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第38章 一書曰く、の夜――書かれなかった者の息を拾う


第四部「道の骨、東の光」

第38章 一書曰く、の夜――書かれなかった者の息を拾う

「一書曰く」は、提灯みたいな言葉だ。暗いところに火を寄せる。けれど提灯は、照らした分だけ影も作る。——影の中に残った息が、国の本当の重さになる。

「……これ、難しいやつだな」

ナガタが言った。指先で、さっき干した木札の端をそっと触っている。触り方が、いつもの雑さじゃない。雑じゃない指は、たぶん“書かれなかったもの”に触れたがっている。

「難しい」私は頷いた。硯の水を替える。今日は黒を濃くしない。濃くすると、書ける顔をして“書けないもの”まで押し込めてしまう。

ナガタが眉を寄せる。

「“一書曰く”ってさ、便利じゃん。便利って、たいてい誰かを雑にするじゃん」「する」私は正直に言った。「だからこの章は、“便利さの外側”を拾う。便利じゃない息を拾う」

「息?」「名にならない声。戸にならない暮らし。札に乗らなかった、でも確かにあった体温」私は筆先を整える。「歴史って、書いたぶんだけ“書かなかったもの”が増える。増えた分が、夜に戻ってくる」

ナガタは小さく笑って、すぐ真顔に戻った。

「夜に戻ってくるの、黄泉じゃん」「黄泉じゃない」私は首を振る。「黄泉は“戻らない”を言う場所だ。これは“戻りたくて戻れない”息の夜だ」

ナガタが息を吐く。

「……じゃあ書け。余白のための余白。“書けない”をちゃんと書け」

私は頷いて、最初の一行を置いた。

——夜、札は風に揺れ、字の外に残れる息が、辻の土を静かに歩きたまふ。

橿原(かしはら)の夜は、音が少ない。

昼の市の音も、夕の汁の音も、火の輪の笑いも、みんな一度、三山の影の底へ沈んで、沈んだまま、ゆっくり冷える。

冷えると、聞こえる。

聞こえるのは、派手な声じゃない。派手な声は昼の仕事だ。夜に聞こえるのは、うっかり落ちた息の音。

木札が、干されていた。

水の札。戸の札。市の札。祭の札。暦の札。そして、端に小さく添えられた――「一書曰く」の札。

札は、風に揺れる。

揺れると、字が少しだけ動いて見える。動く字は、怖い。字は本当は動かない。動いて見えるとき、人は「書いたもの」が生き物みたいに見えてしまう。生き物みたいに見える制度は、油断すると縄になる。

布留(ふる)が、札の見回りをしていた。

若い書き手。静かな目。真面目な手。

真面目な手は、夜に弱い。夜は、真面目さの隙間に入ってくるからだ。

布留は、札の前で、立ち止まった。

「十戸」「十一戸」

二枚の札が並んでいる。並んでいるだけで、夜が少しざわつく。ざわつくのは、答えが決まっていないからではない。答えが決まっていないことで、救われている息があるからだ。

