第61章 取り分の影、功の名札――“わたしたち”が割れる一歩手前で
- 山崎行政書士事務所
- 2月14日
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第四部「道の骨、東の光」
第61章 取り分の影、功の名札――“わたしたち”が割れる一歩手前で
功(こう)は、干した魚に似ている。旨い。だから取っておきたくなる。取っておくと、匂いが変わる。匂いが変わると、誰かが鼻で人を選び始める。——だから功は、食べて終えろ。いや、この国では——結んで、返せ。
「……“功績”ってさ」
ナガタが言った。机の上で、空っぽの湯呑みを指でくるりと回す。回るものを見ていると、人はだいたい安心する。安心すると、人は次に“順位”を欲しがる。
「せっかく嵐で手が混ざって、“わたしたち”になったのに、次の日から“誰が一番だった?”って始まるんだよな」
「始まる」私は硯の水を替える。今日は水を多めにする。功の話は黒を濃くすると、すぐ“札”が刃になる。
ナガタが眉を寄せる。
「で、札ができる。名札ができる。名札ができると、取り分ができる。取り分ができると、また夜が増える」
「増える」私は頷いた。「功は甘い。甘いものほど腐りやすい。腐る前に、湯気を通して、返す形に変える」
ナガタが、例の顔になる。
「久米が“功汁”とか言うのは確定だな」「確定だ」私は即答した。「だが今日は笑いだけじゃ止まらない。功の名札は、血より静かに国を割る」
筆先を整える。最初の一行を置く。
——一書曰く、嵐の後、衆、功を取り分にせんとして名札を欲し、危ふく“わたしたち”を裂きぬ。ここに伊波礼毘古命、功を結び目として返したまふ。
嵐の翌朝、海口(うみくち)は静かだった。
静かな海は、優しい顔をしている。優しい顔をしている海ほど、怖いときがある。優しさの下で、人の欲がよく見えるからだ。
海口の縄は、昨夜の手で守られて、まだ切れていない。杭は少し傾いたが、傾いたぶんだけ“戻せる”匂いがする。戻せるものは、国を長くする。
火の輪では、薄火(うすび)の女が湯気を立てていた。湯気は、夜明けの青さに混ざって白くほどける。ほどける湯気は、“わたしたち”の形に似ている。掴めないのに、温かい。
その温かさの中へ、別の匂いが入り込んだ。
紙ではない。木札でもない。薄い竹の札。乾いた黒。そして——印。
東詞(あずまこと)が、細い札の束を持っていた。顔は相変わらず乾いている。乾いているが、昨日より少しだけ目が柔らかい。柔らかい目は、湯気を一回通した目だ。
東詞の後ろに、砂緒(いさお)が立つ。嵐の夜、縄を掴んだ若い手。手の甲に、まだ潮の擦れが残っている。擦れは、名札より誠実だ。
上の田の者が、先に口を開いた。
「昨夜の功(こう)を、決めよう」
決めよう。
その言葉の乾きに、潮麻呂(しおまろ)の眉が少し動く。布留(ふる)の喉が、きゅっと縮む。縮む喉は、筆を固くする。固い筆は刃になる。
下の田の者が言った。
「決めるなら、平石の上で決めろ。誰が何をしたか、見えるように」
見えるように。
見えると、公平に見える。でも“見える”は、ときどき“見せた者が勝つ”に変わる。勝つと、取り分になる。取り分になると、夜が増える。
東詞が、そこで言った。
「“賞(しょう)”だ」
賞。
乾いた声で言う“賞”は、罰より甘い。甘い言葉ほど、すぐ腐る。腐ると、甘さが毒になる。
東詞は続けた。
「功のある者に、賞札を渡す。賞札には印を押す。次の取引で、先に受け取れる。倉から先に返される。……そうすれば、働く者が増える」
働く者が増える。
理屈は正しい顔をしている。正しい顔の理屈ほど、怖い。
上の田の者が頷きかける。頷きかけた瞬間、下の田の者の目が曇る。
曇る目は、こう言う。
——また札で決まるのか。——また印で決まるのか。——また“うちは遅い”のか。
砂緒が小さく言った。
「……俺、昨夜は“わたしたち”だって言われた」
その一言が、火の輪の空気を少し湿らせた。湿ると、刃が起きにくい。
久米(くめ)が、待ちきれずに叫ぶ。
「賞だって!?賞汁だ! 功汁だ!功のある者は汁が二杯だ!」
「二杯にするな!」大久米(おおくめ)が即座に叱る。
「えぇ! でも功だぞ!」「功は腹じゃない!」「腹も功だ!」「黙れ!」
……うるさい。だがこのうるささが、賞を“神の札”にしない。神の札になると、世襲する。
問題は、もう起きていた。
誰かが、名札を作っていたのだ。
小さな板。端に穴をあけ、紐で首から提げられる板。そこに、太い字で刻まれている。
「海口守」「火守」「縄守」
そして、一番小さく——**「功」**の字。
板を提げた若者が、得意げに歩いていた。得意げな背中は、痛い。痛いのは、背中が“取り分”の匂いを背負っているからだ。
「あれが昨夜の者だ」「あれは“内”だ」「名札があるから内だ」「じゃあ名札のない俺は外か」
……ここだ。“わたしたち”が割れる一歩手前。
