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第47章 賊の「欲しい」を市へ戻す――夜の影を昼の言葉に変える方法


第四部「道の骨、東の光」

第47章 賊の「欲しい」を市へ戻す――夜の影を昼の言葉に変える方法

「欲しい」は、腹の音に似ている。こっそり鳴ると、夜が長くなる。みんなの前で鳴ると、市になる。——欲しいを言える国は、盗らずに済む夜を増やせる。

「……賊を、市に呼ぶの?」

ナガタが言った。湯呑みの底には、もう湯気がない。湯気がない器は、声がよく響く。響く声は、たいてい嫌な方向へ行く。だから先に、匂いを置きたくなる。

「呼ぶ」私は硯の水を替える。今日の水は、薄い。薄い水は、怒りの字を太らせない。

ナガタが眉を寄せる。

「普通、追い払うだろ。賊って“外”じゃん」「外だ」私は頷く。「でも外を外のままにすると、外が夜で増える。夜で増えた外は、刃を持って戻る」

「じゃあ中に入れるの?」「入れるんじゃない」私は筆先を整える。「市へ戻す。夜の影を、昼の言葉に戻す」

ナガタが、ちょっと嫌そうに笑う。

「言葉に戻せないやつは?」「息に戻す」私は言う。「字のない札。穴。火。汁。口。——戻す場所を増やす」

「結局、口増やすの好きだな」「好きじゃない。溜める器の宿命だ」

ナガタはため息を吐く。

「……で、久米が騒ぐんだろ」「騒ぐ」私は即答した。「むしろ騒がせる。騒ぎがないと“賊の欲しい”が恥になって、また夜へ戻る」

私は最初の一行を置いた。

——賊の影、「鉄が欲し」と言ひて昼に来たり。伊波礼毘古命、これを市に入れて、影を言葉に返したまふ。

難波(なにわ)の朝は、盆地の朝と違う。

盆地の朝は霧が溜まる。難波の朝は風が抜ける。抜ける風は、言い訳を飛ばす。飛んだ言い訳のあとに残るのは、だいたい本音だ。

本音は短い。

「欲しい」

潮麻呂(しおまろ)が都へ持ち帰った言葉の中で、いちばん重かったのも、それだった。「鉄が欲しい」夜の賊の口から出た、あの一言。

欲しい、が夜に出ると、刃になる。欲しい、が昼に出ると、市になる。

市に戻せるかどうかで、国の夜の長さが決まる。

昼前、難波の津に、影が来た。

昨夜の影。葦の間を滑っていた影。火を見て止まった影。

だが今日は、滑らない。堂々と歩く。堂々と歩くのに、足取りが妙に遅い。遅い足取りは、恥の足取りだ。

恥の足取りは、まだ人の足取りだ。

港の端には、あの「字のない札」が立っている。夜の札。息を置ける札。

その札の横に、穴の板がある。刃を眠らせる穴。そして、貸す刃を返す穴。

潮麻呂が、火のそばで待っていた。久米(くめ)が、なぜかいる。大久米(おおくめ)に連れられているのに、顔が勝ち誇っている。

「来たぞ!」「市だ!」「汁だ!」「黙れ!」

……久米の騒ぎが、港を“戦場”にしない。戦場は静かだ。静かすぎる場所ほど、人は刃を抜く。うるさい場所は、刃が抜きにくい。刃が抜きにくい場所が、市になる。

影の先頭の男が、止まった。

昨夜、膝をついて言った男だ。「鉄が欲しかった」と言った男。

男は、腰を見せた。刃がない。

見せ方が下手だ。下手な見せ方は、嘘をついていない。

男が言った。

「……言われた通り、昼に来た」

潮麻呂が頷く。

「来たなら、まず穴だ」

男が首を傾げる。

「……刃、持ってねえ」

潮麻呂は言った。

「刃を持ってないなら、息を置け

息を置け。

変な言い方だ。でも変な言い方は、境界を刺さない。刺さない言葉が、賊を“賊のまま”にしない。