布留は、息を吸った。

吸った息が冷たい。冷たい息は、誰かの到来を先に知らせる。

足音がした。

土を踏む音が小さい。小さいのに、迷いがない。

布留が振り向くと、影が二つ立っていた。

一つは、女。

小さい肩の女。薄火(うすび)の名を持った女。今夜は、炭も籠も持っていない。手ぶらで立つ女の影は、夜に溶けやすい。

もう一つは、男。

山の男。獣皮の匂いの男。口を貸すと言った男。今夜は枝も持っていない。手ぶらの山は、里よりいっそう深い。

女が、布留に言った。

「札に……私の火は、書かれましたか」

書かれたか。

たったそれだけの問いに、布留の喉が詰まる。詰まるのは、責められているからじゃない。“書く”という行為が、誰かの夜を左右する、と知ってしまったからだ。

布留は、札を指さした。

「……薄火、と」

女は、それを見て、少しだけ笑った。

笑い方が小さい。小さい笑いは、火の名に似ている。消えそうなのに、消えない笑い。

その隣で、山の男が言った。

「俺は、書かれてない」

言い方が短い。短い言い方は、山の言い方。山の言葉は、責めない。責めないのに、胸に刺さる。

布留は答える。

「……口、として数えました。縁の石も置きました」

山の男は首を振る。

「数えたのは、“口”だ。俺の名じゃない」

名。

名が欲しいのか。欲しくないのか。山の男の目は、どっちでもない。

「名がないと、冬が長い」

男はぽつりと言った。

冬が長い。

この国では、冬が長いという言葉が一番きつい。死ぬ、よりきついときがある。死は終わる。長い冬は、終わりが毎晩来る。

布留は、何も言えなかった。

言えないとき、書き手は無力だ。無力な書き手の前で、夜は、いちばん静かに牙を見せる。

そのとき、別の足音がした。

今度は、複数。重い。そして少し、引きずる。

影が三つ、四つ、辻の端に集まってくる。

顔は見えない。だが匂いがする。

鉄の匂い。乾いた汗の匂い。そして、土に負けた匂い。

戦の匂いだ。

伊波礼毘古(いわれびこ)の陣に来た者ではない。長髄彦(ながすねひこ)の側にいた者たちの匂い。

負けた側の匂いは、夜に出る。昼は、勝った側の札が風を切る。夜は、札の外側を歩く者が出る。

そのうちの一人が、布留に言った。

「……俺たちの戸は、どこだ」

戸。

戸を求めるのは、税を求める顔ではない。夜を短くするための顔だ。戸があると、火が配られる。水が回る。汁が回る。祭の輪に入れる。

輪に入れない者は、外で凍る。

布留は、息を吸う。

吸った息が、紙の匂いをする気がした。紙の匂いはない。木札の匂いしかない。でも“帳面の怖さ”が、鼻の奥で紙になる。

「……札に、ない」

布留が言うと、影の一人が笑った。

笑い方が、乾いている。

「だろうな。俺たちは、負けた」

負けた者は、書かれない。

書かれない者は、次の年に戻れない。戻れない者は、山へ散る。散った者は、いつか“賊”と呼ばれる。賊と呼ばれた者は、また刃になる。

刃になる前に、息を拾わなければならない。

布留は走った。

走る先は、宮の火。

火の前には、まだ起きている影があった。

伊波礼毘古と、饒速日(にぎはやひ)。

二人とも寝ていない。寝られないのではない。寝ない。治める者は、夜の息を聞く番だ。

布留は膝をついて言った。

「……札の外に、息が集まっています」

伊波礼毘古は、すぐに理解した顔をした。

理解が早いのは賢いからではない。熊野の雨で“見えないもの”に慣れた顔だからだ。見えないものは、夜に来る。

伊波礼毘古は言った。

「書かれなかった者か」

布留が頷く。

「山の者。薄火の者。そして……負けた側の者たち」

饒速日が、そこで少しだけ目を伏せた。

伏せた目は、恥の目だ。恥は湿っている。湿った恥は、嘘より正直だ。

伊波礼毘古は、火を一度見てから、立ち上がった。

「行く」

短い。短い言葉は、夜に効く。

辻には、影が集まっていた。

集まっているのに、誰も騒がない。騒げないのだ。騒ぐと追い払われる、と体が知っている。

伊波礼毘古が来ると、影の空気が少し揺れた。

揺れは期待ではない。恐れだ。

恐れは、戸を求める者の基本の匂いだ。恐れがあるから、火を守れる。恐れがあるから、刃を抜く前に言葉が出る。

伊波礼毘古は、まず言った。

