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第4章 山崎行政書士事務所


午前六時五十八分。

駿河メディカルロジスティクス本社の正面玄関に、一台の白い車が停まった。

夜明けの空は薄く曇っていた。海に近い物流センター特有の湿った風が、駐車場の旗を弱く揺らしている。

自動ドアの前に立った男は、派手なスーツを着ていなかった。黒に近い紺色のジャケット。革靴には雨の跡。肩には薄い書類鞄。手にはノートPCと、紙のファイルが数冊。

受付の社員が、緊張した顔で名前を聞いた。

「山崎行政書士事務所の山崎です。望月社長と黒崎課長にお約束をいただいています」

その声は、夜を引きずった社内の空気とは少し違っていた。急いでいるが、焦ってはいない。硬いが、威圧的ではない。

受付社員は、事前に共有されていた来訪者リストを確認し、入館証を渡した。

「第三会議室へお願いします。皆さん、そちらに」

「ありがとうございます」

山崎は一礼し、廊下を進んだ。

壁際には、昨日までなら目に入らなかったものがいくつもあった。出荷遅延を知らせる臨時掲示。手作業運用中と書かれた紙。倉庫から走ってきた社員の靴跡。夜勤明けの作業員が、缶コーヒーを握ったまま床に座り込んでいる。

サイバー攻撃の現場に、赤い警報灯はなかった。

あるのは、止まった業務と、疲れた人間だった。

第三会議室の扉を開けると、山崎は一瞬だけ室内を見渡した。

大型モニターには、三枝涼真が作った時系列表。壁のホワイトボードには、久我真琴が書いた技術調査項目。机の上には、契約書のコピー、印刷された構成図、ノートPC、飲み残しのコーヒー、ゼリー飲料の空き容器、手書きの出荷記録。

誰も、きれいに整えようとしていなかった。それでよかった。

事故の現場は、整っていない方が本物だった。

望月玲子社長が立ち上がった。

「山崎先生。お越しいただきありがとうございます」

「こちらこそ。まず、昨夜からの対応、お疲れさまです」

山崎は深く頭を下げた。

それは社交辞令ではなかった。この部屋にいる全員の顔を見れば、誰がどれだけ削られているか分かった。

黒崎は椅子に座ったまま、軽く頭を下げた。目の下には濃い影がある。

三枝は、画面の前で固まっていた。自分が半年前に見落とした復元検証ファイルのことが、まだ胸に残っている。

北斗DFIRの久我は、端末の解析ログを見ながら片手を挙げた。

「山崎先生、来ましたね」

「久我さん、状況は」

「最悪ではありません。ただ、良くもありません」

「分かりやすいですね」

「現場向けですから」

久我の口調には、疲労の奥に乾いた冗談が混じっていた。

山崎は鞄からノートPCを出す前に、紙のファイルを机に置いた。

表紙には、こう書かれていた。

インシデント初動整理セット構成・権限・ログ・契約・判断記録

三枝は、その文字を見た。

セミナーで見た言葉に近かった。

クラウド法務。Azure技術支援。説明できる統制。

昨日まで、それは少し抽象的な言葉だった。今は違った。

目の前にある混乱を、どうにか一枚ずつ整理するための道具に見えた。

午前七時十二分。

山崎は、会議室のホワイトボードを半分だけ空けてもらった。

そこに、太い黒ペンで五つの枠を書いた。

技術調査業務継続契約・委託先個人情報・対外説明経営判断

そして、その上に一本の横線を引いた。

横線の上に書いた言葉は、ひとつだった。

事実

山崎はペンを置き、全員を見た。

「今日から、この部屋では“事実”と“責任”を分けます」

黒崎が顔を上げた。

「責任を問わないという意味ですか」

「違います。順番を間違えないという意味です」

山崎は、静かに続けた。

「責任を決めるには、まず事実が必要です。誰が悪いのかを急いで決めると、必要なログも、必要な証言も、必要な契約確認も取れなくなります。人は責められると思った瞬間、記憶ではなく防御を話し始めます」

会議室の空気が、わずかに動いた。

日向システムサービスの高瀬が、オンライン画面の向こうで視線を落とした。黒崎も、何か言いたそうにしたが黙った。

山崎は続けた。

「もちろん、最終的に責任の整理は必要になります。ただし、それは弁護士や保険会社、必要に応じて警察、行政機関とも連携して進める領域です。山崎行政書士事務所がここで支援するのは、まず事実経過、契約関係、権限関係、報告資料を整理することです」

