第3話 「登呂の火影(ほかげ)」
- 山崎行政書士事務所
- 8月24日
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序章 田の鏡に映る影
午前十時、登呂遺跡の復元集落は、茅葺きの屋根に白い光をまとっていた。風は弱く、用水路の水面が細い銀の帯のように流れている。
幹夫は、土の匂いを深く吸い込んだ。「静かだね」朱音がつぶやく。遠くで小さな歓声が上がる。火起こし体験のエリアだ。舞ぎり式の弓と紐を使い、板に押し当てた棒を回転させる――数分の“しんどい”ののち、ほの赤い**火種(ほづみ)**が生れる。
「写真、見て」理香がタブレットを差し出した。SNSで拡散されている一枚。復元家屋の前で火起こしを楽しむ子ども、その足元に**“太陽とは逆方向”に伸びる濃い影**。「Exifは昨日の13:07。だけど影は西側に長い。昨日、この時間帯の太陽は南やや東にあるはず」
「おかしいのは影だけ?」蒼が訊く。
「もうひとつ。博物館から連絡があった。展示の磨製石斧がレプリカとすり替わっていた。昨夕の閉館前に在庫点検して分かったらしい」圭太がポケットのメモをひらひら振る。「学芸員の川上さんが“ちょっと来てほしい”って」
幹夫は復元家屋の屋根の棟木を見上げた。光と影の境目は、正直だ。正直すぎて、ときどき、人の思惑を代弁してしまう。
第一章 博物館のガラス越しに
静岡市立登呂博物館のロビーは、ひんやりと静かだった。受付の奥で、学芸員の川上知子が待っていた。鋭い目元に、疲れが乗っている。
「来てくれてありがとう。石斧(せきふ)の件、内々に調べたい。大騒ぎは避けたいの」川上は鍵を出し、展示室の横にある収蔵庫の扉を開けた。内部には、布に包まれた遺物が番号札とともに整然と並ぶ。川上は一つの箱を取り出し、布をめくった。「これがレプリカ。本物は……ない。昨夕の点検で分かった」
「すり替えに気づいたきっかけは?」理香が訊く。
「縁の磨耗。本物は微細な擦れがあるけれど、これは均一に滑らか。重さもわずかに違う」川上は額を押さえる。「展示の**“本物性”を守らないと、ここが体験テーマパーク**になってしまう。もちろん体験は大事。でも線引きが……」
「火起こし体験の指導員さんたちとは?」蒼の問いに、川上は苦笑した。「榎田寿郎さん。長年のボランティアで、子どもの目線に立てる人。ただ、私は貸し出し手順に厳しい。最近、私の言い方がきつかったかもしれない」
蒼は穏やかにうなずく。「まず、写真の影を検証しましょう。あの“出来すぎた影”が、すり替えの時間を示すかもしれません」
第二章 影はどこから来たか
復元集落に戻ると、体験のテントは一段落していた。榎田が麻火口(あさほくち)の残りを手でほぐしている。赤茶の木粉に、わずかな熱が残っていた。
「榎田さん、昨日のこの写真の時間帯、何をしていました?」蒼がタブレットを見せる。
「午後一? ……反射板を使ったな。子どもの顔に光を当てるために、銀マットを立てた」榎田は悪びれない。「眩しくはしないように斜めに。影が変になるかね」
「変になりました」理香が携帯の太陽位置アプリを開き、昨日の時刻・地点を入力する。「太陽高度約54°、方位SSE。影は短く南側に落ちる。でも写真の影は西へ長い。第二の光源がないと説明がつかない」
榎田は肩をすくめる。「銀マットは光を返す。影が薄くなるくらいは分かるけど、逆方向ってのは……」
