下の鉄だ。床下の鉄は、いつも湿っている。湿っている鉄は、陰気だ。
八咫烏は、霧の中を迷わず進む。
黒い翼が、霧の白を縫う。縫われた霧は、少しずつ「道」になる。道ができると、人は安心する。安心した瞬間に、人の罠は効きやすくなる。
宇陀の里の入口に、若い男が立っていた。
立ち方が、木の影みたいに薄い。薄いのに、目だけは逃げない。逃げない目は、眠っていない目だ。眠っていない目は、決めている目だ。
男は名を名乗った。
「宇陀の弟、宇迦斯(うかし)」
弟、と言うとき、喉が少し詰まる。詰まる喉は、家の匂いだ。家の匂いの中に政治が入ると、人は少しだけ老ける。若いのに老けるのが、境界の子だ。
伊波礼毘古は言った。
「兄は?」
弟宇迦斯の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
揺れは一瞬だが、匂いは残る。揺れの匂いは、嘘の匂いではない。恐れの匂いだ。恐れは嘘より正直だ。
弟宇迦斯は、小さく息を吸って、言った。
「……兄は、迎えの支度をしております」
迎え、という言葉は、あたたかいはずなのに、宇陀では冷える。迎えが冷えるとき、それは罠の始まりだ。
伊波礼毘古は、弟の顔を見た。
見方が、熊野の雨を見たときの見方に似ていた。「見えないものを読む」見方だ。
伊波礼毘古は問う。
「支度とは、何の支度だ」
弟宇迦斯は、唇を噛んだ。
噛んだ唇から、血の味がする。血の味は、潮の味に似る。潮の味が出るとき、嘘は持たない。嘘は乾いて割れる。
弟は、ついに言った。
「……罠です」
その二文字が、霧を一度だけ薄くした気がした。言葉がはっきりすると、霧は少し退く。退く霧の下から、現実が出る。現実は、だいたい土の匂いがする。
弟宇迦斯は続ける。
「兄は、殿を殺さむとしております。床を抜き、下に槍を立て、宴のふりをして落とすつもりです」
床を抜く。宇陀の罠は、宇陀の匂いに似ている。落ち葉の下が空洞になって、足が沈む、あの感じ。自然の穴を、人の手が真似る。真似ることで、自然より陰湿になる。
伊波礼毘古の供の者たちが、息を呑む。
息を呑む音が、霧の中で小さく鳴る。小さく鳴る音は、恐さの音だ。恐さの音が増えると、槍より先に心が折れる。
伊波礼毘古は、弟宇迦斯に聞く。
「なぜ告げる。お前も宇陀の者だろう」
弟宇迦斯は、すぐに答えない。
すぐに答えない沈黙は、正直の沈黙だ。嘘はだいたい早口になる。正直は、言葉を選ぶ分だけ遅い。
弟は言った。
「……兄が勝てば、宇陀は生き残るかもしれません。でも、国は割れます。割れた国で、宇陀は長くは生きられません」
若い口から「国」という言葉が出るのが、少し痛い。国という言葉は、たいてい老人の喉に重い。若い喉に重い言葉が乗るとき、それはもう子どもの話ではない。
弟宇迦斯は、さらに小さく言った。
「それに……怖いのです。罠の下で死ぬ顔を、見たくない」
“見たくない”。
ここでまた「見るな」が出てくる。黄泉で、産屋で、海の産屋で。そして宇陀の床下で。
見るな、というのはいつも、境界の言葉だ。境界の言葉が出るとき、人はたいてい何かを越えようとしている。
伊波礼毘古は、弟の恐れを責めなかった。
恐れを責めると、国は嘘でできる。嘘でできた国は、雨で溶ける。熊野の雨が、それを教えていた。
伊波礼毘古は言った。
「案内せよ。罠を見せよ」
弟宇迦斯の顔が、一瞬だけ強張る。
強張りは、罪の匂いだ。告げた者は助かるかもしれない。だが告げた者は、家に戻れない。戻れない匂いが、若い顔を大人にする。
弟は頷いた。
「……こちらです」
兄宇迦斯の館は、立派だった。
立派な館は、罠を隠すのに向いている。貧しい小屋の罠はすぐ見つかる。立派な館の罠は、「まさかここに」と思わせる。思わせた瞬間、床が抜ける。
館の中は、妙に新しい木の匂いがした。
新しい匂いは、逆に怪しい。古い家は、古い匂いがする。古い匂いがしない古い家は、何かを隠している。
伊波礼毘古は、床板を見た。
綺麗すぎる。踏むと音が少し軽い。軽い音は空洞の音だ。空洞の音は、黄泉の音と似ている。
伊波礼毘古は、供の者に目配せした。
久米(くめ)の者が、音も立てずに床の端を押す。押すと、わずかにしなる。しなる床は、真面目に危ない。
弟宇迦斯が、囁く。
「……ここです。ここが抜けます」
