第60章 内と外の間、名の揺れ――混ざるほど「わたしたち」が難しくなる
- 山崎行政書士事務所
- 2月14日
- 読了時間: 10分

第四部「道の骨、東の光」
第60章 内と外の間、名の揺れ――混ざるほど「わたしたち」が難しくなる
「わたしたち」は、湯気に似ている。
近づけば、あったかい。
掴もうとすると、指の間から逃げる。
——だから“わたしたち”は、握るものじゃない。
せいぜい椀の縁に置いて、飲むものだ。
「……“わたしたち”ってさ」
ナガタが言った。
空の湯呑みを机の上で転がす。ころん、と軽い音。軽い音がするのに、題だけは重い。
「言った瞬間、誰かが“あなたたち”になるじゃん。
“内”って言った瞬間、外ができる。
外ができたら、夜が増える。……嫌だな」
「嫌だ」
私は硯の水を替える。
今日は水を少し澄ませる。澄んだ水で書けば、黒が濁りすぎない。濁りすぎる黒は、すぐ縄になる。
ナガタが眉を寄せる。
「海口(うみくち)作って、湯気吸って、葉流して……って、
流す作法で国境っぽいの作ったじゃん。
でも“誰が内か”は、結局残るだろ」
「残る」
私は頷く。
「残るし、増える。混ざるほど増える。混ざると便利が増える。便利が増えると正しさが増える。正しさが増えると、“わたしたち”を固めたくなる」
「固めた瞬間、割れるんだよな」
「割れる」
私は筆先を整える。
「だから固めない。**間(あわい)**を作る。“内”と“外”の間。間があると、言葉が息をできる」
ナガタが、例の顔で言う。
「間って、曖昧?」
「曖昧じゃない」
私は首を振る。
「手間だ。作法だ。湯気だ。返す場所だ。戻れる道だ」
「で、久米が“汁は国籍不問”とか言い出す」
「言い出す」
私は即答した。
「でも今日は笑いだけで済まない。混ざると、血の話が出るから」
最初の一行を置く。
——一書曰く、海口ひらけて人と詞(こと)混ざるに、衆「内・外」を固めんとし、危ふく名を縄とせり。伊波礼毘古命、間(あわい)を置きて“わたしたち”をほどきたまふ。
海口(うみくち)ができてから、難波(なにわ)の津は“口の音”が増えた。
物を運ぶ音。
綱が鳴る音。
塩が撒かれる音。
湯気が立つ音。
そして――笑い声。
笑い声が増えると、国は少し楽になる。
楽になると、次に人は“安心”を欲しがる。
安心を欲しがると、境界を欲しがる。
境界を欲しがると、名札を欲しがる。
名札は、軽い。
軽いから怖い。
軽いものほど、人に貼りつく。
ある日、海口の縄の前で、東から来た若い職人が、ぽつりと言った。
「……ここから先は、内か?」
内か。
その問いは、罰より乾くときがある。
罰は首を探すが、内は“心”を探す。
心を探す目は、時々刃より鋭い。
若い職人の名は、砂緒(いさお)と名乗った。
東詞(あずまこと)の弟子だ。
声はまだ乾ききっていない。
乾ききっていない声は、戻れる声だ。
潮麻呂(しおまろ)が答える前に、久米(くめ)が割り込む。
「内だ!」
「汁を飲むなら内だ!」
「飲め!」
「今、飲む話じゃない」
大久米(おおくめ)が久米をどかす。
だが久米の勢いは、完全には悪じゃない。
“内=血”になりかけるとき、久米の“内=汁”は救いになる。
砂緒が困った顔で言った。
「……汁は飲む。旨い。
でも俺の仲間は、内に入ると、外でなくなるのか」
外でなくなるのか。
その問いも痛い。
外を捨てて内に入れ、と言い始めた瞬間、内は宗教になる。
宗教になった内は、すぐ刃を呼ぶ。
布留(ふる)が、筆を握りしめそうになって――やめた。
握りしめると、字が王になるのを知っているからだ。
薄火(うすび)の女が、湯気を足して言う。
「……内に入ると、外が消えるわけじゃないです。
外は、息の匂いとして残ります」
匂いとして残る。
この国の言い方だ。
匂いなら、貼りついても身分になりにくい。
だが、世の中は匂いだけでは回らない。
その日の夕方、倉の前で揉めが起きた。
返倉(かえしぐら)に預けた米が出される日。
割符(わりふ)が噛み合い、平石(ひらいし)の上で量られる日。
皆の言葉で開き、沈黙で閉じる日。
そこへ、東の者が二人、並んで来た。
「うちも、預けたい」
預けたい。
言葉としては美しい。
だが“うちも”が、喉を刺す。
上の田の者が、すぐ言った。
「うち? うちって言ったか?
