第3話 Azureの雲に、富士山は隠れない
- 山崎行政書士事務所
- 5月12日
- 読了時間: 14分
青葉通りの契約書は今日も笑う

静岡市葵区、青葉通りから少し入った山崎行政書士事務所では、その日、朝から妙な緊張感が漂っていた。
理由は、来客予定表の一行にあった。
「株式会社富士見精機 代表取締役 大石健三様 クラウド移行に関する相談」
製造業。
クラウド移行。
契約書。
責任分界。
その言葉を見ただけで、悠真は資料を三冊そろえ、さくらは付箋を七色に並べ、陽翔はなぜか窓の外を見ていた。
「陽翔くん、何してるの?」
所長の山崎香澄が尋ねる。
「雲を見ています」
「なぜ?」
「今日のテーマがクラウドなので」
「仕事を見てください」
「はい」
陽翔がすっと席に戻る。
その横で、蓮斗はノートパソコンを開いたまま、黙っていた。
蓮斗は、山崎行政書士事務所の中でも特にシステム関係の相談に強いスタッフだった。口数は少ないが、構成図を見た瞬間に危険な匂いを嗅ぎ分ける。事務所内では密かに「青葉通りの監視カメラ」と呼ばれていたが、本人は知らない。
いや、たぶん知っている。
でも、何も言わない。
そして、事務所の一番奥の席には、奏汰がいた。
ヘッドホンをつけ、画面に向かって何かを打ち込んでいる。外部のITアドバイザーとして山崎事務所に協力している青年で、服装はいつも黒いパーカー。表情は眠そうだが、クラウドや認証まわりの話になると急に目が覚める。
「奏汰くん、今日のお客様、Azure移行の相談だからね」
香澄が声をかける。
奏汰はヘッドホンを少しずらした。
「聞いてます」
「本当に?」
「Azureって言葉は、ヘッドホンを貫通します」
「それ、便利な機能ね」
陽翔が感心したように言った。
「僕の名前も貫通します?」
「しません」
「しないんだ」
「優先度が低いので」
「クラウドにも人間関係にも優先度設定があるんですね」
悠真が淡々と書類を整えながら言った。
「陽翔くんは、まず自分のタスクの優先度を上げて」
「はい」
入口の鈴が、からん、と鳴った。
入ってきたのは、がっしりした体格の男性だった。年齢は六十手前。作業着の上にジャケットを羽織り、手には分厚い封筒を持っている。後ろには、少し疲れた顔の若い男性が続いていた。
「お世話になります。富士見精機の大石です」
「山崎です。本日はよろしくお願いいたします」
香澄が丁寧に迎える。
「こちら、うちの情報システム担当の望月です」
若い男性が小さく頭を下げた。
「望月です。情報システム担当と言っても、実際は総務と購買と社内のプリンタ詰まり対応も兼務しています」
陽翔が真剣な顔になった。
「プリンタ詰まり対応まで。情報システム担当の業務範囲、雲より広いですね」
「本当に広いんです」
望月は力なく笑った。
大石社長は椅子に腰かけるなり、封筒から資料を取り出した。
「いやあ、最近は取引先からセキュリティがどうのこうのと言われましてな。うちも時代に合わせて、サーバーをAzureに移そうと思ってるんです」
「なるほど」
香澄がうなずく。
「で、Azureに移行したら全部安全なんでしょ?」
事務所の空気が、ぴたりと止まった。
陽翔が持っていたペンを落とした。
さくらの付箋が一枚、静かに机から滑り落ちた。
悠真は目だけを上げた。
蓮斗は、社長が差し出した構成図を受け取った。
そして、沈黙した。
長い沈黙だった。
青葉通りの外で、誰かの自転車のベルが鳴った。
それでも蓮斗は黙っていた。
大石社長が不安そうに尋ねる。
「あの……そんなにまずいですか?」
蓮斗は構成図を見つめたまま言った。
「まずいというより……まだ、雲の形が決まっていません」
「雲の形?」
そのとき、事務所の奥で椅子がきしんだ。
奏汰がヘッドホンを外した。
「雲にも設計図がいる」
短い一言だった。
陽翔が小さく拍手した。
「本日の名言、早くも出ました」
「まだ始まったばかりです」
悠真がたしなめる。
大石社長は腕を組んだ。
「雲に設計図か……。うちは鉄を削る会社だから、図面が大事なのは分かる。でも、クラウドって向こうが全部やってくれるんじゃないのかね」
奏汰はゆっくり首を振った。
「クラウド事業者が守る部分と、利用する会社が守る部分があります。そこを分けて考えないと、安心しているつもりで、穴が空いたままになります」
「穴?」
「工場で言えば、立派な建物を借りたけど、鍵を誰に渡したか分からない、搬入口が開けっぱなし、作業日報が残っていない、という感じです」
大石社長の眉が動いた。
「それは困る」