男は、字のない札の前で、一度深く息を吐いた。

白い息。

白い息は、冬の入口の息だ。入口で止まれるなら、まだ戻れる。

その瞬間、港の空気がほんの少しだけほどける。

ほどけると、言葉が出る。

「……鉄が、欲しい」

男は、やっと言った。昨夜より小さい声で。小さい声のほうが、本音に近い。

久米が即座に叫ぶ。

「欲しいなら汁を飲め!」「汁を飲めば鉄が出る!」「鉄汁だ!」「意味が分からん!」

……意味が分からない声が飛ぶ。飛ぶと、恥が少し薄まる。恥が薄まると、“欲しい”が言いやすくなる。

潮麻呂は、男の顔を見て言った。

「何に使う」

男は、少し迷ってから答えた。

「……舟の釘。綱を留めるやつ。夜に切れると、舟が流れる」

舟が流れる、と言うと港の人間は真顔になる。舟が流れるのは命が流れるのと同じだからだ。

潮麻呂が頷く。

「舟の釘なら、刃じゃない。……いい。市へ持っていけ」

男が目を上げる。

「市?」

潮麻呂は、港の石の円を指した。

丸い石の円。投げにくい石。嘘が角を持ちにくい場所。

「ここは“津の市”だ。欲しいは、ここで言え。夜に言うな。夜に取るな」

男の後ろにいた影が、ぼそりと言う。

「……市には、銭がいるだろ」

銭。

この時代の銭は、まだ“万能”ではない。万能じゃないから、市は面白い。米も銭だ。塩も銭だ。労も銭だ。息も銭だ。

潮麻呂は言った。

「銭じゃなくていい。返すものを置け」

返す。

返すの字が、ここでも働く。

布留(ふる)が、木札の板を運んできた。

板は、字の札だ。だが字は少ない。字が少ないのは、ここが“外の口”だからだ。外の口では、字は滲みやすい。潮の匂いが、字をふやかす。

布留は、板に大きく刻み目を付けた。

一つは、鉄の印。釘の形。鍬の形。針の形。刃の形——これは小さく、端に。

もう一つは、返すものの印。

米粒。炭。魚。薪。そして——手。

手の印。

労働の印だ。働きの印だ。市は、働きの匂いで回る。

布留が言った。

「字が読めない者は、ここに印を付けよ。欲しいものに、爪で傷を付けよ。返せるものに、指で触れよ」

爪で傷。

傷で意思を残す。傷は嘘をつきにくい。嘘をつきにくい仕組みは、夜を短くする。

久米が、板を覗き込んで叫ぶ。

「汁の印がねえ!」「汁は返すものじゃない!」「返したい!」「胃から出すな!」

……うるさい。でもこのうるささが、板を“役所の板”にしない。役所の板は、人を追い払う。市の板は、人を呼ぶ。

男が、釘の形のところに、爪で小さく傷を付けた。

き、という音。小さい音。

小さい音が、夜の盗みより強いときがある。盗みは派手だ。派手さは、すぐ忘れられる。小さい傷は、残る。

「返せるものは?」

潮麻呂が問う。

男は、少し迷ってから、手の印に触れた。

手。

労を返す。労を返せる者は、賊になりにくい。賊は“返す手”を持たないから賊になる。

潮麻呂が頷く。

「よし。今夜は舟の火を守れ。綱を張れ。明日、釘を渡す」

渡す日を決める。

暦の仕事だ。約束の仕事だ。市は、約束の置き場になる。

男が、目を伏せて言った。

「……俺は、賊だぞ」

潮麻呂は短く返す。

「夜は賊だった。昼は市に来た。昼に来たなら、昼の名前を借りろ」

借りる。

またこの国の言葉。

「港守(みなとり)」

潮麻呂が言った。

「名じゃない。役だ。役は返せる。返せる名なら、縛りになりにくい」

男は、驚いたような顔をした。

驚きは、まだ人の顔だ。狼の顔は驚かない。

だが、市に戻すのは簡単じゃない。

