第6話 契約書チェック係・あやのの逆襲
- 山崎行政書士事務所
- 5月12日
- 読了時間: 16分

青葉通りの契約書は今日も笑う
静岡市葵区、青葉通りから少し入った山崎行政書士事務所には、朝から妙な平和があった。
陽翔がタブレットを持ったまま観葉植物に話しかけていない。 さくらの付箋が机から雪崩を起こしていない。 奏汰のヘッドホンから、謎の電子音が漏れていない。 悠真の湯呑みも、今日は欠けていない。
「嵐の前ですね」
陽翔が言った。
「平和な朝を不吉にしないで」
所長の山崎香澄が、お茶を淹れながら笑った。
その平和の中心にいたのは、あやのだった。
あやのは、山崎行政書士事務所の中でもひときわ明るい存在だった。電話を取れば声が一段明るくなり、来客があれば入口まで小走りで迎え、コピー機が詰まっても「紙も休みたかったんですね」と笑って直す。
陽翔いわく、「事務所の太陽光発電」。
悠真いわく、「発電量は多いが、ときどき過充電」。
本人はその評価を聞いて、にこにこと言った。
「つまりエコってことですね!」
その日、あやのは契約書チェック係として、会議テーブルに座っていた。
目の前には、地元の小さなIT企業、駿府アプリ工房から持ち込まれた業務委託契約書がある。
駿府アプリ工房は、静岡県内の小売店向けにクラウド在庫管理システムを作っている会社だった。今回、大きな取引先からカスタマイズ開発を頼まれたのだが、先方から届いた契約書が、どうにも重たい。
「でも、まあ、ざっと見る限り普通っぽいですけどね」
駿府アプリ工房の代表、松永が少し遠慮がちに言った。
三十代後半。明るいが、どこか疲れている。会社を伸ばしたい気持ちと、大きな取引先に嫌われたくない気持ちが、肩の上で綱引きをしているような人だった。
「大手さんとの契約なので、あまり細かく言うと面倒な会社だと思われるかなって」
その言葉に、あやのはにっこり笑った。
「大丈夫です。まずは確認しましょう。契約書チェックは、喧嘩を売る作業ではありませんから」
「そうなんですか?」
「はい。未来の喧嘩を減らす仕事です」
香澄が少しうれしそうにあやのを見た。
陽翔は小声で言った。
「出ました。朝イチ名言」
「まだ始まったばかりです」
悠真が言った。
あやのは赤ペンを持ち、契約書の一ページ目をめくった。
最初はいつものあやのだった。
「業務内容、ふむふむ。クラウド在庫管理システムの追加機能開発。納期は八月末。報酬は固定額。支払いは検収後翌月末……」
声は明るい。 背筋はまっすぐ。 赤ペンのキャップを外す音も軽い。
ところが、二ページ目に入った瞬間だった。
あやのの笑顔が止まった。
赤ペンが、紙の上で静かに止まった。
目が、変わった。
陽翔が息をのむ。
「来ました」
さくらが小声で聞く。
「何がですか?」
「契約書チェック係・あやのの逆襲です」
あやのは、ゆっくりと条文を読み上げた。
「第十二条。受託者は、本契約に関連して委託者に生じた一切の損害について、その原因、範囲、予見可能性の有無を問わず、全額を賠償するものとする」
応接室の空気が固まった。
松永が首をかしげる。
「それ、そんなにまずいですか?」
あやのは顔を上げた。
いつもの太陽光発電ではない。
真夏の駿河湾に反射する、鋭い光だった。
「社長」
「はい」
「これは、会社の財布に直接、穴を開ける条文です」
陽翔が小さく拍手した。
「表現が強い」
悠真は静かにうなずいた。
「でも、間違っていない」
あやのは赤ペンで条文を囲んだ。
「損害賠償の上限がありません。直接損害だけとも書いていません。通常損害に限るとも書いていません。しかも、“予見可能性の有無を問わず”とあります」
松永の顔から血の気が引いた。
「つまり……?」
「たとえば、障害が起きて取引先の業務に影響が出た場合、どこまで請求されるか分かりません。売上減少、取引先への補償、社内人件費、信用低下まで含むと主張される可能性もあります」
「でも、うちは小さい会社で……」
「だからこそです」
あやのはきっぱり言った。
「小さい会社ほど、上限のない責任は危険です」
