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第53章 語りの役、筆の影――書く者が王になる前に「一書曰く」を守る


第四部「道の骨、東の光」

第53章 語りの役、筆の影――書く者が王になる前に「一書曰く」を守る

墨は、夜のすすでできている。夜を固めて、昼に置く黒。——黒は便利だ。便利な黒は、時々、刃になる。だからこの国は、黒に「余白」を混ぜる。それが「一書曰く」だ。

「……ついに“書く者が王になる”問題だな」

ナガタが言った。湯呑みの底を見ながら、真面目な顔で笑っている。笑っているのに目が笑っていない。こういうときの目は、だいたい“怖いもの”を嗅いでいる。

「書くのってさ、やったことない人ほど軽く言うけど、一回“公式”になった字って、ずっと残るじゃん」

「残る」私は硯の水を替える。今日は水を多めにして、黒を薄めたい。黒が濃いと、断言が増える。断言が増えると、国が縄になる。

ナガタが眉を寄せる。

「今まで“役は返せる”ってやってきたのに、“物語”が世襲したら終わりだろ」「終わる」私は頷く。「物語の世襲は、刃より静かに人を縛る。縛るくせに、縛ってる自覚が薄いのが厄介だ」

「じゃあどうすんの?」「“一書曰く”を制度として守る」私は筆先を整える。「ひとつの黒で国を塗りつぶさない。黒を橋にする。橋にするには、揺れを残す」

ナガタが口を尖らせる。

「揺れって、曖昧ってこと?」「曖昧じゃない」私は首を振る。「複数。複数の目。複数の口。複数の匂い。この島は湿りが強いから、ひとつの真実を置くとすぐ腐る。複数で風を通す」

