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第29話 クラウド移行の日、富士山は晴れていた

静岡市葵区、青葉通りから少し入った山崎行政書士事務所では、その朝、床が見えにくくなっていた。

 理由は、引っ越しである。

 ただし、事務所が移転するわけではない。 家具を運ぶわけでもない。 陽翔がまた思い出フォルダを増やしすぎて、物理的にサーバーを買い足すことになったわけでもない。

 机の上、椅子の上、応接室の隅に積まれているのは、古い社内規程、システム構成図、契約書、操作マニュアル、教育資料、保守報告書、そしてなぜか「平成二十四年 サーバー室空調点検」と書かれたファイルだった。

「これはもう、山崎行政書士事務所ではなく、山崎引っ越しセンターですね」

 陽翔が段ボール箱を一つ抱えながら言った。

「運ぶのは荷物ではなく、情報です」

 悠真が静かに訂正する。

「情報の引っ越し」

 さくらが目を丸くした。

「なんだか、少し詩的ですね」

 奏汰はヘッドホンを首にかけたまま、古い構成図を見ていた。

「詩的ですが、移行手順がないと事故ります」

「現実的ですね」

 あやのが笑った。

 その日の相談者は、静岡市内で長く機械部品を作ってきた老舗企業、駿河機工株式会社。 創業は昭和四十年代。地元の製造業を支えてきた会社で、社内には長年使われてきたオンプレミスのサーバーがあった。

 受発注。 在庫管理。 図面管理。 勤怠。 会計連携。 共有フォルダ。 そして、誰が作ったのか分からない「便利ツール」。

 それらを、いよいよAzureへ移行することになったのだ。

 午前十時、入口の鈴が、からん、と鳴った。

「お世話になります。駿河機工の大河内です」

 入ってきたのは、六十代前半の男性だった。穏やかな顔だが、眉間には深い皺がある。工場長を長く務め、今は常務取締役だという。

 後ろには、総務部長の村上、若手情シス担当の杉山、そしてベテラン社員の望月が続いていた。望月は五十代後半で、胸ポケットには小さなメモ帳とボールペン。見るからに、社内のあらゆる「昔からこうしている」を知っている人だった。

「山崎先生、今日はよろしくお願いします」

 香澄が笑顔で迎える。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします。今日はクラウド移行の整理ですね」

 大河内常務は深くうなずいた。

「はい。オンプレのサーバーをAzureへ移すことになりまして。ただ、社内が不安でいっぱいです」

 望月が、ぽつりと言った。

「サーバー室の音が聞こえなくなるのが、なんだか落ち着かなくて」

 応接室が静かになった。

 陽翔が段ボールを持ったまま、小声で言う。

「サーバー室の音……」

 蓮斗が顔を上げた。

「分かります。機械の音は、動いている証拠に感じることがあります」

 望月は少し驚いたように蓮斗を見た。

「そうなんです。あのファンの音がしていると、“今日も会社が動いているな”と思えたんです」

 奏汰が静かに言った。

「クラウドは音がしません。でも、動いていないわけではありません」

 大河内常務は苦笑した。

「そこなんです。若い人たちは“クラウドのほうが便利です”と言う。私たちも頭では分かる。でも、会社の大事なものが見えない場所へ行くと思うと、不安で」

 香澄は、湯呑みをそっと置いた。

「今日は、その不安を一つずつ見える形にしましょう。クラウド移行は、単なる技術更新ではありません。会社が積み重ねてきた仕事の記憶を、未来へ渡す作業でもあります」

 陽翔がすかさずメモを取った。

「本日の名言、朝から大きいです」

「今日は静かに書いてください」

 悠真が言った。

 まず、蓮斗が技術構成を確認した。

 古い構成図が机に広げられた。 紙は少し黄ばんでおり、ところどころ手書きの修正がある。 「旧販売管理サーバー」と書かれた箱には二重線が引かれ、その横に「実はまだ使っている」と赤字で書かれていた。