港の古い者が、低い声で言った。

「……鉄を渡せば、また刃を作る」

疑い。

疑いは当然だ。疑いがない国は、すぐ刺される。でも疑いだけの国は、すぐ腐る。

伊波礼毘古(いわれびこ)が、そこへ来た。

都の背中。盆地の重さを持った背中。

彼は怒鳴らずに言った。

「刃は作るな、とは言わぬ」

ざわ、と空気が動く。

「だが刃を作るなら、皆の前で作れ。夜に作る刃は、私物になる。私物の刃は、国を裂く」

国を裂く。

短いのに重い言葉だ。

伊波礼毘古は続けた。

「欲しい、は悪ではない。悪なのは、欲しいを夜に隠すことだ」

隠す。

隠した欲しいは、盗みになる。盗みは、恐れを増やす。恐れが増えると、刃が王になる。

「だから市だ。欲しいを昼へ戻せ。昼へ戻した欲しいは、鍬になる。針になる。釘になる。……刃になる日もある。その日は、穴から貸す。返す」

返す。

何度も言う。呪文みたいに。呪文は、繰り返すことで効く。

市は、その日だけでは終わらなかった。

潮の暦に合わせて、津の市の日が決まった。

満ちる前の日。引いた次の日。

潮の都合に、盆地が合わせる。合わせるというのは、負けではない。海の時間を尊ぶということだ。

布留が札に刻む。

津の市潮の満つる前潮の引く後欲しいは昼へ一書曰く、毎日にせよといふ者あり

毎日にせよ、という者が出るのが面白い。欲しいは、すぐ増やしたがる。増やすと腐る。腐ると夜が長い。だから、日を決める。口を決める。

久米が叫ぶ。

「毎日市なら毎日汁だ!」「毎日汁は身体に悪い!」「身体に悪いのがうまい!」「黙れ!」

……この国は、うまさで制度の角を削る。

数日後。

例の男が、本当に舟の火を守っていた。

火のそばに立つ背中は、夜の背中と違う。夜の背中は獣みたいに尖る。火の背中は、人になる。

賊の影が、また二つ現れた。

だが今度は、火の外側で止まった。止まって、字のない札の前で息を吐いた。

白い息。

そして、ゆっくり市の板へ歩く。

釘の印に、爪で傷。手の印に、指で触れる。

それだけ。

それだけで、夜が短くなる。

潮麻呂が、釘を二つ渡した。

渡すとき、必ず言う。

「返せ」

返す場所は穴。返す日は潮。返すときは皆の前。

それで、刃より先に約束が立つ。

男が釘を握りしめ、ぽつりと言った。

「……欲しいって言えたら、夜が静かだな」

静かだな。

静けさは、勝ちじゃない。折れないための静けさだ。

伊波礼毘古は、その言葉を聞いて、心の中だけで頷いた。

——賊をなくすのではない。——賊の夜を減らす。——夜を減らすには、昼を増やす。——昼を増やすには、市を増やす。——市を増やすには、口を増やす。

結局、また口だ。

口が増えるほど、この器は息をする。息をするほど、冬は短くなる。短くなった冬のぶんだけ、国はまた欲を出す。

欲が出たら、また市へ戻せばいい。

私は筆を止めた。

ナガタが、しばらく黙ってから言った。

「……“欲しい”を恥にしないって、でかいな」「でかい」私は頷く。「恥にすると夜へ行く。夜へ行くと刃になる。だから昼へ戻す」

ナガタが、刻み目の“手”の印を指で叩く。

「手を銭にするの、好きだわ。現代っぽいのに、古い」「腹も手も、ずっと古い」私は言う。「古いものだけが、国を長くする」

硯の水を替える。次の水は、少し苦い。欲しいが昼へ戻ると、今度は“公平”が顔を出す。市は混ぜるが、混ぜ方で揉める。

 
 
 

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