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第40章 道が外へ伸びる――盆地の器に“出口”を作る旅


第四部「道の骨、東の光」

第40章 道が外へ伸びる――盆地の器に“出口”を作る旅

器は、溜めるためにある。けれど溜めるだけだと、すぐ濁る。水路が“戻す口”を持つように、国も“出ていく口”を持たなければ息が詰まる。——道は、盆地が呼吸するための喉だ。

「……また旅か」

ナガタが言った。机の上にある木札の列を見ながら、ちょっと嫌そうに、でもどこか安心した顔をしている。盆地の章が続くと、物語は溜まる。溜まるのはいい。けれど溜まりすぎると、匂いが重くなる。重い匂いは胃に来る。胃に来ると、読者は逃げたくなる。逃げ道がある物語は長持ちする。

「旅だ」私は頷く。硯の水を替える。今日の水は、ほんの少しだけ冷たい。外へ出る水だ。

ナガタが眉を寄せる。

「国の中、やっと回り始めたじゃん。水、戸、札、市、祭、暦……回り始めた途端に外へ出ると、また揉めるだろ」「揉める」私は即答した。「揉めるけど、揉めないように“出口”を作る。盆地は溜める土地だ。溜める土地ほど、出口が要る」

ナガタが口を尖らせる。

「出口って言い方、なんか……」「言うな」「トイレみたい」「言うな」「でも“国の出口”って、ちょっと面白い」「面白いから書く」

私は筆先を整える。

「盆地は器だ。器は呼吸ができない。だから道を伸ばして、風を通す。風が通れば、匂いが変わる。匂いが変われば、喧嘩も変わる」

ナガタがため息をつく。

「喧嘩、結局あるんだな」「ある」私は頷く。「でも喧嘩の形を変えるのが“治める”だ。刃の喧嘩を、値段の喧嘩に。値段の喧嘩を、笑いの喧嘩に」

「最後、汁だろ」「最後は汁だ」

最初の一行を置いた。

——伊波礼毘古命、橿原の内を治めて後、曰く、「器は口を要す。道を外へ通せ」と。

橿原(かしはら)の朝は、いつも匂いから始まる。

水路の湿り気。竈の煙。干された木札の木の匂い。そして、盆地の底に溜まった人の声の匂い。

声の匂いが濃くなると、よく分かることがある。

盆地の中は、回っているようで回っていない。

水は回った。札もできた。市も立った。祭もあった。暦も刻んだ。

それなのに、まだ誰かが言う。

「塩が足りぬ」「鉄が足りぬ」「布が破れた」「薬が尽きた」「山の木が、里まで下りてこない」

足りない。

足りないのは、稲だけじゃない。足りないのは“外の匂い”だ。

盆地は溜める。溜めるから、同じ匂いが濃くなる。濃くなると、喧嘩が煮詰まる。煮詰まる前に、風を通さないといけない。

伊波礼毘古(いわれびこ)は、三山の影を見て言った。

「出口を作る」

出口。

この言葉は軽いのに、仕事は重い。

出口を作るというのは、山を切ることだ。山を切るというのは、森に謝ることだ。森に謝るというのは、風土に許可をもらうことだ。

許可、という言葉が役所っぽい。でもこの国は、役所っぽいことを火で溶かしてきた国だ。溶かせるなら、やる。

伊波礼毘古は、出口を三つに決めた。

三つ。

三山が囲う盆地に、三つの口。器には、口が要る。口は三つくらいあると、喧嘩が分散する。一つしかない口は、奪い合いになる。奪い合いは、刃を呼ぶ。

西の口――海の匂いが来る口。東の口――山と薬の匂いが来る口。南の口――森と水の匂いが来る口。

久米(くめ)が騒ぐ。

「北は?」「北も口にしろ!」「北の口は寒いぞ!」「寒いなら汁だ!」「口の話から汁に戻るな!」

伊波礼毘古は、久米を見て少しだけ笑ってから言った。

「北は、風の口だ。勝手に開いている。余計なことをするな」

余計なことをするな、が国の最初の知恵だ。余計なことはだいたい痛い。

まず西の口を見に行くことになった。

盆地の西は、山が近い。山が近いというのは、海が遠いということだ。遠い海の匂いを呼ぶには、山の喉を通さねばならない。

行く者は、いつもの顔ぶれだ。

大久米(おおくめ)と、久米のうるさい一団。布留(ふる)――真面目な書き手。山口守(やまぐちもり)――名を借りものにした山の男。薄火(うすび)の女――炭を運べる火の人。そして、饒速日(にぎはやひ)――先客の影。

