第4話 責任分界線は安倍川を越えて
- 山崎行政書士事務所
- 5月12日
- 読了時間: 17分
青葉通りの契約書は今日も笑う

静岡市葵区、青葉通りから少し入った山崎行政書士事務所では、その日の午前十時、応接室の空気がすでに白かった。
白い、といっても、爽やかな朝霧のような白さではない。
安倍川もちのきな粉を吸い込む直前の、あの一瞬の緊張感に似た白さである。
「つまり、御社の設定ミスが原因では?」
「いえ、弊社は仕様どおり納品しています。保守範囲外です」
「保守範囲外って、障害対応契約は結んでいるでしょう!」
「障害といっても、アプリ側かインフラ側か、まず切り分けが必要でして」
「切り分けって、もう二日止まってるんですよ!」
応接室のテーブルを挟んで、三者が言い合っていた。
発注企業である駿河食品物流の情報システム部長、戸塚。 システムを構築したSIer、東海デジタルソリューションの営業課長、芹沢。 運用保守を担当する会社、清水テックサービスの保守責任者、川辺。
この三人が山崎行政書士事務所に集まった理由は、ひとつだった。
物流管理システムに障害が発生し、出荷処理が半日止まった。 復旧はした。 ただし、その後に始まった「誰が責任を取るのか」という話し合いが、システムより長く止まっていた。
所長の山崎香澄は、湯呑みを三つ並べながら、穏やかな笑顔を保っていた。
ただ、その笑顔は少しだけ引きつっている。
陽翔は応接室の外で小声で言った。
「所長、空気が白いです」
「ええ」
「安倍川もちの粉より白いです」
「ええ」
「吸い込んだらむせます」
「だから、あなたは今入らないで」
「はい」
その横で、悠真はいつものように無表情で契約書ファイルを抱えていた。無表情ではあるが、ファイルを持つ指に少し力が入っている。
「今日の主担当は、かなえさんでしたね」
さくらが小声で確認する。
「はい。契約書の読み解きはかなえさん、運用フローの整理はりなさん、議事のまとめはみおさんです」
香澄がうなずく。
山崎行政書士事務所の新しいチームだった。
かなえは、契約書を読むときだけ眼鏡の位置が一ミリ下がる。条文の曖昧さを見つけると、口元だけが少し笑う。事務所では「条文の隙間に住む人」と呼ばれていた。
りなは、業務フローを図にするのが得意だった。どんなに混乱した話でも、丸と矢印と付箋で見える形にする。本人いわく「人生もフローチャートにできたら楽なんですけどね」とのことだが、今のところ本人の朝の支度は毎日分岐で迷っている。
みおは、三人の中で一番若い。ふんわりした雰囲気で、最初は頼りなさそうに見えるが、最後に一番大事なことをぽんと置いていく。陽翔は密かに「結論の妖精」と呼んでいた。
「では、入ります」
かなえが契約書ファイルを胸に抱え、応接室へ向かった。
りなはホワイトボード用のペンを七本持った。
みおは安倍川もちの箱を持っていた。
「みおさん、それは?」
悠真が聞く。
「空気が白いと聞いたので、本物の白さで中和できるかと思って」
「できるかな、それ」
陽翔が目を輝かせる。
「むしろ粉じん爆発的な展開にならない?」
「なりません」
香澄が即座に言った。
応接室に入ると、三者の声が一瞬止まった。
かなえは軽く一礼した。
「本日はお越しいただきありがとうございます。山崎行政書士事務所のかなえです。こちらは、りなとみおです」
「よろしくお願いいたします」
りなとみおも頭を下げる。
戸塚は腕を組んだまま、苦い顔をしていた。
「こちらこそ。ただ、正直申し上げて、もう誰がどう責任を取るのか、はっきりさせたいんです」
芹沢はすぐに反論した。
「ですから、弊社の納品物に瑕疵があったという話ではなく」
川辺も続ける。
「弊社の保守契約上も、今回の原因調査は一次対応の範囲を超えております」
「ほら、また始まった」
陽翔が応接室の外でつぶやく。
悠真が静かに言った。
「実況しない」
香澄は三人の前にお茶を置いた。
「まず、今日の目的を確認しましょう。誰かを責めるためではなく、今後同じような混乱を防ぐために、契約と運用の線引きを整理することです」
戸塚が眉を寄せる。
「線引き、ですか」
かなえがうなずいた。
「はい。責任分界です」
その言葉が出た瞬間、芹沢と川辺の肩が少し動いた。
責任分界。
便利な言葉である。 けれど、便利な言葉ほど、人は自分に都合よく使いたくなる。