幹夫は用水路の水面を覗き込んだ。昨日と同じ南寄りの微風なら、煙は北側へ流れるはず。「煙の向きも、写真と一致しない」幹夫が言う。「写真では北東に流れている。昨日の13時台の風向は南南西。用水路の幅と屋根の向きで局所的に風が偏流することはあるけど、影と煙が同時に矛盾するのは光と風が**別々に“いじられた”**とき」
川上が腕を組む。「屋根の向きは昔と少し違うわ。安全動線を優先して、数年前の改修で十数度回転させた。古地図の配置と正確には一致しない」
朱音が目を細めた。「つまり“昔の登呂”を真似るなら、屋根の向きは気にならないはず。でも写真の“昔らしさ”は影に頼って演出されている」
「反射板、見せてもらえます?」理香が訊くと、榎田はテントの端から銀マットを取り出した。折り目に黒い煤が点々と付いている。
「煤の付着が強いのは、この折り目。火口を近づけた?」幹夫が尋ねる。
「子どもの顔に煙が行かないように、影側で火種を育てたんだ」榎田の返答は自然だ。だが、幹夫は銀マットの角の擦り傷に目を留めた。砂の上で支点として押し付けた痕だ。
理香は簡易風見を立て、鏡と銀マットでミニチュア実験を始める。「第二の光をこの角度で返すと、影は西へ。煙は用水路の偏流で北東へ。――写真の条件を再現できる」彼女は顔を上げた。「意図してやればの話」
榎田は口をつぐんだ。
第三章 灰の粒度
「石斧はどこにあります?」朱音が切り込む。場の空気が小さく揺れた。
榎田は笑ってごまかそうとしたが、川上の視線が針のように刺さる。「……見せたかったんだよ。本物を。子どもの手の震えを、もう一度見たかった」
川上が低く言う。「貸し出し手順は、あなたも知っているはずよ」
「一度だけのつもりだった。触らせて、戻す。だが昨日、川上さんにきつく言われて、意地になった。“子どものため”って言葉に逃げた。灰を移してるとき、箱をすり替えた。――戻す機会はいくらでもあったのに」
「灰?」幹夫が反応する。
「体験用と安全管理用で灰を入れ替える。湿り気のある灰は煙を落ち着かせるから。でも昨日は乾いた灰を使った。写真を綺麗にするために煙を立たせたかったんだ」
「灰、見せてください」理香がバットを受け取り、ルーペを当てる。「粒度が二種類ある。細かい煤(たぶん麻火口)と、粗い木粉(スギ板)。この混じり方は、体験エリアじゃ出にくい。板を削る摩擦前の予備の粉と、使い終わりの灰が混ぜてある」
幹夫は火起こし具の柄に目を止めた。小さな焼き印――「火」の文字が、黒く沈んでいる。「柄の焼き印の欠け。最近新しい焦げが付いた。銀マットの折り目の煤と色が似てる」
「どこにあるんですか、本物の石斧」蒼がまっすぐに問う。榎田の肩が落ちた。「復元家屋の裏、竪穴の縁。安全コーンの内側。土間の縁石の下の箱に」
第四章 土間の下の箱
竪穴住居の内側は、薄暗い土の匂い。屋根の内側に柱の影が落ち、外の白い光と柔らかく混じっている。安全コーンの内側、縁石を持ち上げると、そこに薄い木箱が隠れていた。番号札と封緘シール。川上は息を止め、封緘の微細なナイフ痕を見つけると、静かに開けた。
磨製石斧が、そこにあった。縁の擦れは、長い時間が刻んだ皺のように美しい。
川上は両手で包み込むように持ち上げ、長く長く、息を吐いた。「……戻ってきてくれて、ありがとう」
榎田は膝に手をつき、低く頭を下げた。「悪かった。“一度だけ”のはずが、戻す勇気より隠す言い訳のほうが先に立った。写真の影を綺麗にして、子どもの目に火を点けたつもりだった。だけど線引きを越えたのは俺だ」
川上は黙って斧を箱に戻し、封緘をし直した。「触れることが価値を生むのは分かっている。けれど、仕組みごと整えないと、大人の責任にならない」