ナガタが、例の調子で言う。

「で、久米が“汁曰く”とか言い出すんだろ」「言い出す」私は即答した。「でも今日は笑って済まない。筆の影は、倉の影より長くなるから」

最初の一行を置く。

——布留、筆を執りて国の言葉を黒にせんとす。伊波礼毘古命、これを戒めて曰く、「書は刃にもなる。ゆゑに一書曰くを守れ」と。

書く、という仕事が怖いのは、遅れて刺さるからだ。

刃はすぐ刺さる。血が出る。痛い。分かる。だから止めようがある。

でも字は、今日刺さらない。明日も刺さらない。冬も刺さらない。

春に刺さる。十年後に刺さる。子の子の代に刺さる。

刺さったとき、刺した者はもういない。いないから、責任が風に混ざる。混ざった責任は、恨みに変わりやすい。

だから筆は、刃より怖い夜がある。

倉番の役が返され、薄火(うすび)の女と潮麻呂(しおまろ)が倉を見始めたころ、布留(ふる)の筆が、急に重くなった。

いままで布留は、札に刻むだけだった。戸の札。口の札。刃の穴の札。潮の約束。鉄の約束。返倉の約束。

それらは“道具”だった。

だが倉が回り、市が回り、役が返り始めると、人は次に欲しがる。

「物語」を。

「うちが最初に火を守った」「うちが最初に綱を張った」「うちが鉄を運んだ」「うちが賊を市に戻した」「うちが倉を作った」

“最初”は、蜜みたいに甘い。甘い最初は、舌に残る。舌に残ると、取り分になる。取り分になると、筆が欲しくなる。

筆は、取り分の道具にされやすい。

ある昼、返倉の前の火の輪に、二人の男が来た。

上の田の者と、下の田の者。同じ米の匂い。だが目の乾き方が違う。

上の田の者が言う。

「布留殿。書いてくれ。“うちが多く預けた”と。だから多く返す、と」

下の田の者が言う。

「布留殿。書いてくれ。“うちは少ないが手を返した”と。だから同じだけ返す、と」

同じ火の前で、違う正しさが立ち上がる。

布留は、喉が乾いた。乾いた喉で書く黒は、尖る。尖った黒は刃になる。

久米(くめ)が、横から口を挟む。

「どっちも書け!」「全部書け!」「ついでに汁もうまいって書け!」「汁は関係ない!」

……うるさい。だが久米の「どっちも書け」は、ここでは半分正しい。どっちかだけを書くと、筆が王になる。

布留は、震える手で言った。

「……書けます。でも“決める字”には、できません」

上の田の者が眉を吊り上げる。

「決める字にしろ。決めない字は役に立たん」

布留の胸が冷える。決める字。役に立つ字。その二つが結びついたとき、筆は国の刃になる。

そこへ伊波礼毘古(いわれびこ)が来た。

都の背中。盆地の重さを持って、火の輪に入る。

伊波礼毘古は、二人の男を見ずに、布留の筆を見た。

「筆が乾いている」

布留が息を呑む。

伊波礼毘古は言った。

「乾いた筆で書くな。湿りを混ぜよ」

湿り。

この島の湿りは厄介だが、救いにもなる。湿りがあるから、断言が滲む。滲むから、余白が残る。

「“一書曰く”を書け」

伊波礼毘古は続けた。

「上の田は多く預けた、と書け。下の田は手を返した、と書け。そして最後に——“一書曰く、どちらも正し”と置け」

どちらも正し。

これも危ない言い方だ。でも危ない言い方を、置く場所が必要だ。置かないと、夜に爆ぜる。

布留は、ようやく息を吐き、札に記した。

一書曰く、上の田、多く預く一書曰く、下の田、手を多く返す一書曰く、返す量は平石の上にて決す

最後に“平石の上”を入れたのが大事だ。言葉は揺れる。だから地面に返す。この島は、地面で喧嘩を止める。

だが、筆の影はもっと深いところに来た。

港守(みなとり)の男が、布留のところへ来たのだ。

かつて夜の賊だった男。昼に市へ戻った男。

男は、顔を伏せたまま言った。

「……俺のこと、書かないでくれ」

書かないでくれ。

その願いは痛い。痛いのは分かる。書かれた過去は、消えない。消えない過去は、時々“鎖”になる。

布留は筆を止めた。

「……でも、あなたが昼へ戻ったことは、書きたい」

男が首を振る。

「戻った、なんて書かれたら、“戻れないやつ”が恥になる。恥は夜に刃になる。……俺は、夜を増やしたくない」

この男は、もう賊の言葉を捨て始めている。国の言葉を拾っている。

だからこそ、布留は難しかった。

良いことを書くほど、誰かが苦しくなる。良い物語ほど、誰かを置き去りにする。置き去りが増えると、夜が増える。夜が増えると、刃が起きる。

布留の手が震えた。

そのとき、薄火の女が言った。

「……“一書曰く”でいいのでは」

潮麻呂も頷く。

「海は、波が全部同じではない。一つの波だけを書けば、海が嘘になる」

山口守(やまぐちもり)が、ぼそりと言う。

「森も同じだ。一本の木だけで森を語ると、森が恨む」

伊波礼毘古が、静かに言った。

「書け。だが“決める黒”にするな」

そして、男に向けて言った。

「お前の夜を固定するな。お前の昼も固定するな。固定は縄になる。縄になる前に、風を通せ」

風を通す。

それが“複数の書”だ。

布留は、ゆっくり筆を動かした。

一書曰く、夜に賊あり一書曰く、昼に市に来たり一書曰く、名を借りて港守となる一書曰く、その名は返せる

最後の「返せる」を入れる。これで物語が世襲しにくくなる。返せる物語は、恥を神にしない。

男は、しばらく黙って、やがて言った。

「……それなら、いい」

“いい”と言える喉が残っている。それが国の強さだ。

その日から、伊波礼毘古は“語りの市”を作った。

津の市とは別の市。物を混ぜる市ではない。声を混ぜる市だ。

火の輪の前で、誰でも語れる。語った声を、布留だけが書かない。

書く者を二人、三人にした。役と同じだ。筆も返せるようにする。

そして書いたものは、必ず――読み上げる

読み上げると、字が“喉”に戻る。喉に戻ると、字は刃になりにくい。刃になっても、みんなが音を知っている刃は、私物になりにくい。

読み上げた最後に、必ず沈黙を置く。

閉倉の沈黙と同じだ。沈黙は、殴る沈黙ではない。夜に増殖する言葉を、そこで止める沈黙だ。

久米が当然、口を挟む。

「読み上げるなら俺が読む!」「声がでかいからな!」「でかい声で“汁曰く”って読む!」「読むな!」

布留が、珍しく笑って言った。

「久米殿は、読む係ではなく、笑い係です」

久米が胸を張る。

「任せろ! 笑いは世襲する!」

伊波礼毘古が即座に言う。

「返せ」

「えええええ!」

……このやり取りが、筆を王にしない。王は笑いを嫌う。市は笑いで回る。国が市の匂いを忘れない限り、語りは世襲しにくい。

もう一つ、伊波礼毘古は“書の割符”を作った。

割符は、倉の木目を合わせる札だった。同じように、書も割った。

一枚の板に書いて、真ん中で割る。割った二枚は、木目が噛み合う。

一枚は返倉へ。もう一枚は、語られた側へ。

合わなければ、改ざんだと分かる。改ざんが分かる形は、筆の盗みを減らす。

布留は、息を吐いた。

「……筆にも、穴ができました」

穴。

私は、胸の中で頷いた。

刃を眠らせる穴。鉄を返す穴。貸し札の穴。そして今、物語を返す穴

この国は、困ると穴を作る。穴は嘘をつかない。嘘をつかない穴が増えるほど、夜が短くなる。

夕方、語りの市で、潮麻呂が海の噂を語った。

「東から来る船が増えた。鉄の匂いがする。布の匂いもする。……それと、言葉の匂いがする」

言葉の匂い。

外から来る言葉は、便利で危ない。便利な言葉ほど、国の中で“正しさ”になりやすい。

伊波礼毘古は、そこで断言しなかった。断言せず、ただ言った。

「一書曰く、外は外。一書曰く、外は内になる。一書曰く、外は内を裂く」

矛盾みたいだ。だが矛盾を抱えるのが、この島の作法だ。抱えられない国は、正しさで割れる。

布留は、その矛盾を黒に置いた。置くとき、黒を濃くしすぎない。水を混ぜる。湿りを混ぜる。風を通す。

書く者が王になる前に、「一書曰く」を守る。

それは弱さじゃない。この島の“折れにくさ”の技術だ。

私は筆を止めた。

ナガタが、しばらく黙ってから言った。

「……“語りの市”、いいな。物を混ぜる市じゃなく、声を混ぜる市」「声は腐りやすいからな」私は頷く。「腐りやすいものほど、風が要る。複数の声は風になる」

ナガタが、書の割符のところを指で叩く。

「割符、発明しすぎだろ」「発明じゃない」私は言う。「湿りの国の応急処置だ。湿りは嘘を育てる。だから形で止める」

ナガタが笑う。

「久米、笑い係で世襲しそうで怖い」「怖い」私は即答する。「だから返す。何でも返す。笑いも返す」

硯の水を替える。次の水は、声が歌になる水だ。声を混ぜる市ができたなら、次はその声を“祭”でほどく必要がある。制度の声は硬くなる。硬くなった声は、歌で柔らかくする。

 
 
 

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