香澄が穏やかに続けた。
「もちろん、責任を負わないという話ではありません。ただ、合理的な範囲を決めておく必要があります。たとえば、損害賠償の範囲を通常かつ直接の損害に限る、上限を委託料の何か月分または契約金額相当額にする、といった調整を検討します」
松永は、赤ペンで囲まれた条文を見つめた。
「普通っぽい契約書に見えたんですが……」
「普通の顔をした強敵です」
陽翔が言った。
「駅前で道を聞いてきた親切な人が、実はラスボスだったみたいな」
「たとえが物騒です」
さくらが言った。
あやのは次の条文へ進んだ。
「第十五条。秘密保持。受託者は、委託者から開示された一切の情報を秘密として保持し、第三者に開示してはならない」
松永が少し安心したように言う。
「秘密保持は普通ですよね?」
「普通に必要です」
あやのはにこっと笑った。
そして、その笑顔のまま赤ペンを走らせた。
「ただし、これは片道通行です」
「片道通行?」
「委託者の秘密だけ守る形になっています。御社が提供する技術情報、ソースコード、開発ノウハウ、提案資料、既存システムの情報を相手が守る義務が書かれていません」
「あっ」
松永が背筋を伸ばした。
「そうか。うちの情報も渡します」
「はい。秘密保持は、基本的にはお互いの大事な情報を守るための条項です」
さくらがホワイトボードに書いた。
秘密保持 片道ではなく、必要に応じて両方向
陽翔がそれを見て言った。
「一方通行の秘密保持、青葉通りならすぐ迷子ですね」
「秘密情報も迷子になります」
みおが資料を抱えて入ってきて、ぽつりと言った。
「迷子になった秘密って、帰ってこないことがありますよね」
応接室が少し静かになった。
陽翔が小声で言った。
「結論の妖精、今日も深い」
みおは首をかしげた。
「また妖精ですか?」
「はい。事務所内資格です」
「そんな資格はありません」
悠真が即答した。
あやのは三ページ目へ進んだ。
「次、検収です」
松永が少し身構えた。
「検収……納品したものを確認してもらうところですよね」
「はい。ここでは、“委託者が成果物を確認し、満足した場合に検収完了とする”とあります」
あやのは赤ペンを置いた。
「満足」
その一言に、事務所の空気が揺れた。
奏汰がヘッドホンを外した。
「満足は仕様ではありません」
陽翔が立ち上がりかけた。
「本日の名言、来ました!」
「座って」
香澄が言った。
悠真が契約書をのぞき込む。
「“満足した場合”は曖昧ですね。検収基準、検収期間、不合格の場合の通知方法、再納品の流れを定めたほうがいいです」
あやのがうなずく。
「納品しても、相手が“まだ満足していない”と言い続けたら、支払いが遅れる可能性があります」
松永は苦笑した。
「満足って、飲食店の口コミみたいですね」
「星五つを取らないと検収されない契約です」
陽翔が言った。
「それはつらい」
「つらいです。しかも、コメント欄に“もう少し何かが足りない”と書かれるタイプです」
「何かって何ですか」
「それを聞くための仕様書です」
りながホワイトボードを持ってきて、検収フローを描き始めた。
納品。 委託者による確認。 検収期間。 不具合がある場合は具体的に通知。 修正。 再確認。 期間内に通知がなければ検収完了とみなす。
「この流れがあると、双方が迷いにくくなります」
りなは言った。
「検収は、気分ではなく基準で行うものです」
「りなさんも名言です」
さくらが嬉しそうに言う。
「今日、名言が多いですね」
陽翔がメモを取る。
「湯呑み候補が渋滞しています」
「湯呑みにしません」
悠真が言った。
あやのはさらにページをめくった。
「次、仕様変更です」
松永の顔が少し強張る。
「そこ、気になっていました。取引先から、たぶん細かい追加が出そうで」
あやのは条文を読み上げた。
「委託者は、必要に応じて仕様の変更または追加を指示できるものとし、受託者はこれに従うものとする」
香澄が静かに湯呑みを置いた。
悠真が眼鏡を直した。
蓮斗が無言で眉を寄せた。
奏汰が小さく言った。
