第32章 治める、とは水を配ること――稲の国の最初の仕事
- 山崎行政書士事務所
- 2月12日
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第四部「道の骨、東の光」
第32章 治める、とは水を配ること――稲の国の最初の仕事
治める、は、縛ることじゃない。溜まりすぎた水を逃がし、足りないところへ静かに渡すこと。——稲の国の王は、まず水路を持つ。
「……で、即位した翌日って、何するの」
ナガタが言った。湯呑みの底をのぞきこんで、空っぽの顔をしている。空っぽの顔をすると、人はだいたい「次の一杯」を欲しがる。国も同じだ。空っぽになった器には、まず何かを注がないといけない。
「水を配る」私はあっさり言った。
ナガタが眉を寄せる。
「は?」「水だよ。治めるって、最初は治水だ」「王様、土木作業員なのか」「そうだ」私は笑わずに頷く。「この国、火山と雨と霧でできてる。火を入れたら次は水だ。水が回らないと、汁も出ない」
ナガタが、昨日の「汁は後だ」を思い出した顔をした。
「……汁、まだ?」「だから水」「順番が厳しいな」「順番が国だ」
ナガタは、机の端を指で叩く。
「でもさ、水なんて勝手に流れるだろ」「勝手に流れるから、揉める」私は墨を摺る。墨の黒が、今日は少しだけ薄い。薄い黒は、水の章に向く。水は黒くない。黒くないけれど、国の骨になる。
「上の田が水を取れば、下が干る。下が怒れば、上が槍を持つ。槍を持ったら稲が折れる。稲が折れたら国が腹を空かす」
ナガタは嫌そうに口を尖らせた。
「王様って、結局、喧嘩の仲裁係じゃん」「そうだ」私は筆を取る。「仲裁係が一番むずい。戦は終わるが、水は毎年終わらないからな」
最初の一行を置いた。
——神倭伊波礼毘古命、橿原に坐して、まず水の道を定めたまふ。
橿原(かしはら)の朝は、湿った土の匂いで始まる。
盆地の底の湿り気。三山の影が夜の冷えを溜めて、朝になってもまだ手放していない湿り気。その湿り気の上を、火の残り香が薄く撫でる。火と水が同じ空気にいるとき、匂いは少しだけ甘くなる。甘いのに、喉が渇く。渇くのは、今日の仕事が地味で長いからだ。
即位の翌朝、伊波礼毘古(いわれびこ)は早く起きた。
早く起きた、と言っても、目覚めがいいわけじゃない。王の朝は、目覚ましがなくても勝手に来る。胸の奥に「起きろ」と言う骨ができる。骨が言う。骨が言うと、体は逆らえない。
外には、もう人が集まっていた。
集まった人の匂いは、昨日までの戦の匂いとは違う。土の匂い。稲の匂い。子どもの匂い。鍋の匂い。匂いが生活に寄っているのに、顔は硬い。
硬い顔は、揉め事の顔だ。
年寄りが一人、前へ出て言った。
「王よ」
“王よ”と呼べる口がある、というのが、国の始まりの不思議だ。昨日まで「よそ者」と言われていた者が、今日、王と呼ばれる。呼ばれた瞬間に、背中が重くなる。重くなるのに、立てる。立てるから王だ。
年寄りは続けた。
「水が、足りませぬ」
水が足りない。
その言葉は短いのに、腹の底へ落ちる。腹の底へ落ちる言葉は、剣より怖い。剣は避けられるが、腹の空きは避けられない。
別の男が、すぐ噛みつく。
「足りぬのは、下が怠けるからだ!上の田は働いておる! 水を取るのは当然だ!」
上と下。
盆地の中の上と下は、山ほどの差ではない。けれど水にとっては、わずかな高低差が世界の差になる。水は高いほうに溜まらない。溜まらないから、上はいつも不安だ。不安だから、上は先に取る。先に取るから、下は怒る。
怒りは、毎年の行事みたいに繰り返される。繰り返される怒りは、国を疲れさせる。
