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第58章 汚れの名、清めの癖――定義が縄になる前に川へ返す


第四部「道の骨、東の光」

第58章 汚れの名、清めの癖――定義が縄になる前に川へ返す

汚れは、泥の顔をしてやって来る。けれど泥は、誰のものでもない。——名を付けた瞬間、汚れは人に貼りつく。だから名は、葉に書いて川へ流せ。流れるものだけが、島の湿りに勝てる。

「……“汚れ”ってさ」

ナガタが言った。祭の火の匂いが薄れ、祓(はらえ)の湯気も消えた部屋で、この題だけがやけに湿っている。湿っているのに、どこか尖っている。湿った刃みたいな題だ。

「言葉として便利すぎない?便利って、だいたい人を傷つける方向に寄るじゃん」

「寄る」私は硯の水を替える。今日は水を多めにする。汚れの章は、黒が濃いとすぐ縄になる。

ナガタが眉を寄せる。

「“汚れてる”ってさ、状態のはずなのに、いつの間にか“人”になるだろ。あの人が汚れてる、って。最悪だよな」「最悪だ」私は頷く。「定義が固まると、人が固まる。人が固まると、戻れなくなる。戻れない国は短い」

ナガタが湯呑みを振って空っぽを見せる。

「じゃあどうすんの?」「川へ返す」私は即答する。「汚れを“人”から剥がして、“流れ”へ返す。湿りの国は、流れにしか勝てない」

「でもさ、外の言葉(罰とか禁めとか)入ってきてんじゃん。外の国って、定義好きそう」「好きそうだ」私は言った。「だから余白を作る。“一書曰く”で風を通す。定義を、縄の手前で止める」

ナガタが、例の顔で言う。

「で、久米が“禊汁(みそぎじる)”とか言うんだろ」「言う」私は即答する。「だが今日は笑いだけじゃ止まらない。清めが排除になる前に、癖として“戻す”を身体に入れる」