お前らは“うち”じゃない」
空気が、きゅっと締まる。
締まると、縄が首を探し始める。
下の田の者が言う。
「いや、預けたいなら預ければいい。
手を返すなら、同じだろ」
同じ。
同じは、いつも優しい顔をして揉めを連れてくる。
東詞が、乾いた声で言った。
「契がある。印もある。
なら、うちはうちだ」
“うち”を、印で言う。
乾いた国の言い方だ。
便利だが怖い。
便利は、心を置き去りにする。
久米が叫ぶ。
「心の話なら汁だ!」
「汁に心はある!」
「汁はみんなのうちだ!」
「黙れ!」
……うるさい。
だがここから先は、うるささだけでは止まらない。
上の田の者が、ついに言った。
「血が違う」
血。
出た。
混ざるほど、出る。
血が出ると、“わたしたち”が固まりたがる。
固まった“わたしたち”は、刃を呼ぶ。
布留の手が震えた。
この言葉を黒にすれば、百年残る。
残る血は、縄になる。
薄火の女が、静かに湯気を足す。
湯気が立つ。
湯気が立つと、喉が戻る。
喉が戻ると、言葉が少し長くなる。
伊波礼毘古(いわれびこ)が、その場に来た。
都の背中。
盆地の重さを持って、津の乾きを受け止める背中。
彼は血の言葉を叱らなかった。
叱ると、血は夜へ隠れる。
隠れた血は刃になる。
代わりに、伊波礼毘古は短く言った。
「血は、川へ返せ」
川へ返せ。
皆が息を呑む。
血を川へ?
汚れの章の作法が、ここでも出てくる。
伊波礼毘古は続けた。
「血は、定義にすると縄になる。
縄になる前に、流れへ返せ」
流れへ返せ。
そして、ここからが肝だった。
「内と外の間に、“間(あわい)”を置く」
翌日、津の市の丸い石の円の隣に、もう一つの円が作られた。
石の円は二つになると、目に見えて“国の癖”になる。
一つの円は市だ。
もう一つの円は――間の円。
布留が札に刻む。
「間口(あわいぐち)」
間口。
入る口でもない。
出る口でもない。
“通う口”。
伊波礼毘古が言った。
「海口で湯気を吸った者は、ここへ来い。
ここで名を借りろ。
名を借りた者だけが、倉の言葉に触れられる」
名を借りる。
血ではなく、名を借りる。
借りた名は返せる。
返せる名なら、身分になりにくい。
久米が、嬉しそうに叫ぶ。
「名を借りるなら俺も借りる!」
「俺は“汁守(しるもり)”だ!」
「そんな役はない!」
「作れ!」
「作るな!」
……久米を止める声が、場を少し軽くする。
軽いと、血の話が重くなりすぎない。
間口には、葉が置かれた。
榊の葉、葦の葉、椿の葉。
紙ではない。
残らない名にするためだ。
葉には、二つの字だけ書ける。
**「内」と「外」**ではない。
伊波礼毘古が選んだのは、これだった。
「通」と「戻」
通う。
戻る。
この二つは血の字じゃない。
道の字だ。
道の字は、人に貼りつきにくい。
布留が、小さく付け足す。
一書曰く、通は客(まろうど)
一書曰く、戻は家(いへ)
一書曰く、客と家は入れ替はる
客と家は入れ替わる。
ここに余白を入れるのが、この国だ。
伊波礼毘古は言った。
「“通”の葉を取る者は、海口の作法を守る者。
“戻”の葉を取る者は、倉の沈黙を守る者。
どちらも守れる者は——内と呼ばれる日が来る」
“呼ばれる日が来る”。
決めない。
今決めると縄になる。
未来に“呼ばれる”余白を残す。
余白があると、国は折れにくい。
砂緒(いさお)が、最初に“通”の葉を取った。
震える手。
震えは恐れ。恐れは正直。
正直な恐れは、作法を守れる。
砂緒は言った。
「……通」
それだけ言って、葉を胸に当て、間口の箱へ入れた。
入れる音は小さい。
小さい音は、勝利の音にならない。
勝利の音にならない名は、身分になりにくい。
次に、港守(みなとり)の男が“戻”を取った。
「……戻」
言って、葉を入れる。
その瞬間、上の田の者がぽつりと言った。
「……戻れるなら、内か」
内か。
言葉が、少しだけ柔らかくなった。
血ではなく、戻るで言ったからだ。
戻るで言う内は、刃になりにくい。
東詞は、まだ納得していない顔をしていた。
乾いた国の男は、揺れが苦手だ。
揺れは、罰を遅らせるからだ。
東詞が言った。
「それで、盗む者はどうする」
盗む者。
罰の話が戻ってくる。
乾いた国の骨だ。
伊波礼毘古は頷いた。
「盗む者は、海口へ戻す。
祓の湯気へ戻す。
戻れぬなら、外になる」
外になる。
ここで初めて“外”が出た。
だが外は血ではなく、作法の外だ。
「外は悪ではない。