「無限追加の入口です」
陽翔が両手を広げた。
「ようこそ、仕様変更ランドへ。入場無料、退場困難」
「笑えません」
松永が青ざめる。
「本当に笑えないです。前の案件で、“ついでにこの機能も”が十回くらいありました」
「ついでは、積もると山になります」
あやのは赤ペンで大きく丸をつけた。
「仕様変更や追加作業は、手順が必要です。変更内容、納期への影響、費用への影響を確認し、双方が合意してから進める。これを書いておかないと、現場が苦しくなります」
さくらがうなずいた。
「“ちょっとだけ”の積み重ねで、開発担当さんが帰れなくなるんですよね」
奏汰が真顔で言った。
「“ちょっとだけ”は、エンジニアの睡眠を削る単位です」
陽翔がまたメモを取った。
「これも湯呑み候補」
「エンジニアが湯呑みを見るたびに疲れるので却下です」
香澄が言った。
松永は、少し肩を落とした。
「うちの社員も、そういう追加でよく遅くまで残っています。取引先に強く言えなくて」
「強く言う必要はありません」
あやのの声は、やわらかくなった。
「ただ、ちゃんと確認するだけです。これは当初範囲ですか、追加ですか。納期は変わりますか、費用はどうしますか。そういう会話をするために、契約書に手順を書いておくんです」
松永は、黙ってうなずいた。
あやのは最後の問題条項に進んだ。
「次、クラウド障害時の免責です」
陽翔が身を乗り出す。
「出ました。雲の中の責任問題」
悠真が低く言う。
「茶化さない」
「はい」
あやのは条文を指した。
「本システムに障害が生じた場合、受託者は原因の如何を問わず、委託者に生じた損害を賠償する。ただし、委託者の責めに帰すべき事由による場合はこの限りでない」
松永が首をかしげた。
「これは、さっきの損害賠償と似ていますか?」
「似ていますが、クラウド特有の問題があります」
蓮斗が構成図を開いた。
「御社のシステムは、クラウド基盤、外部API、ネットワーク、取引先側の環境にも依存しています。障害が起きたとき、原因がどこにあるか切り分ける必要があります」
奏汰が続ける。
「クラウド事業者側の大規模障害、外部サービスの停止、取引先側の設定ミス、御社のアプリケーション不具合。全部を同じように御社が責任を負うのは危険です」
あやのは赤ペンで線を引いた。
「免責というのは、“何でも責任を逃れる”という意味ではありません。自分でコントロールできない範囲まで、無制限に責任を負わないようにするための整理です」
かなえが契約書を読みながら言った。
「障害時の対応義務と、損害賠償責任は分けたほうがいいですね。原因調査に協力する、復旧に努める、再発防止策を協議する。ただし、クラウド基盤や外部サービスなど、受託者の責めに帰すことができない事由による損害については責任を負わない、または範囲を限定する」
「責任分界線ですね」
みおが言った。
「誰も悪者にしない線引き」
陽翔が嬉しそうに振り向く。
「第4話の名言、再登場」
「第4話?」
松永が不思議そうに聞く。
「いえ、事務所内の歴史です」
香澄が笑ってごまかした。
その後、応接室は赤ペン祭りになった。
あやのが不利な条項を見つける。 かなえが法的な表現を整える。 悠真が責任範囲を冷静に切り分ける。 りなが検収と仕様変更のフローを図解する。 蓮斗がクラウド障害時の原因切り分けを整理する。 奏汰が「満足は仕様ではありません」と再び呟き、陽翔がそのたびにメモを取る。 さくらは付箋を貼り、みおは時々、核心を突く一言を落とす。 香澄は全体を見ながら、松永の不安が大きくなりすぎないよう、言葉を添えた。
契約書は、いつの間にか赤、青、黄色、緑の印でいっぱいになった。
松永はそれを見て、少し引きつった笑みを浮かべた。
「うちの契約書、こんなにツッコミどころがあったんですね」
「契約書は、漫才の台本に似ています」
陽翔が言った。
「どこがですか?」
「ボケを見逃すと、あとで大事故になります」
「契約書のボケって怖いですね」
「はい。笑えないボケです」
あやのは赤ペンを置き、少しだけ表情をやわらげた。