筆先を整え、最初の一行を置いた。

——一書曰く、祓の縄立ちて後、衆「汚れ」の名を欲し、名は人に貼りつかんとす。ここに伊波礼毘古命、名を葉に記して川へ返し、清めを癖としたまふ。

祓の場に縄が張られてから、難波(なにわ)の津は少し静かになった。

静かになったのは、賊が減ったからだけではない。人の喉が、湯気を覚えたからだ。湯気を覚えた喉は、罰をすぐ刃にしない。

だが——静かになると、別の音が聞こえる。

“分類する音”だ。

静かな場所で、人は分類を始める。分類は便利だ。便利なものは、すぐ王になる。

朝、津の市の板の前で、誰かが言った。

「汚れだ」

ただの一言。たった一言が、潮の匂いを一段乾かした。

何が汚れか。

濡れた米が入った。腐りかけの塩が混じった。鼠が走った。咳(せき)をする者がいた。血が出た指があった。死んだ魚が網にかかった。

……この島の暮らしは、汚れと隣り合わせだ。隣り合わせだから、汚れを敵にすると、暮らしが敵になる。

暮らしが敵になると、国は短い。

だが分類の音は止まらない。

「汚れの者は、縄の外へ」「汚れの者は、倉に触るな」「汚れの者は、刃に触るな」「汚れの者は、市に来るな」

——この瞬間、汚れは“状態”をやめて、“身分”になりかける。

一番先にその影が向いたのは、港守(みなとり)の男だった。

かつて夜の賊だった男。昼に“欲しい”と言えた男。役を借りて戻った男。

戻った者は、戻れなかった者の恥を刺激する。刺激された恥は、汚れを名札にする。

「……あいつは元が汚れてる」「だから、汚れが寄る」「倉の米が臭ったのも、あいつのせいだ」

恐ろしいほど、言葉が軽い。軽い言葉ほど、人を殺す。刃より静かに。

薄火(うすび)の女が、火のそばで小さく息を吐いた。

「……汚れが、人の名前になりそう」

布留(ふる)が、札を握った手を震わせる。書き手は知っている。いったん文字になった“名札”は、長生きする。

潮麻呂(しおまろ)が、塩の匂いのまま言った。

「潮は汚れない。汚れは、溜まると腐る。……溜めるのは、人の目だ」

山口守(やまぐちもり)が短く言った。

「森は、腐った葉を抱える。抱えて土に返す。人は、抱えずに投げる」

投げる。

投げると、当たる。当たると、恨みが残る。恨みは夜に刃を起こす。

その夕方、伊波礼毘古(いわれびこ)は難波へ来た。

都の背中。盆地の湿りを持って、潮の乾きを受け止める背中。

彼はまず、縄を見た。

しめ縄。境界の縄。

境界は必要だ。だが境界が“人”を切り始めたら、それは首になる。

伊波礼毘古は言った。

「汚れの名を、決めるな」

ざわ、と空気が揺れる。

東詞(あずまこと)が言った。

「決めぬなら、禁められぬ。禁められぬなら、破る者が得をする」

乾いた理屈。便利な理屈。便利な理屈は、たいてい正しい顔をしている。

伊波礼毘古は首を振った。

「禁める。だが“人”を禁めぬ。禁めるのは——溜まりだ」

溜まり。

盆地の言葉だ。溜まりは腐る。腐りは恨みになる。

「汚れは、名ではない。癖だ。溜まったら、流せ」

流せ。

湿りの国の合言葉が、また出る。

翌朝、伊波礼毘古は“祓の場”を川へ移した。

難波のすぐ脇を流れる川。潮が上がると少し甘くなり、潮が引くと少し苦くなる川。葦の根元が、いつも湿っている川。

川の名前を、皆はまだ揃えて呼べない。だから布留は札にこう書いた。

一書曰く、飛鳥川といふ一書曰く、難波の川といふ一書曰く、ただ水の道といふ

ただ水の道。

いい。名を固めない水は、よく働く。

川辺には、丸い石が置かれた。足を揃える石。争いを刃にしない石。

そして——葉が積まれた。

榊(さかき)の葉。椿の葉。葦の葉。桜のまだ硬い葉。

葉は、軽い。軽いものは、流せる。流せるものは、身分になりにくい。

伊波礼毘古は言った。

「汚れの名は、葉に書け」

ナガタがいれば、ここで絶対言う。“紙じゃなく葉”は最高だ、と。紙は残る。葉は腐る。腐るものは縄になりにくい。

布留が、震える手で筆を取った。黒を薄める。薄い黒は、決めない黒だ。

東詞が言う。

「名を決めるのか」伊波礼毘古は頷く。

「決める。だが決める名は、人の名ではない」

そして続けた。

「名は二つにせよ。“汚れ”と“濁り”」

濁り。

濁りは水の言葉だ。水の言葉は、人に貼りつきにくい。

「汚れは、手の汚れ。濁りは、心の濁り。どちらも、川へ返せ」

返せ。

呪文。

久米(くめ)が、当然のように割り込む。

「川へ返すなら、汁も川へ返せ!」「返すな!」「川汁にするな!」「川汁って何だ!」「禊汁だ!」「出た!」

……うるさい。だが久米のうるささが、“清め=怖い”を少し薄める。

清めが怖くなると、清めが刃になるからだ。

葉に、布留が書いた。

一枚目。

汚れ

二枚目。

濁り

三枚目は——伊波礼毘古が自分で書いた。

一書曰く、名は仮(かり)