饒速日が来るのは意外だった。

だが伊波礼毘古は、あえて連れて行った。

先客の正しさを、盆地の中に閉じ込めておくと腐る。腐る前に、外の風に当てて、骨にする。

骨は、風に当てると固くなる。

山道は、まだ“道”の顔をしていなかった。

獣道の顔。水の筋の顔。落ち葉の下の空洞の顔。

道が未熟だと、足がしゃべる。足がしゃべると、旅は長くなる。長くなる旅は、匂いを増やす。匂いが増えると、国は太る。

太った国は、簡単には倒れない。

久米が、道に文句を言う。

「おい、これ道か?」「道じゃねえ、坂だ!」「坂は道だろ!」「坂は敵だ!」

山口守が、ぼそりと言う。

「敵は、道の中にいる」

久米が振り向く。

「お前、急に格言言うなよ」「森は格言でできてる」

……山の男は、たまに正しい。正しいが、正しいだけだと息が詰まる。

そこで薄火の女が、炭の袋を背負い直して小さく言った。

「……坂は、火を育てます」

みんなが黙る。

坂は火を育てる。坂があると、薪を運ぶ腕が太る。腕が太ると、冬が短くなる。

坂は敵じゃない。坂は、暮らしの筋肉だ。

峠に着くと、風が変わった。

盆地の風は溜める。峠の風は抜ける。抜ける風は、胸を洗う。洗った胸は、古い喧嘩を少し薄める。

峠の向こうに、別の匂いがある。

遠いのに、分かる匂い。

塩。

塩の匂いが、かすかに鼻を掠める。塩は、海の言葉だ。海の言葉が盆地まで届くには、峠が口にならないといけない。

だが峠には、すでに“口の主”がいた。

関(せき)を守る者たち。木の柵。立てた槍。乾いた目。

目が乾いている者は、溜めた恐れを抱えている。溜めた恐れは、よそ者を噛む。

関守の翁が、前へ出て言った。

「ここは通さぬ」

短い。短い拒否は、古い拒否だ。古い拒否は、土地の骨から出る。

大久米が肩を鳴らす。

「おいおい、通さぬって、道の口を塞ぐ気か?」「塞ぐ」翁は言う。「口を開けば、狼が来る。狼が来れば、子が減る。子が減れば、火が消える」

火が消える。

それはこの国で一番怖い言葉だ。火が消えるなら、誰だって口を塞ぎたくなる。

伊波礼毘古は、前に出て、怒鳴らずに言った。

「狼は来る」

翁の眉が動く。

「来るなら、塞ぐ」「塞げば、別の狼が生まれる」伊波礼毘古は続ける。「塞いだ口の内側で、狼が育つ」

溜めたものは腐る。腐ったものは牙を持つ。牙を持った腐りが、狼だ。

伊波礼毘古は、丸い石を一つ取り出し、地面に置いた。

「投げにくい石だ」

翁が訝しむ。

「……だから何だ」「この石を、ここに置く」伊波礼毘古は言った。「ここを“市口”にする。塩も布も薬も、ここで一度混ぜる。混ぜたら、盆地へ流す。流したら、盆地のものもここへ返す」