外は、まだ通う葉を持たない者だ。
持ちたいなら、海口で湯気を吸え」
湯気を吸え。
喉を戻せ、ということだ。
喉が戻れば、言葉が噛める。
噛めれば、作法が守れる。
守れれば、通える。
外を、戻れる道に置く。
それがこの国の“国境”だ。
その夜、嵐が来た。
春の終わりの嵐は、海の機嫌が悪い嵐だ。
波が高い。綱が鳴る。
火が叩かれる。
海口の縄が、ぎし、と鳴った。
ぎし、は嫌な音だ。
嫌な音は、血の言葉を呼び戻す。
「壊れるぞ!」
「縄が切れたら外が入る!」
「外が入ったら汚れだ!」
「汚れたら誰が責任だ!」
責任。
責任は、名札を欲しがる。
その瞬間、砂緒が走った。
東の若い職人。
乾ききっていない声の男。
彼は、縄を掴んだ。
掴んだが、首を締める掴み方ではない。
杭を守る掴み方だ。
潮麻呂が叫ぶ。
「手を貸せ!」
山口守が薪を投げる。
「杭を打て!」
薄火の女が火を守る。
「湯気を切らすな!」
久米が叫ぶ。
「汁を煮ろ!」
「今それどころじゃない!」
「それどころだ! 湯気がないと喉が死ぬ!」
「……確かに!」
……久米の“確かに”が出た夜は、だいたい助かる。
嵐の中、砂緒は縄を引き、杭を支え、波を受け止めた。
受け止めるのは海じゃない。
作法だ。
作法を受け止める手は、血より内に近い。
港守の男も走った。
戻の葉を持つ男。
彼は綱を結び直す。
結び直す。
結び直せる手は、国を長くする。
東詞は、一歩遅れて動いた。
乾いた国の男が、湿った海口で、手を動かす。
それは、彼にとって“翻し”だった。
嵐が少し引いたころ、海口の縄は切れなかった。
切れなかったのは、縄が強いからじゃない。
手が混ざったからだ。
混ざった手は、夜を短くする。
夜明け、海口の火の前で、伊波礼毘古は言った。
「昨夜、海口を守った者を、名で呼ばぬ」
名で呼ばぬ。
皆が驚く。
功績は名を欲しがる。
名が欲しい者は多い。
だが功績が名札になると、また身分になる。
伊波礼毘古は続けた。
「名で呼ぶと、名が王になる。
王になった名は、血を呼ぶ。
血は夜を呼ぶ」
そして、代わりにこう言った。
「昨夜の者は、**“わたしたち”**だ」
わたしたち。
その言葉が、今朝は刃にならなかった。
なぜなら、“わたしたち”は血で決められていないからだ。
昨夜の手で決まったからだ。
上の田の者が、砂緒に向かって、ぎこちなく言った。
「……お前、うちの湯気を知ったな」
うちの湯気。
血じゃない。
湯気だ。
砂緒が、少し笑って答えた。
「湯気は、刺さらない」
刺さらない。
布留が、震える手で札に刻む。
一書曰く、内とは血にあらず
一書曰く、内とは手の作法なり
一書曰く、作法は返せる
一書曰く、返せるものを“わたしたち”といふ
返せるものを、わたしたち。
いい。
だが結論にしない。
結論にすると縄になる。
だから“一書曰く”で置く。
東詞が、火の前でぽつりと言った。
「……乾いた国では、内は線だ。
湿った国では、内は湯気か」
久米が即答する。
「そうだ!」
「湯気は汁だ!」
「汁は国籍不問だ!」
「お前は黙れ!」
「黙れは沈黙だ!」
「沈黙も汁だ!」
「違う!」
……違うが、笑いが起きた。
笑いが起きると、“わたしたち”は少しだけ湯気に戻る。
湯気に戻ると、掴もうとする指が緩む。
緩むと、誰かの喉が息をできる。
混ざるほど難しくなる“わたしたち”は、
こうして少しずつ、作法の匂いをまとう。
血ではなく。
壁ではなく。
縄でもなく。
湯気のように。
触れれば温かい、しかし握れないものとして。
私は筆を止めた。
ナガタが、しばらく黙ってから言った。
「……“内=血”にしないで、
“内=戻れる”とか“内=作法”にしてくの、いいな」
「血は流れに返すのがこの国だ」
私は頷く。
「固めると縄になる。縄になると首を探す。首を探すと夜が増える。だから間を置く」
ナガタが、嵐のところで笑う。
「久米、緊急時にまで汁言うの草」
「湯気の重要さだけは正しい」
私は言った。
「喉が死ぬと、言葉が刃になる。刃になると“わたしたち”が割れる」
硯の水を替える。
次の水は、もっと冷たい。
“わたしたち”が作法になっても、次に必ず来るものがある。
——取り分だ。
混ざった手は、やがて取り分を欲しがる。
取り分の話は、笑いだけでは済まない。





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