伊波礼毘古は、二人の顔を見た。
顔の色が違う。上の者の頬は少し赤い。下の者の頬は少し青い。赤いのは陽に当たる田を持つ色。青いのは水を待つ色。
伊波礼毘古は、怒鳴らなかった。
怒鳴ると、盆地の器は声を溜める。溜めた怒鳴り声は、夜に発酵して毒になる。毒になる声は、翌年も残る。
だから彼は、短く言った。
「見に行く」
伊波礼毘古は、久米(くめ)の者を数人連れて歩いた。
久米は相変わらずうるさい。
「水のことで揉めるの、みみっちいな!」「みみっちくない! 飯のことだ!」「飯のことなら汁だ!」「汁は後だ!」
……昨日と同じやり取りが、もう“冗談”として回り始めている。冗談が回ると、国は少し息をする。息をする国は、倒れにくい。
水のあるところへ行くと、匂いが変わった。
湿り気が生き物になる匂い。泥が温かい匂い。蛙の匂い。そして、草が伸びる匂い。
上の田は、水が満ちていた。
満ちている水面は、空を映す。空を映す水面は美しい。美しいが、腹が立つ美しさだ。美しさは、足りない者の胸を刺す。
下の田は、ひび割れていた。
ひび割れた土は、喉の乾きをそのまま地面にした色だ。乾いた土は軽い。軽いのに、歩くと足が重くなる。重くなるのは、作物が育たない重さだ。
伊波礼毘古は、しゃがみこんで土を掴んだ。
土が指の間から落ちる。落ち方が、砂に似ていた。
——血沼の砂。
思い出が胸を叩く。国の痛みは、こうして突然戻ってくる。戻ってくるから、王は油断できない。
伊波礼毘古は、指についた乾いた土を、ゆっくり落とした。
「水は、喧嘩をする」
ぽつりと、独り言みたいに言った。
久米の頭、大久米(おおくめ)が首を傾げる。
「水が喧嘩するのか」「人が喧嘩する」伊波礼毘古は言い直す。「水は、喧嘩の理由になる」
そして、上の田の水路を見た。
水路は細い。細いくせに、板が新しい。新しい板は、宇陀の罠の匂いを思い出させる。新しい板は、だいたい“隠し”に使われる。
伊波礼毘古は、水路の口に手を伸ばした。
板の下に、土嚢が詰められている。詰められている土嚢は、下へ行くはずの水を止めている。
止めているのは悪意か。それとも恐れか。恐れも悪意と同じ顔をする。
伊波礼毘古は、土嚢を持ち上げた。
持ち上げると、冷たい水が指を舐めた。冷たさが、喉の奥まで届く。水は、口に入っていないのに、体の中を潤す。
潤すものは強い。強いものを巡って、人は揉める。揉めるから、巡らせなければならない。
伊波礼毘古は言った。
「水を、潮のようにする」
誰もすぐには理解できない顔をした。理解できない顔をされるとき、王は比喩を使いすぎている。
だから彼は、言い方を変えた。
「上に溜めっぱなしにするな。下へ流しっぱなしにするな。時間で分ける。朝は上。昼は中。夕は下。夜は、川に戻す」
戻す。
この言葉が、大事だ。戻さない水は腐る。戻さない力は黄泉に似る。潮満珠と潮干珠の作法が、ここでも影のように働く。
年寄りたちは、顔を見合わせた。
時間で分ける。順番で分ける。
順番は、刃よりも人を納得させやすい。納得は、怒りより遅いが、長持ちする。
大久米が、腕をまくった。
「じゃあ水路だ。水路を広げろ。樋(とい)を作れ。夜に戻す口も作れ」
久米の者たちが、うげ、と顔をした。
「また土木かよ!」「俺ら、昨日まで戦士だぞ!」「戦士の腕は、鍬にも向く!」「向かねえ!」「向けろ!」
……久米歌の調子で、仕事が始まってしまう。この国の労働は、だいたい歌で始まる。歌があると、重いものを笑って持てる。笑って持てるから、国が続く。
水路掘りは、戦に似ている。