「クラウドでも同じです」
蓮斗が構成図を机に広げた。
図には、オンプレミスのサーバー、Azure上の仮想マシン、ストレージ、社内パソコン、VPNらしき線、そしてなぜか手書きで「たぶん安全」と書かれた丸があった。
陽翔がのぞき込む。
「“たぶん安全”という丸、味がありますね」
望月が耳まで赤くなった。
「すみません、それ私です。社長に説明するとき、時間がなくて」
「気持ちは分かります」
さくらがやさしく言った。
「私も前に、“たぶん最新版”というファイルを見たことがあります」
「それは見てはいけない森です」
悠真が静かに言った。
香澄は資料を見ながら、落ち着いた声で話し始めた。
「今日は、技術の細かい設定だけではなく、契約書や社内ルールも含めて確認しましょう。クラウドを使うということは、見えない場所に大切な情報を預けることでもあります。だからこそ、誰が何を担当し、何が起きたときにどう動くのかを決めておく必要があります」
大石社長はうなずいた。
「うちは部品を作る会社です。見えるものなら、寸法も傷も分かる。でも、クラウドは見えない。そこがどうにも不安でね」
奏汰が窓の外を見た。
晴れた日なら、静岡の街からも富士山の輪郭が見えることがある。今日は少し雲が多く、富士山は見えなかった。
「見えないから、輪郭を描くんです」
奏汰が言った。
「富士山が雲に隠れても、そこにあると分かるのは、形を知っているからです」
陽翔がまた拍手しようとして、悠真に目で止められた。
最初に確認したのは、契約書の責任分界だった。
悠真が契約書の写しを開く。
「クラウド移行を依頼するベンダーとの契約ですね。ここに“セキュリティ対策を適切に実施する”とあります」
「適切に、というのは便利な言葉ですね」
さくらが言った。
「便利すぎる言葉でもあります」
悠真はペン先で条文を指した。
「何をどこまで実施するのか。設定作業までなのか、運用監視まで含むのか。障害時の連絡体制はどうするのか。バックアップの取得は誰が確認するのか。ここが曖昧です」
大石社長が望月を見る。
「望月くん、バックアップは取っているんだろう?」
望月は目を泳がせた。
「取る予定です」
「予定?」
「移行したら自動でいい感じになるのかな、と」
奏汰が静かに言った。
「“自動でいい感じ”は、クラウド界の妖怪です」
陽翔が反応した。
「妖怪、自動デイイカンジ」
「夜中に設定画面に現れて、チェックボックスを曖昧にします」
「怖いですね」
「実際、怖いです」
香澄が微笑みながら話を戻した。
「バックアップは、取ることだけでなく、戻せることも大切です」
蓮斗が続ける。
「バックアップの頻度、保存期間、保存先、復元テストの有無。障害やランサムウェア被害を想定するなら、本番環境と同じ権限で簡単に消せない設計も必要です」
大石社長の顔が真剣になった。
「戻せないバックアップは、バックアップじゃないということか」
「はい」
奏汰がうなずいた。
「見た目だけの避難訓練と同じです。笛はあるけど、出口がふさがっている」
「それはまずい」
「まずいです」
陽翔が小声で言う。
「今日の奏汰くん、たとえが辛口ですね」
「クラウドの話は甘口にすると事故ります」
奏汰は真顔だった。
次に、監査ログの話になった。
「ログというのは、誰が、いつ、何をしたかの記録です」
蓮斗がホワイトボードに書く。
「ログがなければ、問題が起きたときに原因を追いかけられません」
望月が小さくうなずいた。
「現場でも、不良が出たら作業記録を見ます」
「同じです」
蓮斗が言った。
「ただし、クラウドではログを取る設定、保存する期間、見られる人、アラートを出す条件を決める必要があります」
大石社長が腕を組んだ。
「ログは全部取っておけばいいんじゃないのか」
陽翔が首をかしげる。
「全部取ると、鍋いっぱいのログになりますよ」
「また鍋ですか」
さくらが笑った。
「前回の名残ですね」
悠真が言った。
「たくさん取っても、誰も見なければ意味がありません。必要なログを残し、異常に気づけるようにすることが重要です」
「なるほど。記録するだけじゃなく、見る仕組みも必要か」
大石社長は深くうなずいた。
「うちの工場でも、検査表をつけるだけで誰も確認しなかったら意味がないからな」
香澄が言った。
「まさに同じです。セキュリティも、現場の品質管理と似ているところがあります」
その言葉に、大石社長の表情が少しやわらいだ。
「そう言われると、分かりやすい」
続いて、Entra IDの権限設計に入った。
奏汰が画面を見ながら、望月に尋ねる。