名は仮。

これが効く。名が仮なら、身分になりにくい。仮の名は、返せる。

伊波礼毘古は、皆に言った。

「汚れを感じた者は、葉を一枚取れ。自分の喉で名を言い、川へ返せ」

自分の喉で。

ここが大事だ。誰かが“お前は汚れてる”と言うと、それは刃になる。自分で言えば、それは癖になる。癖は、直せる。身分は、直しにくい。

港守の男が、恐る恐る前へ出た。

皆の目が集まる。目が集まると、恥が出る。恥が出ると、夜が伸びる。

男は、葉を一枚取った。手が少し震える。

震えは恐れだ。恐れは正直だ。正直な恐れは、刃になりにくい。

男は言った。

「……濁り」

濁り。

それだけ。

それだけ言って、葉を川へ流した。葉は、水の上でくるりと回り、下流へ消えていく。

消えるのがいい。消える名は、人を縛らない。

次に、上の田の者が葉を取った。

「……汚れ」

言って、流す。

下の田の者も取った。

「……濁り」

言って、流す。

潮麻呂が取った。

「……汚れ。塩が湿って疑われた。疑いが、俺の喉を濁らせた」

濁らせた、と言えたのが救いだ。疑いは、言えると薄くなる。

薄火の女が取った。

「……汚れ。火が跳ねるのが怖くて、誰かを責めた」

責めた、と言えるのが強い。言える国は、刃を眠らせやすい。

布留が取った。

「……濁り。筆で決めたくなった。決めたら楽だと思った」

楽だと思った。

その言葉に、東詞が少しだけ顔を動かした。乾いた国でも、楽な正しさが怖いのは同じだ。

ただし——ここで終わらないのが国だ。

誰かが言った。

「じゃあ“汚れ”って、何だ」「何が汚れで、何が汚れじゃないんだ」「決めないと、ずるい奴が逃げる」

逃げる。

逃げるという言葉は、正しさの靴だ。履くと早い。早いと転ぶ。

東詞が頷いて言う。

「そうだ。定義しろ」

定義。

乾いた言葉。喉を締める言葉。定義は、縄になりやすい。

伊波礼毘古は、川を見た。

川は定義しない。雨が降れば濁る。晴れれば澄む。澄んでも、底には泥がある。泥があるから、草が生える。

泥があるから、稲が育つ。

伊波礼毘古は言った。

「定義は、札に書かぬ」

東詞が眉を寄せる。

「なら、どう守る」伊波礼毘古は短く答える。

「癖で守る」

癖。

「汚れを感じたら、川へ行く。川へ行ったら、葉を流す。葉を流したら、手を洗う。手を洗ったら、火の前で湯気を吸う。湯気を吸ったら、戻る」

順番。

法の順番。祭の歌で身体に入れた順番が、ここで効く。

久米が、順番に我慢できず叫ぶ。

「手を洗ったら汁だろ!」「湯気を吸うのが汁だ!」「つまり汁だ!」「つまり湯気だ!」

……うるさい。でも久米の雑な“まとめ”が、清めを重くしすぎない。

清めが重すぎると、清めは排除になる。

伊波礼毘古は、最後にこう言った。

「汚れは、人から剥がれ。剥がれた汚れは、川へ行け。川へ行った汚れは、海へ行け。海へ行った汚れは、潮で返せ」

返せ。

潮麻呂が頷く。海は返す。返さない潮は腐る。腐りは、国の恐れだ。

その日の午後、事件が起きた。

大きな事件ではない。こういう国を割るのは、だいたい小さい事件だ。

倉の前で、誰かが転んだ。膝を擦りむいて、少し血が出た。

血。

血は、清めの議論を一気に尖らせる。尖った議論は、すぐ人を切る。

「汚れだ!」「縄の外だ!」「倉に近づくな!」

声が立つ。声が立つと、さっき川へ流したはずの葉が、喉の奥で戻ってくる。

薄火の女が、素早く言った。

「川です」

たった一言。でもこの一言は、命令じゃない。癖だ。

転んだ男は、顔を青くして、川へ走った。走る背中が、恥の背中じゃない。“戻る背中”だ。

川辺で、男は葉を取った。震える手で「汚れ」と言い、流す。手を洗う。火の前で湯気を吸う。

湯気を吸うと、顔が少し戻る。戻ると、目が人になる。

そして男は、倉へ戻った。

戻れる。

戻れる清めは、排除になりにくい。排除になりにくい国は、長い。

東詞が、その光景を見てぽつりと言った。

「……定義がなくても、止まるな」

伊波礼毘古が頷く。

「止まる。止まる場所が決まっているからだ。場所は嘘をつかない」

布留が、小さく札に刻んだ。

一書曰く、汚れは人にあらず一書曰く、汚れは道なり一書曰く、道は川へ通ず

道は川へ通ず。

いい。出口がある国は、夜が短い。

夕暮れ、川は赤くなった。

赤いのに、刃の赤ではない。水の赤。空の赤。季節がほどける赤。

赤い川を見ながら、港守の男がぽつりと言った。

「……俺、汚れって言われるのが一番怖かった」

怖い。

怖いと言える喉は、戻れる喉だ。

薄火の女が言う。

「言われるのが怖いなら、先に言えばいい。“濁り”って」

潮麻呂が頷く。

「潮も、先に濁る。濁ってから澄む。澄むのは、濁りが悪だからじゃない。流れがあるからだ」

山口守が言う。

「森も、腐る。腐って土になる。土になるから、芽が出る」

布留が、少し笑って言った。

「……墨も、夜のすすです。すすは汚れです。でも黒があるから、余白が見えます」

余白。

伊波礼毘古は、川を見たまま言った。

「定義を置くな。癖を置け」

癖を置け。

この島の清めは、恐れを消す技術じゃない。恐れを“流れ”へ返す技術だ。

葉が一枚、また流れていった。誰が流したかは分からない。分からないのがいい。

清めは、誰の功績でもない。功績になった清めは、すぐ縄になる。

私は筆を止めた。

ナガタが、川へ葉を流すところを指で叩く。

「……“汚れの名を葉に書く”の、めっちゃ良いな。残らない正しさって感じがする」「残らないのが大事だ」私は頷く。「残ると身分になる。身分になると戻れない。戻れない国は短い」

ナガタが、久米の“禊汁”で笑う。

「禊汁、最悪で最高」「最悪で最高だ」私は言う。「笑える清めは排除になりにくい。怖い清めはすぐ刃になる」

硯の水を替える。次の水は、海へ行く水だ。川へ返した汚れは、次に“海の祓”へ渡される。外から来る言葉も、海で揉まれると味が変わる。

 
 
 

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