 陽翔がそれを見て、目を丸くした。

「“実はまだ使っている”……構成図の余白から強い気配を感じます」

 杉山が申し訳なさそうに言った。

「すみません。廃止したつもりだったんですが、現場の一部で帳票出力に使っていまして」

 望月が手を挙げた。

「それ、私が使っています」

「望月さんでしたか」

 杉山が頭を抱える。

 蓮斗は落ち着いて言った。

「大丈夫です。こういうものを見つけるために棚卸しをします。移行前に“実はまだ使っている”を洗い出せたのは良いことです」

 奏汰が続けた。

「クラウド移行で一番怖いのは、存在を忘れられたシステムです。誰も知らないけど、誰かが毎日使っている」

 陽翔が小声で言う。

「会社の座敷わらしみたいですね」

「座敷わらしにしないでください」

 杉山が笑った。

 蓮斗はホワイトボードに、現在のシステムを整理していった。

 受発注システム。 在庫管理。 図面管理。 共有フォルダ。 勤怠。 会計連携。 帳票出力。 バックアップ。 VPN。 認証基盤。

「まず、何をAzureへ移すのか。何を残すのか。何を廃止するのか。移行順序を決めます」

 大河内常務が言った。

「全部一度に移すのは危ないですか」

「危ないというより、現場が追いつきにくくなります」

 蓮斗は答えた。

「重要度、依存関係、業務影響を見て、段階的に移行するのが現実的です」

 望月が不安そうに尋ねた。

「移したあと、昔のデータは見られるんですか」

「見られるように設計します。ただし、どのデータをどの期間残すのか、誰が見られるのかを決める必要があります」

 ふみかがピンクのクリップボードに書き込む。

「過去データの保管期間、閲覧権限、検索方法、廃棄ルールですね」

 望月は少しほっとした。

「昔の図面が急に必要になることがあるんです。二十年前の部品の問い合わせとか」

「それは会社の記憶ですね」

 みおが静かに言った。

「古い図面も、ただの古いデータじゃなくて、誰かが作って、誰かが直して、誰かが納品した記録なんですね」

 応接室が、少しだけ温かく静まった。

 次に、しょうこが規程を整理した。

 しょうこは、古い社内規程の束を前にしても動じなかった。

 情報管理規程。 バックアップ規程。 アクセス権限管理規程。 委託先管理規程。 インシデント対応手順。 BCP。 クラウド利用ルール。

 それらを五つの箱に分類した。

 利用ルール。 権限ルール。 保存ルール。 委託先ルール。 事故対応ルール。

「クラウド移行に合わせて、規程も移行しましょう」

 しょうこが言った。

 陽翔が首をかしげる。

「規程もクラウドに移行するんですか?」

「紙をPDFにするという意味だけではありません」

 しょうこは淡々と続けた。

「オンプレ時代の前提で書かれた規程を、クラウド利用に合うように見直すということです」

 大河内常務が古い規程を手に取った。

「これは、平成二十六年に作ったものです。“サーバー室への入退室記録をつける”とあります」

 杉山が苦笑した。

「Azureにはサーバー室がありませんね」

「でも、入退室に相当するものはあります」

 しょうこはホワイトボードに書いた。

 サーバー室の鍵 → Azure管理ポータルへの権限

 入退室記録 → サインインログ、操作ログ

 機器の持ち出し禁止 → データ持ち出し、外部共有制御

 バックアップ媒体保管 → バックアップ保存先、復元テスト

「昔の規程を捨てるのではなく、意味を引き継ぎます」

 望月が目を細めた。

「意味を引き継ぐ……」

「はい」

 しょうこは頷いた。

「サーバー室に鍵をかけていたのは、大事なシステムを守るためです。クラウドでも、その考え方は同じです。ただ、鍵の形が変わります」

 陽翔が感動したように言った。

「鍵の形が変わる。今日も湯呑み候補が」

「湯呑みにはしません」

 悠真が即座に言った。

 かなえは契約を担当した。

 クラウド移行ベンダーとの契約。 Azure利用に関する契約。 保守契約。 移行作業の委託契約。 秘密保持契約。 障害時の対応。 再委託。 責任分界。 データ移行時の取り扱い。