「管理者権限を持つ人は誰ですか?」
「私です」
「他には?」
「社長です」
「他には?」
「退職した前任者のアカウントが、まだ……」
室内の温度が二度下がった気がした。
陽翔がそっと窓を見る。
「今、青葉通りに冷たい風が」
悠真が静かに言った。
「退職者の管理者アカウントは、早急に確認したほうがいいですね」
望月は両手で顔を覆った。
「分かっていました。分かっていたんです。でも、ほかの業務が多すぎて後回しに……」
大石社長はすぐに望月を責めなかった。
代わりに、少し苦い顔で言った。
「すまん。そこまで一人に任せていたんだな」
望月が驚いて顔を上げる。
「いえ、私も報告が足りなくて」
「いや、プリンタからクラウドまで全部君に投げていた。そりゃあ、雲も重くなる」
陽翔が小さくつぶやく。
「社長、いいこと言うなあ」
香澄は静かにうなずいた。
「権限設計は、人を疑うためではありません。会社と社員を守るためのものです。必要な人に必要な権限を渡し、強すぎる権限は分ける。退職や異動があったら見直す。そういう流れを作ることが大切です」
奏汰が続ける。
「特に管理者権限は、工場のマスターキーみたいなものです。全員に渡すと便利ですが、落としたときの影響が大きい」
「マスターキーか」
大石社長は手元の鍵束を見た。
「確かに、工場の鍵なら毎日確認している。クラウドの鍵も、同じように考えないといかんな」
さくらがチェックリストに書き込む。
「管理者権限の棚卸し。退職者アカウントの停止確認。多要素認証の適用。権限申請と承認の記録」
陽翔がのぞき込む。
「今日のチェックリストは、おでん混ざってない?」
「混ざってません!」
「よかった。Entra IDに黒はんぺんを登録するところでした」
「しません!」
張り詰めていた望月の顔が、少しだけ笑った。
昼を過ぎても、打ち合わせは続いた。
バックアップの責任は誰が持つのか。 復元テストはどの頻度で行うのか。 監査ログはどこに保存し、誰が確認するのか。 障害や不正アクセスの疑いがあったとき、最初に誰へ連絡するのか。 ベンダー契約には、作業範囲、報告義務、再委託、秘密保持、損害発生時の対応をどう書くのか。 Entra IDの権限は、部署や役割ごとにどう分けるのか。
三枚だった構成図は、気づけばホワイトボードいっぱいの図になっていた。
青い線、赤い丸、黄色い付箋。
陽翔がそれを見上げて言った。
「おお……富士山というより、登山ルートですね」
蓮斗が頷く。
「クラウド移行は、登山に近いです。頂上だけ見て進むと危ない。ルート、装備、天候、連絡手段を確認する必要があります」
「蓮斗くんまで名言」
さくらが嬉しそうに言った。
大石社長は、ホワイトボードをじっと見ていた。
「私は、Azureに移せば、それで安心だと思っていた。いい機械を買えば、いい部品ができるのと同じだと」
悠真が首を振る。
「いい機械も、使い方と保守が大事です」
「その通りだ」
大石社長は苦笑した。
「うちの若い職人にも、いつも言っていることだ。道具に任せるな、段取りを見ろ、と」
望月が小さく言った。
「社長、それ、クラウドにも言えるんですね」
「ああ。今、耳が痛いほど分かった」
香澄は二人を見て、穏やかに言った。
「クラウドは、見えないからこそ不安になります。でも、見えないからこそ、図にして、言葉にして、役割にしておく。そうすれば、社員の皆さんも安心して使えます」
大石社長は、少し遠くを見るような目をした。
「富士山も、雲に隠れて見えない日がある。でも、あそこにあると分かっているから、静岡の人間は安心するのかもしれんな」
陽翔が胸に手を当てた。
「社長、それは湯呑みに印字したいです」
「湯呑み?」
大石社長が不思議そうに聞く。
「山崎事務所には、名言を湯呑みに印字したがる文化がありまして」
「ありません」
悠真と香澄が同時に言った。
午後三時、香澄が近くの店で買ってきた安倍川もちを出した。
「少し休憩しましょう」
大石社長は、きなこを落とさないように慎重に持ちながら言った。
「これは、クラウドより扱いが難しいな」
望月が笑った。
「社長、きなこログが机に残ります」
「監査ログか」
「はい。誰が、いつ、どこにこぼしたか」
陽翔が真面目な顔で言う。
「保存期間は?」
「本日中に清掃」
さくらが即答する。
「確認者は?」
「悠真さん」
「なぜ僕なんだ」
事務所に笑いが広がった。
休憩の後、最後に今後の進め方をまとめた。