「では、契約書から確認します」
かなえは眼鏡を一ミリ下げた。
陽翔が外で小声で言う。
「出ました。かなえさんの契約書モード」
「静かに」
悠真が言った。
かなえはテーブルに三種類の契約書を並べた。
一つ目は、駿河食品物流と東海デジタルソリューションのシステム構築契約。 二つ目は、駿河食品物流と清水テックサービスの保守契約。 三つ目は、東海デジタルソリューションと清水テックサービスの引継ぎ確認書。
「今回の障害は、夜間バッチ処理の停止がきっかけでしたね」
りなが確認する。
戸塚がうなずいた。
「はい。出荷データが翌朝の配送システムに渡らず、現場が大混乱しました」
「原因としては?」
りなが川辺を見る。
川辺は資料をめくった。
「一次調査では、クラウド上のストレージ容量が上限に近づき、バッチ処理が途中でエラーになったと見ています。ただし、容量監視の閾値設定が誰の担当だったのかが曖昧です」
芹沢がすぐに言った。
「構築時には標準設定で納品しています。運用開始後の容量増加は、発注企業様の利用状況によるものです」
戸塚が顔を赤くする。
「標準設定で足りると言ったのは御社でしょう!」
「将来のデータ増加までは、御社から明確な見込みをいただいておりません」
「いや、うちは物流会社ですよ。データが増えるのは当たり前でしょう!」
「その当たり前を要件として」
「待ってください」
かなえの声は大きくなかった。
けれど、不思議と応接室に通った。
「今の会話には、三つの話が混ざっています」
三人が黙った。
かなえは指を一本立てた。
「一つ目。構築時に、容量設計と監視設定について、どこまで合意していたか」
次に二本目。
「二つ目。運用開始後に、容量増加を誰が確認し、誰に連絡することになっていたか」
三本目。
「三つ目。障害発生時に、一次対応、原因調査、復旧、再発防止を誰が担当することになっていたか」
りながすかさずホワイトボードに三つの箱を書いた。
構築時。 運用中。 障害時。
その下に、丸と矢印を置いていく。
陽翔が応接室の外から感心したように見ていた。
「りなさんのホワイトボード、交通整理みたいですね」
さくらが言う。
「青葉通りにも置きたいですね」
「陽翔くん用に?」
「はい」
「僕、そんなに渋滞してます?」
悠真が答える。
「している」
応接室では、かなえが契約書の該当箇所を読み上げていた。
「構築契約では、納品物として“システム一式、初期設定、管理者向け操作説明”とあります。ただし、容量監視の閾値、通知先、運用開始後の見直し頻度については明記がありません」
芹沢が少し顔を引き締める。
「そこは、運用保守側の範囲と考えておりました」
「保守契約を見ます」
かなえは二冊目を開いた。
「保守契約では、“障害受付、一次切り分け、定型復旧作業、月次報告”とあります。ただし、クラウドリソースの使用量監視、閾値変更、拡張提案は、明確には書かれていません」
川辺が眉間にしわを寄せた。
「弊社としては、月次報告で使用量を見る予定でした。ただ、アラート設定そのものは引継ぎ資料に記載がなく……」
かなえは三冊目を開いた。
「引継ぎ確認書には、“管理画面のログイン情報、運用手順書、障害連絡先を引き継ぐ”とあります。ここにも、容量監視の具体的な設定値や通知先はありません」
戸塚が両手で顔を覆った。
「つまり、誰も書いていない?」
みおが小さく言った。
「書いていないというより、みんな少しずつ“相手が見ているはず”と思っていたのかもしれません」
応接室の空気が、また白くなりかけた。
陽翔が小声で言う。
「今、安倍川もち一歩手前です」
「静かに」
悠真が再び言った。
りなはホワイトボードに、三者の名前を書いた。
駿河食品物流。 東海デジタルソリューション。 清水テックサービス。
その下に、作業項目を並べる。
容量設計。 監視設定。 通知先管理。 月次確認。 一次切り分け。 復旧作業。 原因分析。 再発防止策。 費用負担の判断。 社内連絡。 取引先への説明。
「まず、障害時の流れを図にします」
りなは青いペンで矢印を描いた。
「現場で異常発見。駿河食品物流さんが保守窓口に連絡。清水テックサービスさんが一次切り分け。アプリケーション側の疑いがあれば東海デジタルソリューションさんにエスカレーション。インフラ側であればクラウド管理画面を確認。復旧作業の実施。原因記録。再発防止会議」