「でも、松永さん。これは、相手が悪いという話ではありません」
「そうなんですか?」
「はい。大きな会社のひな形は、自社を守るために作られていることが多いです。それ自体は自然なことです。でも、そのまま受け入れると、御社にとって重すぎる場合があります」
香澄が続けた。
「契約交渉は、相手を疑うためではありません。お互いが安心して仕事をするための調整です」
松永は、赤ペンだらけの契約書を見つめた。
「正直、契約書に口を出すと、関係が悪くなると思っていました」
悠真が言った。
「何も言わずに始めて、あとで揉めるほうが関係は悪くなります」
その言葉に、応接室が静かになった。
悠真は続けた。
「契約書チェックは、未来の喧嘩を減らす仕事です。今、少し言いにくいことを確認しておくことで、後から大きな対立になるのを防げます」
あやのが、ぱっと悠真を見た。
「悠真さん、それ、私が最初に言いました」
「知っています」
「取られました」
「引用です」
「引用元の表示をお願いします」
陽翔がすかさず言う。
「出典:あやの、青葉通り、午前十時十二分」
「細かい!」
さくらが笑う。
松永も、ようやく声を出して笑った。
笑ったあと、少し真面目な顔になった。
「でも、本当にそうですね。未来の喧嘩を減らす仕事……。うちの社員にも、そう説明したいです。契約書は、社長だけが読むものじゃなくて、現場を守るものでもあるんですね」
「その通りです」
香澄はうなずいた。
「検収が曖昧だと、経理も困ります。仕様変更が曖昧だと、開発現場が困ります。責任範囲が曖昧だと、障害対応のときに全員が困ります。契約書は、現場の人たちの働き方にもつながっています」
あやのは、修正提案を一つずつ整理した。
損害賠償は、範囲と上限を定める。 秘密保持は、必要に応じて双方義務にする。 検収は、基準、期間、不合格時の通知、みなし検収を明確にする。 仕様変更は、変更内容、納期、費用の合意手順を設ける。 クラウド障害時は、原因切り分け、復旧協力、免責範囲、責任分界を整理する。
「このあたりを、相手に相談する形で出しましょう」
あやのは言った。
「戦う感じではなく?」
「はい。殴り込みではなく、道案内です」
陽翔が目を輝かせた。
「殴り込み契約交渉、タイトルとしては強いですね」
「採用しません」
香澄が言った。
松永は、深く息を吐いた。
「来てよかったです。最初は、三十分くらいで確認してもらって、そのまま押印かなと思っていました」
「三十分で押印は、青葉通りの風より危険です」
陽翔が言った。
「風は危険なんですか?」
「書類が飛びます」
「それは確かに困りますね」
あやのは契約書を丁寧にファイルへ戻した。
「松永さん、契約書は、相手と一緒に仕事をするための地図です。でも地図に崖が描かれていなかったら、歩く人が危ないですよね」
「はい」
「今日の赤ペンは、崖に看板を立てる作業です」
みおがうなずいた。
「“ここから先、未来の喧嘩注意”って」
陽翔が吹き出した。
「その看板、ほしいです」
「貼る場所が多そうですね」
さくらが笑った。
打ち合わせが終わるころには、松永の表情はかなり軽くなっていた。
来たときは、大きな取引先に逆らえない小さな会社の社長だった。 帰るころには、自分の会社と社員を守るために、きちんと話をしようとする社長になっていた。
「山崎先生、あやのさん、皆さん。ありがとうございました」
松永は深く頭を下げた。
「相手に失礼にならないよう、でも必要なことはちゃんと伝えてみます」
「その姿勢で十分です」
香澄が言った。
「必要であれば、文案も一緒に整えます」
「お願いします。あと……」
松永は少し笑った。
「“満足は仕様ではありません”も、社内で共有していいですか?」
奏汰がヘッドホンを片手に言った。
「どうぞ。出典は不要です」
陽翔が慌てる。
「いや、出典つけましょう。奏汰、山崎行政書士事務所、午後一時四分」
「いらない」
悠真が言った。
松永が帰ったあと、事務所には赤ペンの余韻が残っていた。