蒼が提案する。「“触れるレプリカ”を公式に整えましょう。高精度レプリカに表示を付けて、触れるもの/触れないものを色と記号で誰にでも分かるように。銀マットや反射板の使い方もガイドライン化して、影を作るときは**“演出”の札**を掲げる」
理香が頷く。「第二の光は教育にも安全にも有効だけど、記録に使うなら明示が必要。煙を綺麗に見せたいなら、灰の管理も二系統に分けてログを残す」
朱音がそっと口を開く。「昔といまは違う。でも学ぶ欲は同じ。本物に触れたい気持ちを守る仕組みを作れたら、“昔”も“いま”も大事にできる」
榎田は目を閉じ、深く頷いた。「やらせてください。“子どものため”を、今度は正しい場所で」
第五章 火の作法
翌週末、登呂の“触れるレプリカ・デー”が開かれた。入口には色分けされたピクトが掲げられる。
緑:触ってよいレプリカ(磨製石斧、高精度レプリカの土器、石皿)
黄:近くで見てよいが触れない(火起こし具の“演示用セット”)
赤:見て学ぶ本物(収蔵庫モニター越し、拡大撮影・3Dビュー)
「今日は影の実験もやります」蒼が笑って、“演出中”の札を掲げる。銀マットは太陽と反射の説明板とセット。「第二の光を入れると、影は動きます。記録写真には演出と記載します」
理香は小型の温度・風速ロガーを立て、灰は体験用と演示用を色違いのバットに分けて置く。ログシートには時間と担当者名。朱音は古地図と現行配置図を並べ、屋根の**“十数度の回転”を図で示す。「安全のために変わったこと/昔から残っていること――両方を知る**と、見えるものが増える」
榎田は、舞ぎりの紐を張り直し、子どもたちに弓の持ち方を教える。「足は板を踏んで、上体はリラックス。火は力じゃない、手順だ」
最初の火種が、麻火口に移った。子どもの目が丸くなる。息を止める。榎田はそっと囁く。「いい、いま、そっとあおぐ」
灰の中に、小さな橙色が生れる。拍手が起こる。幹夫は、その瞬間の静かな表情を胸に刻んだ。**“触れる”**とは、こういう顔を生むことだ。“守る”とは、その顔を正しい手順で何度も見られるようにすることだ。
川上は会場の隅で、アンケートを束ねていた。最初に幹夫たちへ向き直り、深く頭を下げる。「ありがとう。線引きを、孤独にやらなくてよくなった気がする」
幹夫は首を振った。「線は人で引いて、街で守るものだと思います」
川上は笑った。その笑顔は、ガラスの冷たさを少しだけ溶かした。
終章 観察のノート
風:南寄り微風。用水路で偏流。光:太陽高度・方位と影の方向。第二光源(銀マット)で逆方向の影。灰:粒度差(麻の煤/板の木粉)。混ぜ方で偽装が分かる。屋根:古地図 vs 現配置。十数度の回転は安全動線のため。物:柄の焼き印「火」の新旧の焦げ。銀マット折り目の煤。道:“触れる/見て学ぶ”の色分けと札。演出明示。倫理: 本物に触れたい願いは尊い。だからこそ、仕組みで叶える。 演出は嘘ではない。ただし記録に使うなら正直に。 “一度だけ”は、戻す勇気を奪う。手順が人を助ける。
幹夫はノートを閉じ、茅の匂いを吸い込んだ。外では、東静岡駅へ抜けるバスの時間を気にしながら、家族連れが南幹線の方角へ歩いていく。陽は傾き始め、田の鏡に屋根の影が短く落ちる。火はもう片づけられたが、子どもたちの目の中にはまだ小さな橙が残っている――その色は、きっと長く消えない。
幹夫は“火”の字を、手帳の余白にゆっくり書いた。松、氷、火、仮、平――五つの字が、互いに糸を渡しはじめているのを感じながら。





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