「名を言え」

その言葉に、影が固まる。

名を言え、は帳面の言葉だ。帳面の言葉は、夜を凍らせる。

だが伊波礼毘古は、すぐ続けた。

「……言えないなら、言わなくていい」

言わなくていい。

この一言で、影が少し呼吸する。呼吸すると、息が見える。息が見えると、人は生きている。

伊波礼毘古は、地面の丸い石を指さした。

「今夜は、石に息を置け」

息を置け。

変な言い方だ。でも変な言い方は、救うときがある。

「ここに来て、火に当たって、汁を飲め。名は、明日の朝でいい。戸は、来月でいい。今夜は、凍るな」

凍るな。

国の最初の法律は、だいたいこういう短い命令だ。凍るな。死ぬな。戻れ。

影の中の女が、ふっと息を吐いた。

その息が白い。白い息は、冬の入口の息だ。入口で止まれたなら、まだ帰れる。

山の男が言う。

「縛らないのか」

伊波礼毘古は頷いた。

「縛るのは、昼の仕事だ。夜は、息を拾う」

拾う。

拾うという言葉が、木札の黒より温かい。

負けた側の影が、少しだけ前へ出た。

「俺たちは、賊になるのか」

賊。

その言葉は、未来の刃の匂いを持つ。匂いが出た時点で、もう芽がある。芽は、早いうちに土に戻さないと刺になる。

伊波礼毘古は、真っ直ぐ言った。

「賊にするな。だが刃を持てば賊だ。刃を置け。置ける場所を、ここに作る」

置ける場所。

置ける場所があると、刃は抜かれにくい。抜かれにくい国は、稲が折れにくい。

饒速日が、一歩前へ出て言った。

「……俺の側にいた者もいるだろう。名を失った者もいる。今夜は、俺の恥もここに置く」

恥を置く。

恥を置ける場は、強い。強さは、勝つことじゃない。折れないことだ。

伊波礼毘古は、布留に言った。

「札をもう一枚、作れ」

布留が頷く。

「何を書きますか」

伊波礼毘古は、少しだけ考えてから言った。

「書くな」

「……え?」

「書かない札だ。字のない札を、ここに立てろ」

字のない札。

それは制度としては危うい。でも国は、危うい余白がないと縄になる。縄になると、首が苦しくなる。

伊波礼毘古は続けた。

「字のない札は、“ここに息を置ける”という目印だ。書かれない者が、書かれないまま凍らないための札だ」

布留の手が震えた。

震える手は、責任の震えだ。責任は重い。だが重さがあるから、国は軽くならない。

その夜、汁が回った。

汁は、札の外側にも回った。

回る汁は法律より強い。法律は言葉だが、汁は体だ。体に入るものは、嘘をつかない。

薄火の女が、椀を両手で持ってすする。

すする音が小さい。小さい音が、耳成山の沈黙に馴染む。馴染むと、夜が少し短くなる。

山の男が、椀の底を見て言う。

「……苦い草、入ってるな」

誰かが笑う。

久米の誰かが、当然のように言う。

「苦いと効くんだ!」「効きすぎると眠くなるぞ!」「眠くなったら暦で寝ろ!」

……うるさい。だがこのうるささが、影の空気を少しだけ“市の空気”に変える。市の空気は、端っこ同士を繋ぐ。

負けた側の男が、椀を握りしめたまま言った。

「……俺の名は、言わなくていいのか」

伊波礼毘古は答えた。

「言いたくなったら言え。言えないなら、息だけ置け。息を置いた者は、国の中だ」

国の中。

その言葉が、器の底で静かに響いた。響いたが、押しつけではない。押しつけると、また割れる。

字のない札が、辻に立った。

札は、何も書いていないのに、風土の匂いを持つ。木の匂い。火の匂い。そして、人の息の匂い。

「一書曰く」と書けるのは、昼の書き手だ。「書かない」と決められるのは、夜の王だ。

この夜があったから、この国の黒は、断言だけの黒にならずに済む。

私は筆を止めた。

ナガタが、しばらく黙ってから言った。

「……字のない札、すげえな」「すげえ」私は頷いた。「書くことで救う。でも書かないことで救う夜もある」

ナガタが、ぽつりと言う。

「“国の中”って言葉、こんなに静かに言えるんだな」「静かじゃないと、国は縄になる」私は言った。「大声の“中”は、外を作りすぎる」

硯の水を替える。次の水は、もう少し明るくしていい。夜の息を拾ったら、朝に戻す。

 
 
 

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