まず、現在のシステム構成を正確に図にする。 次に、ベンダー契約の作業範囲と責任分界を明確にする。 バックアップ方針を決め、復元テストを計画する。 監査ログの取得と確認手順を定める。 Entra IDの権限を棚卸しし、退職者や不要な管理者権限を整理する。 そして、社内で誰が何を確認するのか、運用ルールとして残す。
さくらが議事メモを読み上げると、大石社長は大きく息を吐いた。
「やることは多いな」
「はい」
香澄は正直に答えた。
「でも、一つずつ進めれば大丈夫です」
奏汰がヘッドホンを首にかけたまま言った。
「最初から完璧な雲は作れません。まず輪郭を描く。次に、穴を見つけてふさぐ。運用しながら育てる」
蓮斗が続ける。
「クラウドは移したら終わりではありません。移してから、どう守るかです」
大石社長はしばらく黙ったあと、深くうなずいた。
「分かった。うちは、ものづくりの会社だ。図面のない加工はしない。なら、クラウドにも図面が必要だな」
望月の表情が少し明るくなった。
「社長、私だけで抱え込まずに、社内でも体制を作っていいですか」
「もちろんだ」
大石社長は即答した。
「いや、作ろう。君が休めない仕組みは、会社の仕組みとして間違っている」
望月は一瞬、言葉を失った。
それから、小さく笑った。
「ありがとうございます」
その笑顔を見て、香澄も微笑んだ。
契約書や規程や構成図は、冷たい紙に見えることがある。
けれど、その一枚一枚の向こうには、誰かの仕事がある。誰かの疲れがある。誰かが安心して帰れる夕方がある。
山崎行政書士事務所が大切にしているのは、いつもそこだった。
打ち合わせが終わり、大石社長と望月が帰ろうとしたとき、陽翔がふと尋ねた。
「社長、会社名の富士見精機って、やっぱり富士山からですか?」
「ああ。創業者の父が、工場から見える富士山を見てつけた名前だ。もっとも、今は建物が増えて、工場からは少ししか見えんがね」
「でも、あるんですよね」
さくらが言った。
「見えなくても」
大石社長は、うれしそうに笑った。
「ああ。見えなくても、ある」
奏汰が静かに言った。
「クラウドも同じです。見えないから、ないわけじゃない。見えないから、ちゃんと形を決める」
大石社長はその言葉を噛みしめるようにうなずいた。
「山崎先生、今日は来てよかった。Azureの雲に、富士山は隠れない。そんな気がしてきました」
「素敵な言葉ですね」
香澄が言った。
陽翔がすかさずメモを取る。
「湯呑み候補です」
「陽翔くん」
「はい、黙ります」
二人が帰ったあと、事務所には夕方の光が差し込んでいた。
青葉通りの木々が、窓の外でさらさらと揺れている。
さくらはホワイトボードを消しながら言った。
「クラウドって、便利なものだと思っていましたけど、今日の話を聞くと、人の役割とか、約束とか、記録とか、全部つながっているんですね」
「便利なものほど、使い方が大事です」
香澄が言った。
悠真は契約書をファイルにしまいながら、静かに続けた。
「責任分界は、責任を押しつけ合うためではなく、困ったときに迷わないための線です」
陽翔が顔を上げた。
「出ました。本日の最終名言」
「印字しない」
「まだ何も言ってません」
「顔が言っている」
蓮斗は、今日の構成図を見直していた。
「富士山の輪郭……」
さくらが聞いた。
「蓮斗さん?」
「いや。構成図も、見えないものの輪郭を描く作業なんだと思って」
奏汰はヘッドホンをつけ直しながら言った。
「いい構成図は、迷子を減らす」
陽翔が笑う。
「山崎事務所、今日も地図屋さんですね」
「契約書も、規程も、構成図も」
香澄が窓の外を見た。
「みんな、誰かが安心して進むための地図なのかもしれないね」
夕方の雲の切れ間から、ほんの少しだけ、遠くの空が明るくなった。
富士山は見えなかった。
けれど、その輪郭を思い浮かべることはできた。
見えないものを、見えるようにする。
不安を、言葉にする。
曖昧な雲の中に、確かな道筋を描く。
青葉通りの山崎行政書士事務所では、今日もそんな仕事が続いている。
そして翌朝。
事務所の共有フォルダに、陽翔が新しいファイルを作っていた。
「Azure_構成図_富士山は見えている版.xlsx」
悠真は無言でファイル名を変更した。
「Azure_構成図_初版.xlsx」
しかしその三分後、奏汰がぼそっと言った。
「富士山版のほうが、少し分かりやすかった」
悠真は手を止めた。
陽翔は勝ち誇った顔をした。
さくらは笑い、香澄はお茶を淹れた。
青葉通りの契約書は、今日もどこかで笑っている。







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