川辺がうなずく。
「実際も、だいたいそう動きました」
「だいたい、ですね」
かなえが言った。
川辺は苦笑した。
「はい。だいたいです」
「契約や運用で大事なのは、“だいたい”を減らすことです」
陽翔が外で息をのむ。
「かなえさん、名言です」
香澄が微笑む。
「後で本人に伝えてあげて」
「湯呑みに」
「印字はしないで」
りなは赤いペンに持ち替えた。
「今回、止まったポイントはここです」
監視設定。 通知先管理。 原因分析。 再発防止策。 費用負担の判断。
「この五つについて、誰が主担当で、誰が協力者で、誰が最終判断者かを決めていなかったため、障害対応後に話が止まっています」
戸塚はホワイトボードを見つめた。
「たしかに、現場では復旧を急いでいたので、とにかく電話をかけまくりました」
芹沢が少し気まずそうに言った。
「弊社にも、夜間に直接電話が来ました。保守窓口を通していただく想定でしたが、緊急時なので対応しました」
川辺も続ける。
「弊社からも、東海デジタルさんに仕様確認を依頼しました。ただ、契約上どこまで依頼してよいか迷いました」
みおが安倍川もちの箱をそっと開けた。
全員の視線が集まる。
「あの、少し甘いものを食べながらのほうが、線引きの話も角が立たないかと」
戸塚が一瞬きょとんとし、それから笑った。
「安倍川もちですか」
「はい。責任分界線が安倍川を越えそうだったので」
陽翔が外で小さく拍手した。
「みおさん、強い」
香澄も肩を震わせて笑いをこらえていた。
応接室には、少しだけやわらかな空気が戻った。
ただし、きな粉の扱いには全員慎重だった。 責任問題の会議で粉をこぼすと、妙に象徴的になってしまうからである。
戸塚は安倍川もちを一口食べ、ふっと息を吐いた。
「正直、うちとしては損害が出ています。現場の残業も増えましたし、取引先への説明もありました。だから、どうしても誰かに責任を取ってもらわないと、という気持ちがありました」
芹沢は湯呑みを見つめながら言った。
「弊社も、納品後にいつまでも無償対応を求められると困ります。ただ、今回のように運用で必要な項目が抜けていたなら、構築時の説明が十分だったかは振り返る必要があると思います」
川辺も静かに続けた。
「保守会社としても、月次報告で容量の兆候を見つける仕組みを提案できたかもしれません。契約にないから終わり、では信頼を失います」
かなえは三人の言葉を聞き、うなずいた。
「ありがとうございます。今のように、責任分界は責任逃れのためではありません。どこからどこまでを誰が見るのかを決めて、抜け漏れをなくすためのものです」
りなはホワイトボードの中央に太い線を引いた。
「線を引くと、冷たく見えることがあります。でも、線がないと、困ったときに全員が同じ場所でぶつかります」
みおがぽつりと言った。
「つまり、誰も悪者にしない線引きですね」
応接室が静かになった。
陽翔は廊下で両手を握った。
「結論の妖精、降臨」
悠真も小さくうなずいた。
「今のは、いいまとめだ」
香澄は応接室の中で微笑んだ。
「そうですね。誰かを悪者にするためではなく、次に同じことが起きたとき、誰も迷子にならないための線です」
戸塚は腕をほどいた。
「迷子……。今回、まさにそうでした。現場も、情シスも、取引先も、誰に何を聞けばいいか分からなかった」
芹沢が頷いた。
「弊社も、緊急対応の窓口と契約上の窓口が分かれていて、社内で確認に時間がかかりました」
川辺は苦笑した。
「弊社は、一次切り分けの後、どこまで踏み込んでいいか迷いました。結果として、遠慮と焦りが同時に出ました」
「遠慮と焦り」
りながホワイトボードの端に書いた。
「障害対応で一番危ない組み合わせですね」
陽翔が外でつぶやく。
「恋愛相談でも危ない組み合わせです」
「仕事に戻って」
さくらが言った。
そこから、会議はようやく前に進み始めた。
かなえは契約書の修正案を整理した。
「構築契約には、初期設定の範囲を明記しましょう。容量設計、監視設定、通知設定について、納品時にどの値を設定し、どの資料で説明するかを残します」
芹沢がメモを取る。
「はい。納品時のチェックリストに追加します」
「保守契約には、監視対象と一次対応の範囲を具体化します。容量監視を保守範囲に含めるのか、含める場合は通知方法と確認頻度をどうするのか。含めない場合は、発注企業側で誰が見るのか」