囁き声は、霧の声だ。霧の声は、耳の内側に直接落ちる。落ちた声は、心臓を速くする。
伊波礼毘古は言った。
「兄を呼べ」
弟宇迦斯の肩が、わずかに震えた。
震えた肩は、若い。若い震えは、残酷な選択の震えだ。
弟は、外へ走った。
走る足音が、館の板を叩く。叩く足音は、罠の上の鼓動だ。鼓動が板を叩くたび、床下の槍が待っている気がする。槍は待つ。槍は急がない。急がないものは、怖い。
やがて兄宇迦斯が現れた。
顔が笑っている。笑っているのに、目が笑っていない。目が笑っていない笑いは、宴の笑いではない。「落とす笑い」だ。
兄は言った。
「ようこそ。遠き道を。さあ、こちらへ。酒も用意しております」
酒。
酒が出るとき、神話はいつも一度だけぬるくなる。ぬるくなるから、落とし穴が効く。
伊波礼毘古は、兄の笑いを見ながら、静かに言った。
「酒の前に、まず――お前の足元を確かめよう」
兄宇迦斯の眉が動いた。
その動きは一瞬で、すぐ笑いに戻る。戻る笑いが速いほど、心は黒い。黒い心は、床下に向く。
伊波礼毘古は、弟宇迦斯を見た。
弟は目を伏せている。伏せた目は恥の目だ。恥は、嘘ではない。嘘より重い。嘘は乾くが、恥は湿る。
伊波礼毘古は言った。
「この床は、宇陀の床だ。宇陀の匂いがする。宇陀の者なら、宇陀の床の怖さを知っているだろう」
兄宇迦斯の笑いが、少しだけ止まる。
止まった笑いの隙間に、霧が入り込む。霧が入り込むと、言葉が濡れる。濡れた言葉は滑る。
兄が言いかける。
「何を——」
その瞬間、久米の者たちが動いた。
動きは速い。速い動きは、嘘より速い。嘘が形になる前に、体が勝つ。
兄宇迦斯の足元が、ぐらりと沈む。
沈む音は小さい。小さいのに、館の空気が一斉に冷える。冷えるのは、床が抜けたからではない。“人の罠が露見した”からだ。
兄宇迦斯は、声を上げようとして上げられない。
声を上げる前に、笑いが割れた。割れた笑いは、みっともない。みっともなさは、人間の色だ。神話は時々、こうして人間を剥き出しにする。
伊波礼毘古は、目を逸らさなかった。
逸らさなかったのは冷たいからではない。逸らしたら、この国はまた「覗くな」を繰り返すだけだからだ。見るべきものを見ないと、境界が増える。境界が増えると、道が折れる。
弟宇迦斯が、唇を噛む音がした。
噛む音は小さい。小さい音が、いちばん痛い。
伊波礼毘古は、弟に言った。
「お前は、生きろ。生きて、宇陀の湿り気を知る者として道を作れ」
弟宇迦斯は、何も言えない。
言えないのは赦されたからではない。赦しと責任が同時に来たからだ。同時に来ると、若い喉は詰まる。
詰まった喉から、ようやく一言だけ落ちた。
「……はい」
その一言は、誓いの匂いをしていた。誓いの匂いは、まだ薄い。薄い誓いは、これから濃くなる。濃くなるには、暮らしが要る。暮らしは、道の上で起こる。
館を出ると、霧が少し晴れていた。
晴れた霧の向こうに、宇陀の盆地が見える。盆地の底には田があるはずだ。田は、嘘より遅い。遅いものは、国を長持ちさせる。
伊波礼毘古は、遠くを見て言った。
「ここから先は、刃より言葉が厄介になる」
言葉。
言葉が厄介になるとき、歌が必要になる。歌は言葉を柔らかくする。柔らかくなった言葉は、殺しすぎない。殺しすぎない国だけが、朝を長くできる。
八咫烏は、もう見えない。
けれど道は消えない。消えないのは、烏が残したからではない。今は、人が足跡で縫う番だからだ。
「……弟、救われたのか?」
背後でナガタが言った。声が少し低い。宇陀は、読む側も罪を握らされる。
「救われた、とは言えない」私は正直に答えた。「救いってのは、いつも後から来る。今はただ、若い告白が“国の方向”を変えただけだ」
ナガタは、紙面の「罠の匂い」のところを指で叩いた。
「人の罠って、湿ってるって言ったな」「湿ってる」私は頷く。「乾いた罠は気づきやすい。湿った罠は、土に馴染んで見えない。だから宇陀は怖い。盆地は匂いが逃げないから」
ナガタが、ふっと息を吐いた。
「次は?」「次は、歌だ」私は硯の水を替えた。宇陀の湿り気を、少しだけ薄めるために。
「矢より先に刺さる声を書く。“久米の歌”だ。戦いを、言葉で少しだけ人間の側に戻す章」





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