第4章 島々の誕生、海流の癖 雨と霧の国書(くにぶみ)—日本建国、風土の記憶
- 山崎行政書士事務所
- 2月11日
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第一部「白い世界の輪郭」
第4章 島々の誕生、海流の癖
海は、同じ顔をしていない。ここでは速く、ここでは遅く、ここでは渦を巻き、ここでは眠る。島の形は、波が書いた癖の跡だ。
「……次、島を並べるのか」
ナガタは、紙束の端を指先で整えながら言った。整える、という行為は不思議だ。紙の角を揃えるだけなのに、心の角まで少しだけ揃う。けれど、揃いすぎると窒息する。国の物語は、揃えれば揃えるほど、息が薄くなる。
「並べる」私は言った。「ただし、名簿にはしない」「それ、前にも言った」「言い続けないと、すぐ名簿になる」
墨を摺る音が、雨の音の代わりに部屋を満たす。雨は弱くなっていた。雨が弱くなると、外の遠い音が入ってくる。鳥の声。水の落ちる音。屋根から垂れた雫が、庭石に当たる音。音が増えると、世界が広がる。
「島が生まれるって、どう書く」ナガタが言った。「ぽん、と出てくるのか。ぷか、と浮かぶのか」
「どちらも違う」私は硯の水面を見た。水面は一見静かだが、静けさの中には細い動きがある。見えない流れ。見えない癖。
「島は、“固まる”んじゃない。——“残る”んだ」
「残る?」
「海が削って、削って、削りきれなくて、諦めたところが残る。残ったものが島になる」「海が諦めるって、想像できないな」「海は諦めない。ただ、海にも癖がある。押す場所と、引く場所と、回る場所がある。癖のせいで、削りきれないところが出る」
ナガタは小さく笑った。
「癖で国ができる。……上が聞いたら怒るぞ」「上も癖で生きている」「それはそう」
私は筆を取った。オノゴロの章で濡れた言葉を、ここで少し乾かさなければならない。濡れすぎたままでは、読者の手が冷える。冷えすぎると、物語から手を離す。
けれど乾かしすぎると、匂いが消える。
匂いだけは、消したくなかった。
二柱は、儀をやり直した。
やり直しは、ただの繰り返しではない。前の失敗の湿り気を、手のひらに残したまま、今度は少しだけ丁寧に触れることだ。丁寧さは、悲しみの副産物だ。悲しみがあると、人は雑にできなくなる。
柱の周りを回る足音が、前より静かになる。静かな足音は、島の耳に届きやすい。
イザナギの声は硬く、イザナミの声は柔らかい。その硬さと柔らかさが、今度は喧嘩せずに混ざる。混ざると、世界は受け取れる形になる。受け取れる形になると、重さが生まれる。
最初に生まれたのは——淡路。
海の真ん中に、ふっと現れるのではない。現れる前に、潮の匂いが濃くなる。潮の匂いが濃くなると、空気が少しだけ重くなる。重くなった空気が、波の表情を変える。波の表情が変わったところから、土の色が滲む。
滲む土の色は、まだ「島」と呼べるほどの輪郭を持たない。輪郭は、海が作る。海が舌でなめるみたいに岸を整え、泡で縁を縫い、潮で角を削る。そうしてやっと、島は島の顔をする。
淡路は、いわば“結び目”のようだった。海が海を結ぶところ。潮が右へ行こうとして、左へも行きたくなるところ。行きたがりがぶつかって、そこに小さな落ち着きが生まれる。落ち着きは、形になる。
淡路が生まれると、海は少し忙しくなる。
忙しい海は、次に“広がり”を欲しがる。
次に生まれたのは、四つの面を持つ大きな島。伊予、讃岐、阿波、土佐——名は後から付く。最初はただ、風の当たり方が違う面が四つあった。北は穏やかで、南は荒い。東は渦を巻き、西は夕日が長い。島は同じ体を持ちながら、顔を四つ持つ。
海は、島に個性を与えるのが好きだ。個性があると、旅が生まれる。旅が生まれると、物語が増える。
次に生まれるのは、ぽつりと離れた島。沖の方、雲の下に、ふっと残る影。近づくと、潮が冷たい。遠いところの潮は、いつも少し冷たい。冷たい潮は、人を真面目にする。ふざけた足取りで渡ると、すぐに膝まで持っていかれる。
沖の島は、孤独の匂いを持つ。けれど孤独は寂しさではない。孤独は、守りだ。離れているから残るものがある。離れているから、風がそのまま来る。風がそのまま来るから、言葉が短くなる。短い言葉は、嘘をつきにくい。
そして、南に大きな塊が生まれる。暖かい潮が触れる場所。雨が多く、草が早いところ。海がざわめき、山が煙を吐く気配を持つところ。まだ火山という名もないが、地の底はすでに熱い。熱いところは、匂いが濃い。濃い匂いは、生き物を集める。
島が並ぶと、海は海として落ち着き始める。
だが落ち着くと、今度は海が悪戯をする。
細長い島を二つ、喉元に引っかけるみたいに置く。ひとつは波が荒く、ひとつは風が速い。ここを通るとき、船はきまって揺れる。揺れるということは、気が抜けないということだ。気が抜けない場所は、境界になる。境界は、国を守る。