川辺も頷いた。
「月次報告に使用量推移を入れる案を出します。閾値を超えた場合の通知も、オプションとして整理できます」
「発注企業側では、社内連絡と判断者を決める必要があります」
かなえは戸塚を見た。
「障害が起きたとき、現場から誰に連絡するか。社外への連絡を誰が判断するか。追加費用が発生しそうな場合、誰が承認するか」
戸塚は苦笑した。
「そこが全部、私に来ていました」
「部長が安倍川を一人で背負っていましたね」
みおが言った。
「安倍川を?」
戸塚が目を丸くする。
「あ、すみません。重そうだなと思って」
戸塚は一瞬ぽかんとし、それから声を出して笑った。
「たしかに、背負っていました。しかも、きな粉まみれで」
芹沢も川辺も笑った。
応接室の白い空気は、ようやくやわらかな白さになった。
りなは、運用フロー図を完成させていった。
障害発生。 現場担当が社内窓口へ連絡。 社内窓口が保守会社へ連絡。 保守会社が一次切り分け。 原因候補を分類。 アプリケーション領域ならSIerへエスカレーション。 インフラ・運用領域なら保守会社が対応。 発注企業は業務影響と社内外連絡を判断。 復旧後、三者で原因と再発防止策を確認。 費用負担は契約条項と原因に基づき協議。
「この流れに、連絡期限も入れましょう」
悠真が応接室の入口から静かに言った。
全員が振り向く。
「すみません。聞こえたので」
陽翔が後ろから顔を出す。
「僕も聞こえました」
「君は出なくていい」
悠真は続けた。
「障害受付から一次回答まで何分、重大障害の場合のエスカレーションは何分以内、復旧後報告は何営業日以内。時間の目安がないと、待っている側の不安が増えます」
戸塚が深くうなずいた。
「それは助かります。現場から『まだか』と聞かれて、私も『まだです』しか言えなかったので」
川辺も言った。
「弊社としても、一次回答の目安を決めておけば、社内体制を組みやすいです」
芹沢がメモを見直す。
「復旧後の原因分析に弊社が参加する条件も、明記したほうがよさそうですね」
かなえは微笑んだ。
「はい。責任分界を決めることは、協力しないという意味ではありません。むしろ、協力するための入口を決めることです」
みおがまた小さく言った。
「入口が決まっていれば、非常口を探して走り回らなくていいですね」
「みおさん、本当にまとめが上手いですね」
さくらが感心する。
陽翔がうなずく。
「結論の妖精ですから」
「その呼び方、本人に言わないほうがいいと思う」
香澄が言った。
午後三時を過ぎるころ、応接室のホワイトボードは、りなの図解でいっぱいになっていた。
青い線は通常時の流れ。 赤い線は障害時の流れ。 緑の線は報告と承認。 黄色の付箋は「契約書に追記する項目」。 ピンクの付箋は「今後の宿題」。
陽翔が眺めて言った。
「これはもう、安倍川を渡る橋ですね」
りなが振り向く。
「橋?」
「はい。責任分界線って、川の向こうとこっちを切り離す線かと思ってました。でも今日の図を見ると、ちゃんと橋も描いてある」
かなえがうなずいた。
「いい表現ですね。線だけだと分断になります。でも、連絡方法や協議の場を決めると、橋になる」
悠真が陽翔を見た。
「たまにはいいことを言う」
「たまには?」
「たまには」
「頻度を上げていきます」
「期待はしすぎない」
香澄は笑いながら、お茶を淹れ直した。
会議の終盤、三者は今後の合意事項を確認した。
まず、既存契約の責任範囲を整理する覚書を作る。 次に、障害対応フローを三者で共有する。 監視対象、通知先、一次回答時間、エスカレーション条件を明記する。 月次報告では、容量やエラー傾向など、予兆となる情報を確認する。 復旧後には、責任追及だけでなく、再発防止のための振り返り会議を行う。 費用負担は、原因、契約範囲、対応内容を確認したうえで協議する。
戸塚は、最初よりずいぶん穏やかな顔になっていた。
「最初は、とにかく責任をはっきりさせたかったんです。でも、今日話してみて、責任を押しつけることと、責任を明確にすることは違うんだと分かりました」
芹沢も頭を下げた。
「弊社も、納品したら終わりではなく、運用に引き継ぐための説明をもっと丁寧にする必要があります」
川辺はりなのフロー図をスマートフォンで撮影しようとして、かなえに止められた。
「正式版を後でお送りします」
「あ、すみません。つい」
