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第29章 金鵄、朝日が敵の目を奪う


第四部「道の骨、東の光」

第29章 金鵄、朝日が敵の目を奪う

紙は燃える。言葉は割れる。けれど光だけは、誰の手にも破れない。——天の返事は、たいてい“眩しすぎて読めない”。

「……鳥で決着つけるの、ずるくない?」

ナガタが言った。湯呑みの縁を指で撫でている。撫でる指が落ち着かないのは、彼が“ご都合主義”を嫌うからだ。嫌うのに、神話を読む。矛盾している。矛盾しているのが、この国の読者だ。

「ずるい」私はあっさり頷いた。「でも、ずるさにも種類がある。紙で殴り合うずるさより、光で殴るずるさのほうが、まだ風土に近い」

ナガタが眉を寄せる。

「光で殴るって何だよ。目に悪いだろ」「目に悪い」私は正直に言う。「でも“目に悪い”くらいじゃないと、正しさが二つある地獄は終わらない。眩しさで一回、言葉を焼く必要がある」

ナガタはため息をついた。

「……天のハンコか」「天のハンコだ」私は墨を摺る。黒が、いつもより締まって見える。締まった黒は、光を書く準備だ。光は黒がないと見えない。眩しさは暗さの上に乗ってくる。

「でもさ、金の鳥って……キラキラしすぎじゃね?」「キラキラしすぎるから、敵の目が終わる」「目が終わる言い方やめろ」「終わるんだよ。神話の目は、たまに雑に終わる」

ナガタが口を尖らせる。

「どう書くんだよ。キラッ!で終わりか?」「キラッ!じゃ終わらない」私は筆を取った。「“眩しい”って、ただの視覚じゃない。喉が乾く。涙が塩辛い。足元がふらつく。——体全体が負ける。その負け方を書く」

ナガタは、観念した顔で言った。

「……じゃあ、眩しさで殴れ。天のハンコで殴れ」「殴る」私は頷き、最初の一行を置いた。

——皇軍、長髄彦と戦ふ。ときに金鵄(きんし)、天より来たりて弓の端に止まりぬ。

朝は、盆地に溜まる。

大和の朝は、山の影の底に一度溜まってから、ゆっくり立ち上がる。香具山の匂いが先に目を覚まし、畝傍山の形が次に見え、耳成山の沈黙が最後に残る。残った沈黙の上へ、ようやく光が来る。

光が来る前の時間は、薄い。薄い時間は、刃に向く。

長髄彦の陣は、盆地の“馴染んだ匂い”をまとっていた。湿った土。古い薪。人の汗。土地の匂いは、地元の者を強くする。強くするから、よそ者はいつも言葉を持ってくる。言葉で殴らなければ、匂いに負けるからだ。

伊波礼毘古(いわれびこ)の陣は、まだ“移動の匂い”が残っていた。塩。船板。濡れた布。山越えの泥。旅の匂いは、勇気を持つが、根を持たない。根を持たない匂いは、風に散りやすい。

だからこそ――ここで必要なのは、根でも旅でもない。

“筋”だ。

饒速日(にぎはやひ)が示した言葉が、まだ空気に残っていた。筋は紙に書けない。筋は、見せるしかない。見せるには、決着が要る。決着は、だいたい乱暴だ。

矢が飛ぶ。

矢は、風の中を走る。走る音は小さい。小さいから、耳成山の沈黙の中でも刺さる。刺さるとき、矢は音を立てない。音が立たない痛みが、いちばん怖い。

盾が鳴る。槍が鳴る。足が泥を叩く。叫び声が、盆地の壁に当たって返る。返った叫び声は、味方の胸もざわつかせる。

長髄彦は、前に立っていた。

前に立つ者の声は強い。強い声は、兵を動かす。兵が動くと、土地が動く。土地が動くと、よそ者の足は取られる。

「押し返せ!」

長髄彦の声が、盆地に響く。響く声は“この地の主”の声だ。主の声が響く場所で、伊波礼毘古は一度、歯を食いしばった。

——器の中で戦う、というのはこういうことだ。

逃げ場がない。風が回る。匂いが戻ってくる。そして言葉も戻ってくる。

「偽(いつわ)りだ!」「押しのけるな!」「ここは我らの器だ!」

言葉が矢より先に刺さっていた。刺さった言葉は、血が出ないぶんだけ厄介だ。血が出ない痛みは、どこに置けばいいか分からない。

伊波礼毘古は、矢を番(つが)えた。

弓を引くと、背中の筋が鳴る。筋が鳴る音は、誰にも聞こえない。だが自分だけは聞こえる。自分だけが聞こえる音は、決断の音だ。

——一書曰く、日の御子、弓を執りて戦ひたまふ。

伊波礼毘古の背後には、まだ朝の光があった。正面から朝日を受けて戦う愚を、彼は一度もう学んでいる。だから方角を選ぶ。方角を選ぶ者は、戦の中でも“道”を作る。

弓の先が、敵へ向く。

そのときだった。

空気が、ひとつ鳴った。

鳴ったのは音ではない。だ。光が、突然“粒”を持って落ちてきた。

金色の粒。

金色の粒が、羽ばたきの形をしている。

鵄(とび)。

だがただの鵄ではない。

金鵄(きんし)。

金の羽があるわけではない。羽そのものが金に見えるわけでもない。朝日の刃が、羽に当たって、羽が刃になる。刃になった羽が、盆地の空気を切る。切られた空気が、目を焼く。

金鵄は、伊波礼毘古の弓の端に――止まった。

止まった瞬間、世界が一段明るくなる。明るくなるのに、見えるものが減る。眩しいと、人は見えなくなる。見えなくなると、判断が遅れる。遅れた判断は、足を止める。止まった足は、矢より先に倒れる。