隊列を組む。合図を出す。同じリズムで鍬を入れる。土を投げる。汗が出る。息が上がる。そして、疲れる。
疲れるのに、死なない。死なない仕事は、戦より難しい。戦は終わる。水路は終わらない。
土の匂いが濃くなる。
濃い土の匂いは、鼻の奥に住む。住んだ匂いは、夜になっても抜けない。抜けない匂いは、家に持ち帰られる。家に持ち帰られると、家族の記憶になる。
やがて――
水が、動いた。
最初は細い糸だった。糸が土を撫で、土が暗くなる。暗くなった土は、柔らかくなる。柔らかくなると、草が息をしはじめる。息をしはじめる草の匂いが、ふっと立つ。
下の田のひび割れが、少しだけ黙る。
黙るひび割れ。黙る乾き。
乾きが黙るとき、そこに約束が生まれる。約束は紙ではなく、水で書ける。
下の者が、思わず声を上げた。
「……来た」
来た、という一言が、胸にしみる。来た、と言えるだけで救われる日がある。救われる日がある国は、長持ちする。
上の者が、口を尖らせる。
「……俺の田が干るじゃないか」
伊波礼毘古は首を振った。
「干らせない。干らないように、戻す口を作った」
戻す口。逃がす口。溢れたときの道。
道があると、水は喧嘩しにくい。道があると、人も喧嘩しにくい。道は、国の骨だ。骨は見えないが、折れると痛い。折れないように、骨を先に作る。
伊波礼毘古は、土の上に立って、水の流れを見た。
水の流れは、矢より遅い。遅いのに、確実だ。確実なものは、正しさに近い。正しさは、こういう遅いところにいる。
彼は、ぽつりと言った。
「……これが、治める、だ」
治める。
治水の治。収めるの収。納めるの納。
全部、水の匂いがする。水を収め、水を納め、水を治める。言葉の意味が、土の上で一つに溶ける。
久米の者が、汗だくで叫ぶ。
「王様! 水が来たぞ!これで汁だな! 汁だろ!」
伊波礼毘古は、珍しく笑った。
笑い方が短い。短い笑いは、働いた者の笑いだ。働いた笑いは、祭に近い。
「汁は……今日だ」
その一言で、現場の空気がふっと軽くなった。軽くなった空気は、水面に風の皺を作る。皺のついた水面は、もう“暮らしの水”だ。
夕方、竈から湯気が立った。
湯気は、今日の勝利だ。戦の勝利ではない。水の勝利。順番の勝利。土の勝利。
汁の匂いが、橿原に広がる。
汁の匂いは、誰の証文も要らない。嗅げば分かる。分かる匂いが、国の最初の法律になる。
伊波礼毘古は、器の中で、人々が汁をすする音を聞いた。
すする音は小さい。小さい音が、盆地に溜まる。溜まった小さい音は、夜を安心にする。
そして彼は思う。
——国を作るとは、戦に勝つことじゃない。——水を回し、汁を回し、眠りを回すことだ。
三山は、黙っている。
香具山は匂いで黙る。畝傍山は背中で黙る。耳成山は耳で黙る。
黙っている山の下で、鍋が鳴る。鍋が鳴る音は、王の名より長く残ることがある。
私は筆を置いた。
ナガタが、紙面を見て、ふっと息を吐く。
「……結局、王様って、水番なんだな」「水番だ」私は頷いた。「水を分けるのが最初の政治だ。分け方を間違えると、槍が出る。槍が出ると稲が折れる」
ナガタは、最後の「汁は今日だ」に小さく笑った。
「汁、勝ったな」「汁は裏切らない」私は言った。「証文は割れるが、汁は温かい」
ナガタが、余白を指で叩く。
「次は?」「次は、名前だ」私は硯の水を替えた。水の章のあとは、帳面の章が来る。帳面の匂いは乾いているのに、怖い。
「水を配ったら、次は“人”を数える。数えると、こぼれる。こぼれた者が、また境界になる」





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