望月が頷いた。

「先生の立場を、社内にも説明した方がよさそうですね」

「はい。誤解を避けるために、最初に明確にします」

山崎は、ファイルの一枚目を配った。

そこには、支援範囲が簡潔に書かれていた。

山崎行政書士事務所の支援範囲一 時系列・証跡・未確認事項の整理二 クラウド構成、権限、ログ保存、委託契約の対応関係確認三 委託先・再委託先への事実確認事項、保全要請、資料提出依頼の整理四 個人情報漏えい等報告の要否判断に必要な事実資料の作成支援五 取引先、社内、経営会議向け説明資料の作成支援六 再発防止に向けた責任分界表、権限棚卸し、ログ保全方針、契約見直し案の整理

末尾には、小さくこう書かれていた。

紛争性のある法律判断、損害賠償請求、訴訟対応等は、弁護士その他専門家と連携する。技術的原因特定はフォレンジック専門家の調査を前提とする。

三枝は、その注意書きを見て、かえって信頼できると思った。

山崎は万能を装っていない。できることと、できないことを分けている。

今の会社に必要なのは、そういう分け方だった。

午前七時二十八分。

山崎は最初に、三枝の時系列表を開いた。

行数は二百四十七。色分けは、夜中に三枝が急いでつけたものだった。

赤は技術異常。青は会社側判断。黄色は未確認事項。灰色は対外連絡。

山崎はしばらく黙って見ていた。

三枝は、まるで自分の答案を採点されているような気持ちになった。

「三枝さん」

「はい」

「よくここまで残しました」

意外な言葉だった。

三枝は、すぐに返事ができなかった。

「ただ、今日から列を増やします」

山崎は、画面を指差した。

「まず、“情報源”の列。ログなのか、会議発言なのか、メールなのか、電話メモなのか、画面キャプチャなのか。次に、“保全状況”の列。原本が残っているか、キャプチャだけか、エクスポート済みか、相手先保有か。三つ目に、“説明用途”の列。技術調査用、経営判断用、顧客説明用、行政報告用、委託先確認用」

三枝は、すぐに列を追加した。

山崎は続けた。

「最後に、“未確認の理由”を入れてください。権限不足、ログ未取得、委託先回答待ち、契約確認中、技術解析中、社内記録なし。分からない理由が分かれば、次に誰が動くべきか分かります」

「はい」

三枝は入力しながら、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。

未確認事項は、ただの穴ではない。穴の形が分かれば、埋める手順が見える。

山崎は言った。

「山崎行政書士事務所では、サイバー事故の資料を“証跡”と“説明”の両方で見ます。ログは技術者のためだけにあるのではありません。経営者が判断し、取引先に説明し、行政報告を検討し、再発防止策を作るための材料でもあります」

三枝は頷いた。

昨夜までは、ログを見ながら孤立していた。今は、ログが他の資料とつながり始めている。

午前七時四十九分。

山崎は、次に契約書の山を開いた。

日向システムサービスとの基本契約。保守契約。クラウド移行時の個別契約。バックアップオプションの見積書。SOW。秘密保持契約。再委託に関する条項。セキュリティ要件表。月次報告書。

紙の厚さだけを見れば、会社は多くのことを決めているように見えた。

だが、山崎は読み進めるほど、ペンで小さな印を付けていった。

「高瀬さん」

オンライン画面の向こうで、高瀬が顔を上げた。

「はい」

「このSOWでは、“クラウド基盤の保守支援”と書かれていますが、具体的にどの管理者ロールを使うかは書かれていません」

「はい。作業内容に応じて必要な権限を付与いただく運用でした」

「その“必要な権限”を、誰が、どの期間、どの承認で付与するかは、どこに記載されていますか」

高瀬は資料をめくった。

「明確には……記載がないと思います」

黒崎が眉をひそめた。

「当時は作業ごとにチャットで確認していました」

山崎は、三枝に向けて言った。

「チャットの履歴、残っていますか」

三枝は検索した。

一部は残っている。だが、保持期間を過ぎたものは消えている。クラウド移行初期のやり取りは、かなり欠けていた。

「一部のみです」

山崎は頷き、契約書の余白にメモをした。

権限付与手順:契約上の粒度不足。実運用はチャット依存。履歴一部欠落。

次に、再委託条項。

山崎は読み上げた。

「“乙は、業務の全部または一部を第三者に再委託できるものとする。ただし、乙は再委託先に対して本契約上の義務と同等の義務を負わせるものとする”」

秋山が言った。

「一般的な条項だと思います」

「はい。一般的です」

山崎は言った。

「ですが、今回のようなクラウド運用では、一般的であることが十分とは限りません」

「どういうことですか」

「再委託先が、どのシステム情報を見られるのか。画面共有で何を見てよいのか。ログを何日保存するのか。インシデント時に何時間以内に一次回答するのか。録画を保全するのか。MFA承認画面が映った場合にどう扱うのか。そこまで落ちていません」