長髄彦の兵が、ざわついた。

「何だ、あれは!」「鏡か!?」「太陽が降りたぞ!」

叫びが叫びのまま、霧のようにほどける。ほどける叫びは命令にならない。命令にならない叫びの群れは、ただの波になる。波になった群れは、押し返せない。

金鵄は、鳴かない。

鳴かないのに、返事のようだった。天は返事をしない。でも天は、たまに“返事じゃない返事”を寄こす。返事じゃない返事は、たいてい眩しい。

伊波礼毘古は、息を呑んだ。

呑んだ息が喉を乾かす。乾いた喉は、言葉を慎む。言葉を慎むと、体が先に動く。

伊波礼毘古は、矢を放った。

放たれた矢が、金鵄の光をまとって見えた。矢が光るのではない。光が矢に“乗る”。光が乗ると、矢はただの木と鉄ではなく、判決のように見える。

矢は飛ぶ。

飛んだ矢の先を、敵は追えない。追えないのは矢が速いからではない。目が終わっているからだ。終わった目は、涙を出す。涙は塩辛い。塩辛い涙は、視界をさらに曇らせる。曇った視界は、味方と敵の区別も曖昧にする。

「目が……!」「眩しい!」「退け、退け!」

退け、という声は恐れの声だ。恐れの声は早い。早い恐れは、隊列を壊す。壊れた隊列は、盆地の器の中で渦になる。渦になった者たちは、互いの肩を押し合って倒れる。

倒れる音が、土を叩く。

土を叩く音は、久米歌より正直だ。正直すぎる音は、命令を無意味にする。

伊波礼毘古の陣が、一気に息を吹き返す。

吹き返す息は、勝ちの息ではない。「まだ死なない」の息だ。まだ死なない、と分かった瞬間、人は急に強くなる。強くなるのは、自分が強いからではない。生きる側に“風”が戻ってきたからだ。

久米の者が叫ぶ。

「おい! 太陽、味方したぞ!」「天のハンコが来た!」「押印だ、押印!」

言い方が下品で、だから強い。下品な声は、土に馴染む。土に馴染む声は、戦を“祭の側”へ引っ張り戻す。祭の側に引っ張り戻ると、人は無闇に殺しにくい。無闇に殺さない戦だけが、あとで国に戻せる。

——一書曰く、金鵄、弓の端に止まりて光り、賊の目を眩ませり。

眩ませる、という言葉は軽い。だが実際は、軽くない。

目が眩むと、心が眩む。心が眩むと、言葉が眩む。言葉が眩むと、正しさが一瞬だけ沈黙する。

沈黙した正しさの隙間に、刃が入る。

長髄彦が、歯を食いしばる。

食いしばった歯が、乾いた音を立てる。乾いた音は、焦りの音だ。焦りは、盆地の匂いより先に鼻へ来る。

「怯むな! 目を伏せろ!」

命令は正しい。だが正しい命令が通らないのが、眩しさの怖さだ。眩しさは、命令系統より上にある。上にあるものには、誰も勝てない。

長髄彦は、ふと――饒速日を見た。

饒速日は、動かない。

動かない速さ。引っかかった速さ。その沈黙の中で、金鵄の光が彼の横顔を切り取る。切り取られた横顔は、半分が影で、半分が白い。

影は、長髄彦の側の影。白は、伊波礼毘古の側の白。

白と影の境目に、筋が一本走る。

——ああ、これが“比べる”ということか。

比べるのは宝ではない。宝は似る。だが“光に耐える顔”は、似ない。

長髄彦の兵は、眩しさに崩れている。伊波礼毘古の兵は、眩しさを背にして立っている。立っている背中は、道の背中だ。

饒速日の指が、わずかに動いた。

動いた指が、包みの紐に触れる。触れた瞬間、彼の呼吸が少しだけ変わる。変わった呼吸は、決断の匂いを持つ。

伊波礼毘古は、その気配に気づいた。

気づいたが、今は見るだけだ。言葉にすると、また証文の殴り合いが戻る。戻る前に、戦の決着が要る。

金鵄は、まだ弓の端にいる。

いるだけで、世界が片付いていく。片付く、というのが怖い。眩しさは、整理整頓が早すぎる。早すぎる整理は、こぼれ落ちるものを作る。

こぼれ落ちるのは、命かもしれない。誇りかもしれない。あるいは、もう一つの正しさかもしれない。

伊波礼毘古は、弓を下ろさないまま、心の中でだけ言った。

——天よ、返事をしないなら、せめて“こぼれ落ちるもの”を拾わせてくれ。

返事はない。

ただ、金鵄が一度だけ羽を震わせた。

震わせた羽から、光の粉が落ちるように見えた。粉が落ちたところで、長髄彦の旗が一枚、ふっと傾いた。

傾く旗は、戦の終わりの匂いだ。

だが終わりは、終わりではない。終わりのあとに、いつもいちばん怖い“言葉”が残る。

――誰が、筋なのか。

私は筆を止めた。

ナガタが、息を吐く。

「……目、終わったな」「終わった」私は頷く。「眩しさって、勝ち方としては卑怯だけど、神話の決着ってだいたい卑怯だ。卑怯じゃないと、二つの正しさは片付かない」

ナガタは不満そうに言う。

「でも“天のハンコ”は笑う。笑うけど怖い」「笑って怖いのが、ちょうどいい」私は言った。「建国って、笑いと怖さの間でしか起きない」

ナガタが、饒速日の「指が動いた」あたりを指で叩いた。

「で、次はこいつの決断だろ」「そうだ」私は硯の水を替えた。次の章の水は、もっと乾く。紙の水ではなく、人の血筋の水だ。

 
 
 

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