 かなえは眼鏡を一ミリ下げた。

「移行作業の契約では、作業範囲を明確にする必要があります。どのシステムを移すのか、移行前の調査を含むのか、テストを誰が行うのか、本番切替時の立会いはあるのか、失敗時の戻し手順はどうするのか」

 大河内常務が言った。

「ベンダーさんからは“移行一式”と見積書にあります」

 応接室の全員が、少しだけ反応した。

 陽翔が言う。

「一式、雲に乗ってまた来ましたね」

 かなえは赤い付箋を貼った。

「“一式”をほどきましょう。移行前調査、設計、構築、データ移行、テスト、教育、切替、移行後支援。項目ごとに責任範囲を確認します」

 悠真が続けた。

「また、移行中にデータを扱うため、秘密保持や個人情報、アクセス権限、作業ログ、再委託の有無も確認します。障害やデータ破損が起きた場合の通知義務、復旧対応、損害賠償の範囲も契約上整理しておきましょう」

 杉山が少し青ざめた。

「移行って、ただコピーするだけじゃないんですね」

 奏汰が言った。

「会社の記憶を運ぶ作業です。段ボールに詰める前に、中身を確認しないといけません」

 陽翔が段ボール箱を指さした。

「まさに引っ越し屋です」

 香澄が笑った。

「今日は本当にそうですね」

 りなは、教育資料を担当した。

 ベテラン社員たちが不安を抱えていることを踏まえ、単なる操作マニュアルではなく、「なぜ変わるのか」から説明する資料を作ることになった。

 りなはホワイトボードにタイトルを書いた。

 クラウド移行説明会 会社の記憶を未来へ渡すために

 陽翔が小さく拍手した。

「タイトルが強い」

 りなは笑いながら続けた。

「最初に、オンプレ時代に皆さんが守ってきたことを確認します。サーバー室の鍵、バックアップテープ、紙の台帳、部門ごとの共有フォルダ。次に、それがクラウドでどう変わるかを説明します」

 望月が不安そうに言った。

「若い人向けの資料だと、専門用語が多くてついていけないんです」

「今回は、ベテラン社員向けの資料も作りましょう」

 りなは言った。

「たとえば、“サーバー室が見えなくなる”という不安に対して、どこで稼働状況を確認できるか。“ファイルが消えないか”という不安に対して、バックアップと復元テストを説明する。“誰でも見られるのでは”という不安に対して、アクセス権限を説明する」

 望月は、少し驚いた顔をした。

「そんなふうに、私たちの不安を資料に入れてくれるんですか」

「もちろんです」

 りなは微笑んだ。

「教育資料は、教える側が言いたいことだけではなく、聞く側が不安に思っていることを入れたほうが伝わります」

 みおが言った。

「説明って、階段みたいですね。相手の立っている場所から一段ずつ作らないと、上がれない」

 応接室が静かになった。

 大河内常務が深くうなずいた。

「それは、本当にそうです」

 昼過ぎには、山崎事務所は本当に引っ越し屋のようになっていた。

 蓮斗は技術構成の段ボール。 しょうこは規程の段ボール。 かなえは契約の段ボール。 りなは教育資料の段ボール。 ふみかは情報資産台帳の段ボール。 奏汰は権限設計とログの段ボール。 陽翔は、なぜか本物の段ボールに「思い出フォルダ」と書こうとして、悠真に止められていた。