高瀬は沈黙した。

山崎は責める口調ではなかった。だが、逃げ場のない言い方だった。

「再委託を許すかどうかではなく、再委託先が事故の夜にどう動くかが決まっていない。ここが問題です」

望月がゆっくりと息を吐いた。

「契約書はあった。でも、事故の夜には足りなかった」

「その通りです」

山崎は頷いた。

「契約書は、平時に読むものではありません。事故の夜に機能するかどうかが問われます」

三枝は、その言葉をメモした。

契約書は、事故の夜に機能するか。

それは、広告のコピーのようでもあり、現場の事実でもあった。

午前八時二十三分。

山崎は、契約書の横にクラウド構成図を並べた。

一年前に作られた構成図。現在の管理画面から出した権限一覧。日向システムサービスの作業者名簿。再委託先ネストリンクの夜間監視体制図。三枝の時系列表。

机の上には、会社の仕組みがばらばらに置かれていた。

山崎はそれらを指差しながら言った。

「ここから、“契約上の世界”と“クラウド上の世界”を突き合わせます」

ホワイトボードに二つの列が書かれた。

契約上いる人クラウド上にいる人

三枝は、管理画面から特権ロール保有者の一覧をエクスポートした。久我が、監査ログから実際に操作したアカウントを抜き出した。秋山が、契約上の作業者名簿を読み上げた。高瀬が、日向システムサービス側の現行担当者を確認した。

名前が並ぶ。

一致するもの。一致しないもの。古いもの。所属が変わったもの。退職済みのもの。用途不明のもの。

山崎は赤いペンで、いくつかを囲んだ。

小田切 拓。

契約上の作業者名簿にはない。クラウド上では監査ログ出力権限を保持。半年前に日向システムサービスを退職。ネストリンクに転籍した可能性あり。復元検証の未了事項を記録していた人物。

次に、前島 智子。

契約上は関係なし。社内では退職済み。クラウド上ではアカウント有効。旧配送管理ツールの連携に使用された可能性。今回、ストレージアクセス異常あり。

さらに、svc-msp-maintenance。

契約上は保守用アカウント。クラウド上では条件付きアクセス例外。MFA有効だが管理者不明。予定作業終了直後に予定外操作。再委託先の画面共有関与可能性あり。

山崎は、三つの名前とアカウントを見比べた。

「これが、今回の中心です」

黒崎が言った。

「犯人候補という意味ですか」

山崎は首を横に振った。

「いいえ。説明不能の中心です」

会議室が静まった。

山崎は続けた。

「小田切氏が犯人かどうかは、現時点では分かりません。前島氏のアカウントがなぜ使われたかも、まだ分かりません。保守用アカウントがどのように悪用されたかも調査中です。ただ、この三つには共通点があります」

「共通点?」

三枝が聞いた。

「“誰が管理しているか”が曖昧です」

山崎は、ホワイトボードに書いた。

管理者不明。削除完了不明。利用範囲不明。ログ提出不明。契約根拠不明。

「攻撃者は、この不明の中を歩いています」

三枝は、胸が冷えるのを感じた。

その通りだった。

攻撃者は、強固な壁を壊したのではない。誰も閉めたか確認していない扉を開けて歩いている。

午前八時五十八分。

望月が、山崎に聞いた。

「先生、当社は今、どれくらい危ないのでしょうか」

会議室にいる全員が、山崎を見た。

技術的な危険は久我が見る。業務上の危険は大石が見る。だが、会社全体としてどれくらい危ないのか。その問いには、誰もすぐ答えられなかった。

山崎は少し考えた。

「危険の種類を分けます」

ホワイトボードに、さらに四つの項目を書いた。

一 再侵害リスク二 業務継続リスク三 情報漏えい・報告リスク四 説明不能リスク

山崎は言った。

「一つ目、再侵害リスク。久我さんの調査が続いており、攻撃者の侵入経路と残存足場は未確定です。したがって、安全確認済み範囲からの段階復旧が必要です」

久我が頷いた。

「同意です」

「二つ目、業務継続リスク。限定復旧で病院便の一部は出せていますが、通常運用には戻っていません。手作業による誤配送、現場疲労、顧客対応の限界があります」

大石が低く言った。

「現場は今日も持たないかもしれません」

「三つ目、情報漏えい・報告リスク。退職者アカウントによる顧客情報領域へのアクセス、共有フォルダ侵害可能性があります。個人情報に該当するデータ、件数、外部取得可能性の整理が必要です」