「現場感があってよいですが、写真だと安倍川もちの箱まで写ります」
「それは監査上まずいですね」
「監査上というより、絵面上ですね」
全員が笑った。
みおは、最後の議事メモを読み上げた。
「本日の確認事項です。責任分界は、誰かを悪者にするための線ではなく、障害時に迷わず協力するための線引きです。三者は、契約書と運用フローの両方を整え、信頼関係を維持するための仕組みを作ります」
戸塚が静かに言った。
「その一文、社内にも共有したいです」
芹沢も言った。
「弊社の若手にも聞かせたいですね。責任分界という言葉を、逃げ道みたいに使わないように」
川辺が頷いた。
「保守の現場でも同じです。線を引いたうえで、必要なときは橋を渡る。そういう運用にしたいです」
香澄は三人を見て、穏やかに微笑んだ。
「今日の話し合いは、きっと今後の信頼を守る土台になります」
窓の外では、青葉通りの木々が夕方の光を受けて揺れていた。
三者が帰ったあと、応接室には、ホワイトボードの跡と、安倍川もちの箱と、少しだけこぼれたきな粉が残った。
陽翔がそれを見つけた。
「監査ログ発見」
さくらが布巾を持ってくる。
「誰がこぼしたんですか?」
沈黙。
かなえ、りな、みお、香澄、悠真、陽翔。
全員が互いを見る。
みおが小さく手を挙げた。
「たぶん、私です」
りながホワイトボードに素早く書いた。
事象:きな粉こぼれ 発見者:陽翔 原因:安倍川もち開封時の揺れ 一次対応:清掃 再発防止策:箱を水平に開ける 責任分界:全員で食べたので全員で片づける
陽翔が感動したように言った。
「完璧なインシデント報告です」
悠真がうなずく。
「ただし、契約書には不要です」
かなえが眼鏡を外して笑った。
「でも、今日のまとめとしては悪くないですね。全員で食べたので、全員で片づける」
香澄は布巾を受け取りながら言った。
「仕事も同じかもしれませんね。関わる人が増えるほど、線引きは必要。でも、最後は同じテーブルを囲んでいることを忘れない」
みおが嬉しそうに頷いた。
「線を引くのは、離れるためじゃなくて、安心して近づくためなんですね」
陽翔がすかさずメモを取った。
「湯呑み候補です」
「印字禁止」
悠真が即答した。
「まだ言ってません」
「言う前から分かる」
りなはホワイトボードを消しながら、ふと窓の外を見た。
「責任分界線は安倍川を越えて、ですね」
「どういう意味?」
さくらが聞く。
「線を引くだけなら、川のこっちと向こうで終わりです。でも、橋をかければ、向こう側ともちゃんと話せる。今日の三社も、最初は川を挟んで怒鳴り合っていたけど、最後は橋を作れた気がして」
かなえが微笑んだ。
「いいタイトルですね」
「タイトル?」
陽翔が目を輝かせた。
「会議録のタイトルにしましょう。『責任分界線は安倍川を越えて』」
悠真が首を振る。
「正式な会議録には向かない」
「じゃあ副題で」
「もっと向かない」
香澄は笑いながら、残った安倍川もちを一つ取った。
「でも、心の会議録には残しておきましょう」
夕方の青葉通りには、仕事を終えた人たちの足音が流れていた。
契約書は、ときどき冷たく見える。 責任という言葉は、ときどき人を固くする。 線引きは、ときどき誰かを遠ざけるように感じる。
けれど、本当は違う。
どこからどこまでを誰が担うのか。 困ったとき、誰に声をかけるのか。 誰が橋を渡り、誰が向こう岸で待っているのか。
それを決めておくことは、信頼を壊すことではない。 信頼を守るための、最初の一歩なのだ。
山崎行政書士事務所の応接室では、今日もまた、少し白かった空気が、最後には温かいお茶の湯気に変わっていった。
ただし翌朝、共有フォルダに陽翔が作ったファイル名を見て、悠真は静かに眉をひそめた。
「責任分界線_安倍川を越えて_きな粉ログ付き.xlsx」
かなえが眼鏡を一ミリ下げた。
「きな粉ログは不要です」
りなが笑いながら、正式版のファイル名を打ち直した。
「障害対応フロー_責任分界整理案.xlsx」
みおは少しだけ残念そうに言った。
「きな粉ログ、かわいかったのに」
陽翔が胸を張る。
「ほら、支持者がいます」
悠真は無言で削除キーを押した。
青葉通りの契約書は、今日も静かに、そして少しだけ粉っぽく笑っている。





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