「陽翔くん、それは実物の資料です。思い出ではなく証跡です」

「証跡フォルダ?」

「それも違います」

 さくらは、移行対象の一覧表を作っていた。

 システム名。 現行サーバー。 利用部門。 重要度。 移行方法。 移行予定日。 テスト担当。 旧環境停止予定。 備考。

 その備考欄に、望月が「昔から使っている」と書きかけた。

 悠真が言った。

「もう少し具体的にしましょう」

 望月が笑った。

「便利な言葉でした」

「便利すぎる言葉です」

 午後三時、移行リハーサルの話になった。

 杉山が言った。

「本番移行の前に、テスト移行を一回やる予定です」

 蓮斗が頷いた。

「良いです。テスト移行では、データ移行の時間、エラー、権限、業務テスト、戻し手順を確認します」

 奏汰が続けた。

「戻し手順は必ず必要です。移行できることだけでなく、戻せることを確認します」

 陽翔が言った。

「引っ越しで言えば、新居に荷物を運んだけど、水道が出ないと分かったとき、旧居に戻れるか問題ですね」

「たとえとしては近いです」

 蓮斗が言った。

「ただし、旧居の鍵を返す前に確認する必要があります」

 大河内常務が笑った。

「分かりやすいです。サーバーも、すぐ撤去しないほうがいいんですね」

「一定期間は並行運用やバックアップを確認することがあります」

 蓮斗は答えた。

「ただし、いつまでも旧環境を残すと、管理が二重になりリスクも増えます。終了日も決めましょう」

 望月が少し寂しそうに言った。

「サーバー室、最後の日がありますね」

 応接室が静かになった。

 香澄は、その寂しさを否定しなかった。

「ありますね」

 望月は、ゆっくり言った。

「私、あのサーバー室に何度も助けられました。夜中に帳票が出なくて、若い頃は一人で泣きそうになりながら再起動したこともあります。古い機械ですけど、会社の仲間みたいでした」

 杉山が、少し驚いた顔で望月を見た。

「そんなことがあったんですか」

「何度もありますよ。昔は、ログを見るより音を聞いていたんです。いつもと違う音がすると、何か起きている」

 蓮斗が静かに言った。

「それも監視です」

 望月は笑った。

「そうですか。耳監視ですね」

 奏汰が小さく頷いた。

「今はメトリックとログで見ます。でも、気づこうとする姿勢は同じです」

 みおが言った。

「会社の記憶って、データだけじゃなくて、そういう人の感覚にも残っているんですね」

 香澄は頷いた。

「だから、クラウド移行は、古いものを捨てることではなく、大切なものを次の形へ渡すことなんだと思います」

 望月は、少しだけ目を潤ませた。

「それなら、移行してもいい気がします」

 その言葉を聞いて、杉山の顔にもほっとした表情が浮かんだ。

 夕方近く、移行計画の初回整理がまとまった。

 現行システムとデータの棚卸しを行う。 「実はまだ使っている」システムを洗い出す。 移行対象、残すもの、廃止するものを分ける。 Azure構成は、ネットワーク、認証、バックアップ、監査ログ、アクセス権限を設計する。 規程は、オンプレ時代の意味を引き継ぎ、クラウド向けに見直す。 契約は、移行一式を分解し、作業範囲、テスト、戻し手順、責任分界、通知義務を明確にする。 教育資料は、ベテラン社員の不安に答える形で作る。 テスト移行を行い、復元、権限、業務確認を記録する。 旧環境の停止時期を決め、必要な期間だけ並行運用する。 移行後も、ログ確認、権限棚卸し、復旧訓練を続ける。

 しょうこが、最後に三行でまとめた。

「一、クラウド移行は、サーバーを移すだけでなく、会社の仕事の流れを移すこと。 二、規程・契約・教育をそろえると、技術変更は現場の安心につながる。 三、会社の記憶は、捨てるのではなく、未来で使える形に整えて渡す。」