秋山がメモを取った。

「四つ目、説明不能リスク。これが今回、特に大きいです」

望月が眉を寄せた。

「説明不能リスク」

「はい。バックアップはあるが復元テストがない。契約はあるが権限の粒度がない。作業者名簿はあるがクラウド権限と一致しない。アカウント停止依頼はあるが完了していない。ログはあるが出力権限が元担当者に残っている」

山崎は、声を少し低くした。

「つまり、会社が自分の状態を説明できない部分が多い。これは、顧客対応、行政報告、委託先協議、経営判断のすべてを不安定にします」

三枝は、ホワイトボードの文字を見た。

説明不能リスク。

それは、昨日の夜から感じていた恐怖に名前を与える言葉だった。

山崎は続けた。

「山崎行政書士事務所の支援は、ここを減らすことです。攻撃を魔法のように止めることではありません。クラウド構成、権限、ログ、契約、報告資料をつなぎ、会社が説明できる部分を増やすことです」

望月は、ゆっくり頷いた。

「お願いします」

午前九時三十一分。

山崎は、三枝に個別に声をかけた。

「少し、別室で話せますか」

三枝は一瞬、身構えた。

「はい」

二人は、隣の小会議室に移った。

小会議室には、使われていないプロジェクターと、古い避難訓練のポスターがあった。机の上には、誰かが置き忘れたペンが一本。

山崎は椅子に座らず、窓際に立った。

「三枝さん。半年前の復元検証ファイルのことですが」

三枝は、思わず目を伏せた。

「はい」

「あなたは、それを見ていた」

「はい」

「そして、対応していなかった」

「はい」

言葉にすると、思っていたよりも重かった。

三枝は続けた。

「言い訳になりますが、その時は倉庫端末の障害対応があって、後で確認するつもりでした。でも、そのままになりました」

「後で確認するつもりだった」

「はい」

山崎は責めなかった。

「その事実は、時系列に入れましたね」

「入れました」

「では、それで一つ前に進んでいます」

三枝は顔を上げた。

「前に?」

「はい。事故対応では、後悔と事実を混ぜないことが重要です」

「後悔と事実」

「後悔は、人を止めます。事実は、人を動かします」

山崎は、静かに言った。

「“自分が見落とした”という後悔だけでは、次の一手になりません。“半年前に復元検証ファイルが共有され、未了事項が記載され、閲覧履歴があり、対応完了記録がない”という事実になれば、再発防止策になります」

三枝は、唇を噛んだ。

「でも、僕の責任です」

「責任がないとは言いません」

山崎の声は柔らかかったが、逃げ道を作るものではなかった。

「ただし、あなた一人の責任として終わらせると、会社はまた同じことを繰り返します。なぜ後回しになったのか。なぜ未了事項を管理する仕組みがなかったのか。なぜ復元テストが経営課題として上がらなかったのか。そこまで見なければなりません」

三枝は黙っていた。

山崎は続けた。

「山崎行政書士事務所が作る再発防止策では、“担当者の注意不足”という言葉だけで終わらせません。未了事項の期限、責任者、経営報告、例外承認、再確認日、証跡保全まで落とします。人の記憶に頼る管理を、仕組みに変える必要があります」

三枝は、少しだけ息を吐いた。

「僕は、何をすればいいですか」

「今は、見たくない事実ほど正確に書いてください」

山崎は、まっすぐ三枝を見た。

「それが、今のあなたにできる一番重要な防御です」

三枝は頷いた。

「分かりました」

小会議室を出る前に、山崎は付け加えた。

「それから、休憩も取ってください。疲労した人間は、ログより簡単に改ざんされます」

三枝は思わず笑いそうになった。

だが、山崎の顔は真面目だった。

「本気です。判断力が落ちます」

「分かりました」

三枝は、小さく頭を下げた。

午前十時四分。

第三会議室に戻ると、久我が新しいログを見つけていた。

「共有フォルダへのアクセス、やっぱりあります」

三枝は急いで席についた。

久我が画面を映す。

アクセス元は、退職者アカウント前島智子。アクセスされたファイル群は、三つのフォルダに分かれていた。

契約関連。システム構成関連。復旧手順関連。

秋山が青ざめた。

「契約関連……」

久我は頷いた。

「ただし、全部がダウンロードされたわけではありません。閲覧、プレビュー、一部取得。転送量は限定的です。でも、何を見られたかが重要です」

山崎がすぐに言った。

「ファイル分類表を作りましょう。ファイル名、格納場所、情報種別、個人情報有無、契約上の秘密情報該当性、外部取得可能性、保全状況、対外説明要否」

秋山は、もう驚かなかった。

「作ります」

三枝も同時に、ログからファイル一覧を抽出した。

その中に、見覚えのある名前があった。

Azure_権限設計_例外一覧.xlsx保守用アカウント運用メモ.docxWMS復元検証_未了事項.xlsx再委託先管理_検討中.xlsx取引先別_緊急連絡網.xlsx