契約書のコピーには、あやのの線がいくつも走っている。 それはまるで、未来で起きるかもしれなかった喧嘩を、一本ずつ先回りして止めているようだった。
香澄は、あやのにお茶を渡した。
「お疲れさま。今日は鋭かったね」
あやのは湯呑みを両手で受け取り、いつもの明るい笑顔に戻った。
「自分でもびっくりしました。条文を見た瞬間、なんかこう、赤ペンが勝手に」
「赤ペンの意思」
陽翔が言った。
「うちの事務所、スリッパだけじゃなく赤ペンにも意思があるんですね」
「そのうち湯呑みにも意思が宿ります」
さくらが言う。
「湯呑みはもう、陽翔くんの印字計画に怯えていると思います」
悠真が言った。
陽翔は胸を張った。
「今日の湯呑み候補は豊作です。“未来の喧嘩を減らす仕事”“満足は仕様ではありません”“ちょっとだけは睡眠を削る単位”」
「最後のは湯呑みに向かない」
奏汰が言った。
「じゃあ、エナジードリンクの缶に」
「もっと向かない」
あやのは笑いながら、赤ペンをペン立てに戻した。
「でも、契約書チェックって、地味な仕事だと思われがちですよね」
香澄が窓の外を見た。
青葉通りの木々が、午後の光に揺れている。ベンチには買い物帰りの人が座り、通りの向こうでは自転車がゆっくり走っていた。
「地味かもしれないね。でも、とても大事な仕事です」
悠真が静かに言った。
「契約書がきれいに整っていても、何も起きない日は誰にも感謝されにくい。でも、その“何も起きない”を作るのが、契約書チェックです」
あやのは、少し黙った。
「何も起きないを作る仕事……」
みおがやわらかく言った。
「未来の誰かが怒らなくて済むように、今の誰かが赤ペンを入れるんですね」
りなはホワイトボードの端に小さく書いた。
未来の喧嘩を減らす仕事。
その文字を見て、あやのは照れたように笑った。
「じゃあ、私は今日、未来にちょっとだけ平和を配ったんですね」
陽翔がすかさず言う。
「契約書チェック係・あやのの逆襲、完結です」
「逆襲って、誰にですか?」
さくらが聞く。
「曖昧な条文に」
「それなら納得です」
悠真が赤ペンだらけの契約書を見ながら、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「曖昧な条文には、確かに逆襲していい」
全員が悠真を見た。
陽翔が震える声で言う。
「悠真さんが、逆襲を認めた……」
「契約書上の表現としてではない」
「でも認めました」
「認めていない」
「議事録に残します」
「残さなくていい」
香澄の笑い声が、事務所に広がった。
その日の夕方、あやのは修正案のファイル名を入力した。
「業務委託契約書_修正提案_未来の喧嘩を減らす版.docx」
悠真が横を通り、画面を見た。
「正式版には向かない」
「ですよね」
あやのは素直にうなずき、ファイル名を変更した。
「業務委託契約書_修正提案案.docx」
しかし、その三分後。
陽翔が共有フォルダに別ファイルを作った。
「契約書チェック係あやのの逆襲_赤ペン総ツッコミ版.xlsx」
あやのが笑い、さくらが吹き出し、奏汰がヘッドホン越しに「タイトルは悪くない」と言い、悠真が無言で削除しようとした。
けれど、香澄が止めた。
「それは、今日の思い出フォルダに移しましょう」
「思い出フォルダ?」
悠真が聞く。
「未来の喧嘩を減らした記録として」
あやのは、少し照れながら笑った。
青葉通りの外では、夕方の風が木々を揺らしていた。 契約書は今日も、誰かの不安を少しだけ軽くする。 赤ペンは今日も、未来の喧嘩を一本ずつ減らしていく。 そして山崎行政書士事務所では、明るいあやのが、曖昧な条文にそっと逆襲する。
ただし翌朝、陽翔の机の上に置かれていた赤ペンには、あやのの字で小さな付箋が貼られていた。
「勝手に湯呑みに印字したら、赤ペンで総ツッコミします」
陽翔はそれを見て、静かに赤ペンを戻した。
悠真は満足そうにお茶を飲んだ。
青葉通りの契約書は、今日も笑う。 少し赤ペンの跡を残しながら。





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