 大河内常務は、その三行をじっと見つめた。

「これ、社内説明会の冒頭で読みたいです」

 望月も頷いた。

「若い人にも、ベテランにも伝わると思います」

 杉山は、少し照れたように言った。

「僕、移行を急がなきゃと思っていました。でも、会社の記憶を運ぶなら、ちゃんと聞きながら進めます」

 望月が笑った。

「若い人が聞いてくれるなら、私も昔話をしすぎないようにします」

「それは少しだけでお願いします」

 杉山が言う。

「少しだけ?」

 望月が眉を上げる。

「必要な範囲で」

 悠真が静かに言った。

「非常に適切です」

 全員が笑った。

 相談が終わるころ、香澄が窓の外を見た。

 青葉通りの空は、夕方の光で少し金色に染まっていた。 遠くの空は澄んでいて、ビルの隙間から、かすかに富士山の輪郭が見えた。

「今日は、富士山が見えますね」

 香澄が言うと、大河内常務たちも窓のほうを見た。

 望月が静かに言った。

「晴れてますね」

 蓮斗が言った。

「クラウドの日に、富士山が見えるのはいいですね」

 陽翔がすかさず言う。

「Azureの雲に、富士山は隠れない」

 奏汰が少しだけ笑った。

「前にも聞いた言葉です」

 悠真も、ほんの少し口元をゆるめた。

「今日は、よく合っています」

 大河内常務は、富士山の輪郭を見つめながら言った。

「見えない場所へ移すと思って不安でした。でも、輪郭を描けばいいんですね。どこに何があり、誰が守り、どう戻すのか」

 香澄はうなずいた。

「はい。見えないからこそ、輪郭を描くんです」

 駿河機工の三人が帰ったあと、事務所には段ボールと資料の山が残った。

 しかし、来たときとは違っていた。

 散らかっているのではない。 整理途中なのだ。

 蓮斗は構成図を保存した。

「Azure移行_技術構成整理_初版.xlsx」

 しょうこは規程の見直し表を保存した。

「クラウド移行_規程見直し一覧_初版.docx」

 かなえは契約確認メモを保存した。

「Azure移行委託契約_責任分界整理案.docx」

 りなは教育資料の表紙を整えた。

「クラウド移行説明会_会社の記憶を未来へ渡すために.pptx」

 陽翔が横からのぞいた。

「正式なのに、いいタイトルですね」

「これは正式資料です」

 りなは笑った。

 悠真が珍しく頷いた。

「今回のタイトルは、正式資料にも向いています」

 陽翔が目を丸くした。

「悠真さんがタイトルを全面承認……」

「全面というほどではありません」

「でも、向いていると」

「向いています」

 陽翔は感動で少し静かになった。

 その静けさは三十秒しか続かなかった。

「では、思い出フォルダ用に――」

「作る前から止めます」

 悠真が即座に言った。

 しかし、三分後。

 共有フォルダに新しいファイルができていた。

「クラウド移行の日_富士山は晴れていた_会社の記憶を未来へ渡す版.xlsx」

 悠真は画面を見た。

 削除キーに指を置いた。

 その瞬間、香澄が言った。

「今日は、そのタイトルで残しましょう」

 蓮斗も言った。

「移行の意味が入っています」

 しょうこが頷いた。

「三行まとめとも整合しています」

 かなえも微笑んだ。

「思い出フォルダとしては、悪くありません」

 悠真は静かにため息をついた。

「思い出フォルダなら」

 翌朝、駿河機工の杉山からメールが届いた。

「昨日はありがとうございました。社内で移行説明会を開くことになりました。望月さんが“サーバー室の音の話”をしてくれるそうです。ベテラン社員にも、クラウド移行が会社の記憶を未来へ渡すことだと伝えたいと思います。今朝、工場から富士山がよく見えました」

 陽翔が読み上げると、事務所にやわらかな笑いが広がった。

 望月のサーバー室の音。 杉山のクラウド構成図。 しょうこの規程。 かなえの契約。 りなの教育資料。 そして、晴れた日の富士山。

 香澄はお茶を淹れながら、青葉通りの朝を見た。

 クラウド移行は、古いものを否定することではない。 サーバー室の音も、紙の台帳も、手書きの構成図も、ベテラン社員の感覚も、全部が会社を支えてきた。

 それを、次の時代でも使える形に整える。

 見えない雲の中に、確かな輪郭を描く。 会社の記憶を、未来へ渡す。

 青葉通りの契約書は、今日も笑う。 クラウド移行の日、晴れた富士山の下で、古いサーバー室の音が静かに未来へ引き継がれていくのを見守りながら。


 
 
 

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