三枝は、声を失いそうになった。

攻撃者は、ただ情報を盗んだのではない。

会社の弱点を説明する資料を見ている。

山崎が言った。

「Blue Heronが、なぜ御社の未了を知っていたのか、見えてきましたね」

久我が頷いた。

「共有フォルダから、弱点の地図を拾った可能性があります」

黒崎が椅子の背にもたれた。

「最悪だ」

山崎は首を横に振った。

「最悪かどうかは、まだ決めないでください。重要なのは、今これを把握できたことです」

「把握できたから何ですか」

黒崎の声には疲れがにじんでいた。

山崎は答えた。

「把握できれば、説明対象を絞れます。顧客情報と、契約情報と、システム構成情報を分けられます。取引先に何を伝えるか、委託先に何を確認するか、警察に何を持っていくか、個人情報漏えい等報告の論点に何を入れるかが決められます」

黒崎は、しばらく黙った。

「先生は、本当に説明から入るんですね」

「はい」

山崎は即答した。

「攻撃者は、御社を説明不能にしようとしています。ならば、防御は説明可能にすることです」

三枝は、その言葉を聞いて、背筋が伸びるのを感じた。

Blue Heronは、暗号化より先に沈黙を作る。ログを疑わせ、バックアップを疑わせ、委託先を疑わせ、会社の言葉を奪う。

ならば、こちらは言葉を取り戻すしかない。

午前十時三十九分。

警察への相談資料の準備が始まった。

久我が技術的な概要をまとめる。山崎が事実経過と証跡一覧を整理する。秋山が会社概要と被害状況、取引先影響を整理する。望月が経営判断と今後の対応方針を確認する。

山崎は、資料の冒頭にこう書いた。

本資料は、現時点で判明している事実、保全済み証跡、未確認事項を整理したものであり、原因・責任・被疑者を断定するものではない。

黒崎がそれを見て言った。

「慎重すぎませんか」

山崎は答えた。

「慎重であることと、曖昧であることは違います。断定できる事実は明確に書きます。断定できないことは、断定しない。それだけです」

久我が横から言った。

「技術レポートも同じです。断定できないことを断定すると、後で全部崩れます」

秋山が頷いた。

「対外説明も同じですね」

山崎は言った。

「はい。技術、法務、広報、経営。全部同じです。事実と推測を分ける」

三枝は、昨夜から何度も聞いた言葉を、改めて胸に刻んだ。

事実と推測を分ける。

それは単純なようで、事故の現場では最も難しい。

人は、怖い時ほど物語を作りたがる。誰かが裏切った。委託先が隠している。自分が全部悪い。攻撃者は何でも知っている。もう復旧できない。

だが、物語は人を救うこともあれば、判断を狂わせることもある。

山崎は、会社が間違った物語に飲まれないように、ひたすら事実を並べていた。

午前十一時二十六分。

ネストリンクから、画面共有録画の保全完了通知が届いた。

提出可否は、まだ確認中。だが、保全対象ファイル名、録画時間、参加者、保存場所、保全実施者が記載されていた。

山崎は、その通知を見て言った。

「一歩前進です」

黒崎は苦い顔をした。

「提出されていないのに?」

「はい。少なくとも、消えていないことを確認できました。次は提出条件です」

高瀬が画面越しに言った。

「ネストリンク社からは、録画に他社情報が含まれる可能性があるため、全体提出は難しいかもしれないと」

黒崎が即座に反応した。

「またそれか」

山崎は手を上げた。

「高瀬さん、全体提出が難しい場合、範囲指定での確認を提案してください。二時〇〇分から二時二〇分まで、認証画面、管理者権限操作、MFA承認、チャット欄、参加者一覧が映る部分。第三者情報があるならマスキング条件を協議する。重要なのは、必要な事実にアクセスすることです」