さらに、海の上に小さな島がふたつ、ぽん、と浮かぶ。小さすぎて、見過ごしそうなのに、潮の味がそこで変わる。潮の味が変わる場所は、漁の目印になる。漁の目印は、暮らしの印だ。暮らしの印が増えると、国は国の顔を持ち始める。
最後に生まれるのは、内側の大きな地。海が回り込み、山が抱き、盆地が朝霧を溜めるところ。水がゆっくり流れ、土が黙って積もるところ。派手ではないが、手をかけた分だけ応えるところ。応える土は、人を長居させる。長居が始まると、政治が始まる。
島々は、順番に生まれたのではない。
順番に生まれたように“見える”だけだ。
本当は、潮が回り、風が押し、雨が削り、地が持ち上がり、沈み、また持ち上がる。その果てに、残ったものが「ここにいる」と言い始めた。言い始めたものに、人が名をつけた。名をつけると、いよいよ戻れない。
名は鎖ではない。杭だ。杭は、ここがここだと決める。
決めると、守れる。
守れると、愛せる。
「……で、どこまで書く」
ナガタが、現実の声で私を引き戻した。彼の指には墨がついている。黒い指。黒い指は、何かを作った手の指だ。
私は紙面を見下ろした。島々の名を全部並べると、たしかに名簿になる。だが、名を一つも書かなければ、上は不安になる。上は、標識がないと道を歩けない人たちだ。標識のない道を歩けるのは、旅人だけだ。
「……八つ」私は言った。「大きい島を“八”として示す。八は数じゃない。多いという意味だ。上も納得する」「“八”は便利だな」「この国は便利でできている」
ナガタが紙束をめくり、別の異伝を出した。そこには順番が違う。名が違う。書き方が違う。
「ほら。こっちは最初に淡路じゃない」「知っている」「こっちは“伊予”が先だ」「知っている」「知ってるなら、どうする」「知っているということを、文章にする」
ナガタは眉を寄せた。
「文章に?」「“一書曰く”だ」「またそれか」「またそれだ。異伝は邪魔じゃない。海流の癖だ。潮の流れが違えば、岸の形が違う。伝わり方が違えば、順番が違う。違うのは間違いじゃない」
ナガタは、しばらく黙っていた。黙って、窓の外を見た。雨はやみかけ、雲の切れ目が薄く明るい。明るい空は、海の色を変える。海の色が変わると、島の色も変わる。色が変わると、同じ島が別の島に見える。見えるものが変われば、語りも変わる。
「……海ってさ」ナガタが言った。「全部同じ水なのに、場所で味が違うよな」「違う」「不思議だよな」「不思議じゃない。風が違う。川が違う。底が違う。……癖が違う」
私は筆を走らせ、島々の名を置いた。置き方には、できるだけ呼吸を入れる。名と名の間に、潮の間を入れる。
——次いで、淡路。——次いで、四面の島。——次いで、沖の島。——次いで、南の大きな島。——次いで、境の二島。——次いで、近き小島。——次いで、遠き一島。——次いで、内なる大地。
名を少しぼかして書いたのは、逃げではない。匂いを残すためだ。淡路と書けば潮の結び目が匂う。四面と書けば風の違いが肌に当たる。沖と書けば孤独が冷たく、南と書けば雨が濃くなる。境と書けば波が荒れ、小島と書けば漁火が灯る。遠き島は時間の匂いがし、内なる地は霧の匂いがする。
ナガタが、私の紙を覗き込んだ。
「ずるいな」「何が」「名を全部書いてないのに、読んだら島が見える」「見えるならいい」「上は怒らないか」「怒ったら、名を足す」「最初からそうすればいいのに」「最初から足すと、匂いが消える」
ナガタは肩をすくめた。その仕草が、潮が引くときの動きに似ていた。引いて、戻る。引いて、戻る。国の仕事はだいたいそれだ。
私は紙面の端に、小さく書き足した。
——一書曰く、順序異なることあり。
その一行で、海流の癖を許す場所ができる。許す場所があると、文章は呼吸を取り戻す。
外で、雲がほどけ、淡い光が差した。雨上がりの匂いが強くなる。土の匂い、木の匂い、遠い水の匂い。その匂いが混ざると、私はふと思う。
——島は、生まれたのではない。——島は、愛される準備が整っただけだ。
生まれた、と言うと祝う気持ちになる。祝う気持ちになると、人は手を合わせる。手を合わせると、次の仕事が始まる。
次の仕事は、神々の役所づくりではない。
次の仕事は、死と向き合うことだ。
海が増え、島が並ぶと、命は増える。命が増えると、必ず、終わりも増える。終わりが増えると、世界は深くなる。
私は、硯の水を見つめた。そこには薄い光が揺れている。揺れは、最初からずっと同じだ。潮のない波音から始まった揺れが、いまは島々の間を流れる潮になる。
ナガタが、ぽつりと言った。
「次、黄泉か」「……そうだ」私は答えた。「黄泉の入口は、たぶん坂だ。坂は、登りより下りのほうが怖い」
ナガタは嫌そうに笑った。嫌そうに笑えるのは、まだ生きている証拠だ。
私は墨を摺り直した。黒をもう少し濃くする。次の章は、少し暗い。暗い章を書くには、黒の中に光を残す必要がある。
次の題が、心の中で静かに立ち上がる。
――黄泉の入口に、湿り気がある。





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