返す。

また、国の呪文が出る。

翁が鼻で笑う。

「返すなど、信用できぬ」「信用は、札じゃない」伊波礼毘古は言った。「火で作る」

そう言って、薄火の女を見た。

女が一歩前へ出て、炭を下ろした。炭は黒い。黒いのに怖くない。黒い炭は、火の貯金だ。

女は小さく言った。

「……峠の火は、薄いと凍ります。薄いなら、太らせればいいです」

太らせればいい。

国を太らせる言葉だ。

山口守が、薪を置いた。久米が勝手に枝を集めた。布留が、火打ち石を出した。饒速日が黙って、風上に立った。風が強いとき、火は死ぬ。風を読むのは、先客の得意だ。

火が点く。

ぱち。

火が点くと、峠が少しだけ“家”になる。家になると、よそ者とここ者の境界が薄くなる。

翁の目が、火に吸われる。

火は偉い。偉いから、誰も勝てない。

伊波礼毘古が言った。

「今夜、ここで汁を作る」

久米が叫ぶ。

「出た! 汁!」「峠汁だ!」「峠汁って何だよ!」「塩が入る!」

翁が、思わず言った。

「塩……?」

その一言が、峠の口を少し開ける。

塩は、海の火だ。塩があると、汁が締まる。汁が締まると、冬が短くなる。冬が短くなるなら、口を開ける理由になる。

翁は、伊波礼毘古を見て言った。

「……狼が来たらどうする」伊波礼毘古は答えた。

「狼が来たら、火を増やす。火が増えれば、人は群れる。群れれば、狼は一匹では来にくい。それでも来るなら――道の端で止める」

道の端。

盆地の中で止めると腐る。端で止めるのが作法だ。端には、市がある。火がある。札がある。穴がある。

翁は、しばらく黙ってから、短く言った。

「……一晩だけだ」

一晩だけ。

それでいい。一晩だけでも、峠に火が残れば、次の晩が来る。次の晩が来れば、暦が働く。暦が働けば、約束は“毎年”になる。

布留が、木札に小さく刻む。

一書曰く、峠の関守、はじめ通さず。一書曰く、火を見て、一晩を許す。

断言しない黒が、峠の空気を壊さない。

夜、峠汁が煮えた。

薄火の女の炭で火が安定し、山口守の苦い草が少し入って、久米の余計な声が味を濃くして、そして――誰かが、海の塩をひとつまみ落とした。

塩が落ちると、匂いが変わる。

盆地の汁の匂いではない。海が混ざった匂い。

海の匂いは、胸の奥の記憶を呼ぶ。伊波礼毘古の胸にも、日向の潮が一瞬だけ戻る。

饒速日が、椀を受け取って小さく言った。

「……外の匂いだ」

外の匂い。

外の匂いを都で受け止められるか。受け止められなければ、外は恐れになる。恐れになると、また口を塞ぐ。塞ぐと腐る。

だから、まず峠で混ぜる。

市は、端っこ同士が手を結ぶ場所。峠の市は、国と国の端っこ同士が手を結ぶ場所だ。

翁が、汁をすすって、ぽつりと言った。

「……狼より先に、塩が来るなら」

その言い方は、降参ではない。許可だ。風土の許可だ。

伊波礼毘古は頷いた。

「狼より先に、火を置く」

そして、最後に言った。

「ここを“口”にする。口を塞ぎたくなったら、火を見ろ。火を見て、それでも塞ぎたければ塞げ。だが塞いだら、盆地が濁る」

濁る、と言った瞬間、翁の顔が少しだけ苦くなる。盆地の濁りは、こっちの濁りでもある。海も山も、結局ひとつの天気の下にいる。

翁は、深く頷いた。

翌朝、峠の風がよく通った。

火は、灰になって残る。灰が残ると、場所は覚える。覚えた場所は、次にまた火を受け入れやすい。

布留が、峠の石のそばに、字のない札を一本立てた。

夜の札。

「ここに息を置ける」札。旅人が、名を言えない夜に寄れる札。

伊波礼毘古は、峠の向こうを見て言った。

「道は、外へ伸びる。伸びる道は、外を連れてくる。連れてくる外を、恐れにするな。汁に混ぜろ」

久米が即座に叫ぶ。

「汁は混ぜろ!」「混ぜすぎるな!」「混ぜたら腐るぞ!」「腐らせるな!」

……うるさい。でもうるさい声が、峠の口を“戦場”ではなく“市”にする。市にできれば、刃は減る。減らなくても、戻す口が働く。

盆地の器に、出口ができた。

出口ができると、風が通る。風が通ると、匂いが変わる。匂いが変わると、国は次の顔を持つ。

次の顔は、きっとまた面倒だ。外から来る匂いは、甘いだけじゃない。潮も、鉄も、噂も、病も、嫉妬も、全部一緒に来る。

それでも口を作る。

溜めるだけの器は、すぐ腐るからだ。

私は筆を止めた。

ナガタが、峠汁のところを指で叩いて言う。

「……峠汁、うまそうだな」「うまい」私は頷いた。「塩は物語を締める。外の匂いは、国を太らせる」

ナガタが、字のない札のところで小さく息を吐く。

「夜の札、峠にも立てたの、いいな。出口って、追い出すだけじゃないんだな」「そう」私は言う。「出口は、呼吸だ。出ていく息があるから、入ってくる息も受け止められる」

硯の水を替える。次の水は、潮の匂いを少し混ぜたい。混ぜたいのに混ぜられないから、言葉で混ぜる。

 
 
 

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