高瀬は頷いた。

「分かりました」

秋山が山崎に小声で言った。

「先生、相手が出せないと言った時の切り返しが早いですね」

山崎は淡々と答えた。

「出せない理由を分解すれば、出せる部分が見えます」

「なるほど」

「これは契約でもログでも同じです。“ありません”で終わらせない。“ない”のか、“出せない”のか、“探していない”のか、“契約上迷っている”のかを分ける」

三枝は、その言葉を聞いて、未確認事項の列に新しい分類を追加した。

相手先保有・提出条件協議中。

未確認の理由が、また一つ名前を持った。

正午。

第三会議室に、簡単な昼食が運び込まれた。

おにぎり、味噌汁、ペットボトルのお茶。誰も食欲はなかったが、望月が全員に言った。

「食べてください。判断する人間が倒れるわけにはいきません」

山崎も、おにぎりを一つ手に取った。

久我は味噌汁を飲みながら、端末解析の画面を見ていた。

「久我さん、食事中くらい画面を閉じては」

山崎が言うと、久我は少しだけ笑った。

「画面を閉じると、気になるんですよ」

「それは疲労の兆候です」

「行政書士に健康指導までされるとは」

「記録しますか」

「やめてください」

三枝は、その短い冗談に少しだけ笑った。

会議室に、ほんの一瞬だけ人間らしい空気が戻った。

だが、それは長く続かなかった。

食事の途中で、営業部長が飛び込んできた。

「社長、取引先の一社が、今日中に正式な説明書を出せと言っています。サイバー攻撃なのか、個人情報が漏れたのか、委託先が原因なのか、書面で回答しろと」

秋山が額に手を当てた。

「まだ確定していないのに」

営業部長は言った。

「向こうも監査があります。医療機関向けの納品が絡んでいるので、口頭では済まないと」

望月は山崎を見た。

「先生、今日中に出せますか」

山崎は、即答しなかった。

「出すことはできます。ただし、“正式な結論”ではなく、“現時点報告書”です」

「現時点報告書」

「はい。第一報として、発生日時、影響している業務、現時点での原因調査状況、実施済み対応、未確認事項、次回報告予定を書きます。サイバー攻撃の可能性は内部で調査中とし、個人情報漏えいについては確認中。委託先原因とは断定しません」

営業部長が不満そうに言った。

「それで納得しますかね」

山崎は静かに答えた。

「納得を保証する文書は作れません。ですが、後で矛盾しない文書は作れます」

望月が言った。

「それで作ってください」

山崎は頷いた。

「山崎行政書士事務所でドラフトを作ります。秋山さん、社内確認。久我さん、技術表現の確認。望月社長、最終判断をお願いします」

作業が始まった。

三枝は、その様子を見ていた。

広告のような派手さはない。だが、山崎行政書士事務所の価値は、こういう瞬間にこそあった。

会社が黙りそうになる時、言えることを見つける。会社が言い過ぎそうになる時、言えないことを止める。技術の言葉を、経営と顧客が読める言葉に変える。

それは、サイバーセキュリティの現場に必要な、もう一つの防御だった。

午後一時十七分。

取引先向け現時点報告書のドラフトが完成した。

表紙には、こう書かれていた。

一部システム障害に関する現時点報告書駿河メディカルロジスティクス株式会社作成日時:五月七日 十三時十七分

本文は、五つの項目に分かれていた。

一 発生確認日時二 影響業務三 現時点で確認している事実四 実施済み対応および継続中の対応五 未確認事項および次回報告予定

山崎は、三枝に技術表現の確認を求めた。

「“不正アクセスの可能性を含め調査中”という表現で、現時点の技術状況と矛盾しませんか」

三枝は久我を見た。

久我が頷いた。

「矛盾しません。攻撃者からメールも来ていますが、原因経路は未確定ですから」

山崎は次に、個人情報の表現を確認した。

「“顧客情報を含む可能性のある一部領域へのアクセスを確認しており、対象データおよび外部取得の有無を調査中”」

秋山が言った。

「漏えいしたとも、していないとも言っていない」

「はい。現時点では、それが正確です」

営業部長は渋い顔をした。

「相手はもっとはっきりした答えを求めています」

望月が言った。

「はっきりしていないことを、はっきり言う方が危険です」

営業部長は黙った。

望月の声は、昨日よりも少し強くなっていた。

山崎は、最後にこう付け加えた。

「次回報告時刻を入れましょう。“本日十七時を目途に更新情報を報告”とします。説明は一度で終わりません。更新する前提を示すことが重要です」

望月は頷いた。

「それで出します」

三枝は、時系列表に入力した。

13:24 主要取引先向け現時点報告書を作成。発生確認日時、影響業務、確認済み事実、実施済み対応、未確認事項、次回報告予定を記載。

その一行は、昨日までの会社にはなかったものだった。

混乱を、文書に変える。文書を、次の判断に変える。

午後二時三分。

久我が、保全対象端末の初期解析結果を共有した。

倉庫端末そのものには、典型的な暗号化マルウェアの痕跡は見つかっていない。端末管理機能から送られた設定変更により、一部の管理エージェントと接続設定が破損していた可能性が高い。つまり、外部から端末に直接侵入して破壊したというより、会社の管理基盤を通じて端末が機能不全に陥った可能性がある。

大石が言った。

「つまり、うちの管理機能で、うちの端末が止まった?」

久我は頷いた。

「現時点では、そう見えます」

大石は、怒るでもなく、呆れたように笑った。

「便利って怖いですね」

山崎が言った。

「管理者権限は、事業停止権限でもあります」

その言葉に、全員が黙った。

山崎は続けた。

「御社では、管理者権限を“システムを直すための権限”として扱っていたと思います。しかし今回、それは“倉庫を止める権限”でもあると分かりました。今後の責任分界表では、権限を技術用語だけでなく、業務影響で表現する必要があります」

三枝は、その言葉に強く頷いた。

管理者。共同作成者。閲覧者。所有者。

クラウドの画面には、そういう言葉が並ぶ。

だが、経営者に必要なのは別の表現だ。

倉庫を止められる権限。顧客情報を読める権限。バックアップを消せる権限。ログを出せる権限。条件付きアクセスを変えられる権限。

三枝は、新しいシートを作った。

権限_業務影響マッピング

一列目に、クラウド上のロール名。二列目に、できる操作。三列目に、業務影響。四列目に、保有者。五列目に、契約上の根拠。六列目に、棚卸し状況。七列目に、例外期限。

山崎が画面を見て言った。

「それです。技術者の権限一覧を、経営者が判断できる表に変える。これが重要です」

三枝は、初めて少しだけ誇らしい気持ちになった。

事故対応の中で、ただ失敗を数えているだけではない。次の防御を作っている。

午後二時五十七分。

日向システムサービスから、小田切拓に関する正式な一次回答が届いた。

高瀬が画面を共有した。

小田切拓氏は、日向システムサービスを半年前に退職。退職後、株式会社ネストリンクに入社。現在、ネストリンクにおいてクラウド運用支援業務に従事している。今回の夜間監視業務への直接参加有無は、ネストリンク社確認中。

会議室の空気が張り詰めた。

黒崎が言った。

「やっぱりネストリンクにいる」

久我は冷静だった。

「直接参加有無は未確認です」

山崎もすぐに言った。

「記録はその範囲に留めます」

望月が聞いた。

「小田切さんに連絡を取るべきでしょうか」

山崎は慎重に答えた。

「直接接触は、今は避けた方がよいと思います。ネストリンク社、日向システムサービス社を通じて、正式に確認するべきです。必要に応じて警察や弁護士とも相談します」

黒崎が言った。

「でも、小田切さんなら復旧手順を知っています。聞けば早いかもしれない」

三枝も、同じことを考えていた。

小田切は、復元検証の未了事項を指摘していた。クラウド構成も知っている。権限設計も知っている。今回の鍵を握っている可能性がある。

山崎は首を横に振った。

「早さだけで動くと、証跡を壊す可能性があります。小田切氏が協力者か、関係者か、無関係か、現時点では分かりません。連絡内容が相手に伝われば、証拠保全にも影響します」

久我が補足した。

「技術的にも、相手が使っていた端末やアカウントを保全する前に本人へ連絡すると、ログが消えることがあります」

黒崎は悔しそうに黙った。

山崎は言った。

「ここは、連絡したい気持ちを記録し、連絡しない判断も記録してください」

三枝は入力した。

14:59 小田切拓氏が日向システムサービス退職後、ネストリンクに入社している旨の一次回答を受領。今回業務への直接参加有無は確認中。証跡保全への影響を考慮し、現時点での直接連絡は行わない判断。判断者:望月社長。助言:久我、山崎。

書きながら、三枝は思った。

何かをする判断だけでなく、しない判断も記録する。

事故対応とは、操作の連続ではない。判断の連続なのだ。

午後三時三十四分。

山崎は、ホワイトボードの前に立った。

「ここから、責任分界の準備に入ります」

その言葉に、会議室の空気が少し変わった。

責任。

その単語には、誰もが敏感になっていた。

山崎はすぐに続けた。

「繰り返しますが、これは責任追及ではありません。まず、事実の分界です」

ホワイトボードに、大きな表が書かれた。

領域自社管理委託先管理再委託先関与契約上の記載実装上の状態事故時に必要な情報現時点の不足

最初の領域は、保守用アカウント。

自社管理。委託先管理。再委託先関与。契約上の記載。実装上の状態。事故時に必要な情報。現時点の不足。

三枝、黒崎、秋山、高瀬が、項目を埋めていく。

だが、すぐに分かった。

埋まらない。

MFA端末の管理者。保守用アカウントの利用許可者。条件付きアクセス例外の承認者。例外期限。再委託先が画面共有で見られる範囲。作業後のセッション失効手順。ログ提出期限。

空白が多すぎた。

次の領域は、退職者アカウント。

人事手続き。総務部依頼。情シスチケット。旧システム連携。停止完了確認。例外承認。棚卸し。

また、空白。

次は、バックアップ。

取得監視。復元テスト。復旧手順書。RTO。RPO。業務優先順位。費用調整履歴。経営報告。

ここにも、空白。

山崎は、ホワイトボードの空白を見て言った。

「これが、今回の本体です」

望月が静かに聞いた。

「攻撃者ではなく?」

「攻撃者は、もちろんいます。ですが、会社として直視すべき本体は、この空白です」

山崎は、赤いペンで空白部分を囲んだ。

「責任分界線が引かれていなかったのではありません。引いたつもりの線が、契約書、クラウド設定、現場運用、委託先作業でずれていたのです」

三枝は、胸が締めつけられるようだった。

線はあった。だが、重なっていなかった。

契約上は委託先。クラウド上は自社。運用上は再委託先。判断上は情シス。説明上は社長。

線がずれている場所に、攻撃者が入り込む。

山崎は言った。

「明日は、この線を引き直します。責任を押し付けるためではなく、次に同じ夜が来た時、誰が何をするかを迷わないために」

望月が、ゆっくり頷いた。

「お願いします」

午後四時十二分。

主要取引先向けの現時点報告書が送信された。

同時に、警察相談用の資料も第一版が完成した。個人情報漏えい可能性の整理表も、未完成ながら形になった。限定復旧環境では、病院便の追加出荷が進んでいる。

会社はまだ危機の中にある。

だが、昨日とは違った。

昨日は、何が分からないのかも分からなかった。今は、分からないことに名前が付いている。

権限残存。退職者アカウント。再委託先関与。復元テスト未了。共有フォルダ侵害可能性。責任分界未整理。

恐怖は消えていない。だが、形を持った恐怖は、対処できる。

三枝は、時系列表を保存した。

その時、メール通知が鳴った。

三通目。

差出人は不明。件名は、短かった。

Boundary

境界。

三枝は、久我を呼んだ。

「Blue Heronです」

会議室の全員が画面を見た。

本文には、こう書かれていた。

Ask your lawyer who owned the account.Ask your vendor who owned the screen.Ask your admin who owned the exception.No one owns the breach.Everyone owns the silence.

山崎は、画面を見つめた。

三枝は、ゆっくりと訳した。

「誰がそのアカウントを所有していたのか、弁護士に聞け。誰がその画面を所有していたのか、委託先に聞け。誰がその例外を所有していたのか、管理者に聞け。侵害は誰のものでもない。沈黙は全員のものだ」

会議室に、重い沈黙が落ちた。

攻撃者は、やはり知っている。

こちらが責任分界を整理しようとしていることを。会社が沈黙を恐れていることを。委託先との線が曖昧であることを。

久我が言った。

「このメール、タイミングが良すぎます」

黒崎が反射的に言った。

「会議が見られている?」

久我はすぐに首を振った。

「断定しないでください。ただ、情報が漏れているか、こちらの動きを予測しているか、どちらかです」

山崎は、静かに言った。

「このメールも保全してください。そして、今の判断は変えません」

望月が山崎を見た。

「変えない?」

「はい。攻撃者は、責任分界を恐れています。だから先に揺さぶってきた。ならば、やるべきことは同じです」

山崎は、ホワイトボードの空白を見た。

「境界を引きます」

三枝は、その言葉を聞いて、時系列表に新しい行を追加した。

16:17 不明差出人より三通目の脅迫的メール受信。件名“Boundary”。アカウント、画面共有、例外設定、沈黙に言及。証跡保全。対応方針は変更せず、責任分界整理を継続。

入力してから、三枝はホワイトボードを見た。

そこには、まだ埋まっていない空白が並んでいる。

だが、もう空白のままにはしない。

山崎行政書士事務所が持ち込んだのは、魔法のような防御策ではなかった。攻撃者を一瞬で追い払うツールでもなかった。

それは、問いだった。

誰が持っていたのか。誰が決めたのか。誰が見ていたのか。誰が止めるはずだったのか。誰が説明できるのか。

午後四時二十二分。

山崎は、赤いペンを置き、静かに言った。

「次にやることは決まりました」

誰も聞き返さなかった。

山崎は、ホワイトボードの一番上に大きく書いた。

責任分界線

その文字は、会議室の白い壁に、深く刻まれたように見えた。

 
 
 

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