布留の手が震えた。書き手は知っている。名札は、木より長生きする。木は腐るが、名札は人の口に残る。口に残った名札は、血より頑固だ。
薄火の女が、湯気を足す。湯気が増えると、喉が少し戻る。
潮麻呂が、板を見て言った。
「……海の匂いが、乾くな」
乾くと、潮が苦くなる。苦い潮は、喧嘩を起こしやすい。
山口守(やまぐちもり)が、短く言う。
「板は燃える。だが板の話は燃えない」
燃えない話が怖い。燃えない話は、夜に残る。
東詞が、板を見て言った。
「便利だ。見れば分かる。分かれば早い」
早い。
早い国は短い。短い国は、夜が長い。
そのとき、伊波礼毘古(いわれびこ)が来た。
都の背中。盆地の湿りを背負って、海の乾きへ入ってくる背中。
彼は板を見て、すぐに叱らなかった。叱ると、板は夜へ隠れる。隠れた板は刃になる。
伊波礼毘古は、ただ言った。
「功が、首に来ている」
首に来ている。
その言い方で、皆が板の紐を見る。首に掛かった功。それはもう、縄の匂いだ。
伊波礼毘古は続けた。
「功は、首に掛けるものではない。功は——結ぶものだ」
結ぶ。
結ぶと聞いた瞬間、潮麻呂の目が少し明るくなる。結ぶのは海の言葉だからだ。
伊波礼毘古は、海口の縄のところへ歩き、昨夜の補修に使った綱の端を手に取った。
綱は、昨日より少し硬い。硬いのは潮の塩が乾いたからだ。乾いた塩は、結び目を強くする。
伊波礼毘古は言った。
「昨夜の功を、取り分にするな。取り分にすると、“わたしたち”が割れる」
割れる。
「昨夜の功は、名札にするな。名札にすると、功が王になる」
王。
「昨夜の功は——海口の縄に返せ」
返せ。
また呪文。
皆が息を呑む。
「縄に返す?」「どうやって?」「結び目だ」
伊波礼毘古は言った。
「昨夜、縄を掴んだ者は、その手で結べ。結び目は名ではない。結び目は——**手の痕(あと)**だ」
手の痕。
痕は残る。だが名札ほど残らない。痕は、誰かを“身分”にしにくい。
伊波礼毘古は、名札の板を持つ若者に言った。
「板を外せ」
若者が、びくりとする。外すのは、恥だ。恥は夜に刃を育てる。だから外し方が大事だ。
伊波礼毘古は付け足した。
「外すのは罰ではない。外すのは——返しだ」
返し。
返すなら、恥じゃない。恥は夜へ行くが、返しは昼に残る。
若者は、ゆっくり板を外した。板が手の中で軽い。軽い板が、急に怖く見える。軽いものほど、人を刺す。
伊波礼毘古は板を火の前へ持っていかず、箱へ入れた。
燃やさない。
燃やすと、勝ち負けになる。燃やすと、板の側が“悪”になる。悪にすると、夜が増える。
箱に入れる。返す箱。役を返す箱と同じ匂いの箱。
「板は、次の潮で海へ返す。名札は、海に溶かせ」
海に溶かせ。
海は返す。だが返す前に揉む。揉まれた名は、身分になりにくい。
結び目の儀(ぎ)は、すぐ始まった。
儀と言っても、歌ほど華やかじゃない。倉の沈黙ほど硬くもない。
ただ、手が動く儀だ。
まず、砂緒が前へ出た。
嵐の夜、縄を掴んだ手。東の手。通(つう)の葉を取った手。
砂緒は綱を握り、結び目を作った。
結び目は、上手ではない。上手じゃない結び目は、嘘をつきにくい。嘘をつきにくい形は、国を長くする。
次に、港守(みなとり)の男が出た。
戻(もど)の葉を取った男。綱を結び直した男。
彼の結び目は、妙に綺麗だった。綺麗な結び目は、罪の匂いを洗った結び目だ。洗いすぎると嘘になる。だが今日は、綺麗さが“戻った手”の証になる。
潮麻呂が出た。
海の結びは速い。速いのに乱れない。波の手つきだ。
山口守も出た。
森の結びは遅い。遅いのに強い。根っこの手つきだ。
薄火の女が出た。
火の手は、結び目を焦がさない。焦がさないのに、ほどけにくい。湯気の手つきだ。
最後に、久米が出た。
「俺もだ!俺も昨夜、叫んだ!叫びの功だ!」
「叫びは功じゃない」大久米が言う。
「叫びは……湯気を守る功だ!」薄火の女が、笑って言った。
久米が得意げに結ぶ。結び目が、ぐちゃぐちゃだ。ぐちゃぐちゃなのに、なぜかほどけない。ほどけないのが腹立つ。腹立つほど、役に立つ。
皆の結び目が、海口の縄に増えていく。
結び目が増えると、縄が少し重くなる。重くなると、海が引っ張っても簡単には動かない。動かないのは壁じゃない。皆の手が、そこにあるからだ。
伊波礼毘古は言った。
「これが、昨夜の功だ。功は、誰の首にも掛からない。功は、皆の境界になる」
境界になる。
その言葉で、取り分の匂いが少し薄まった。名札の匂いが、少し薄まった。
だが腹は、まだ納得していない。
上の田の者が言った。
「結び目は分かった。だが……取り分は?」
取り分。
やはり来る。来るのは悪ではない。腹は、いつも正直だ。正直な腹を無視すると、腹が夜に化ける。
東詞が頷く。
「そうだ。功があるなら、報(むく)いが要る」
報い。
乾いた“報い”は、功を売り買いにする。売り買いになった功は、身分になる。身分になると、血が出る。
伊波礼毘古は、そこで“報い”を消さなかった。消すと甘くなる。甘いと夜が増える。
代わりに、形を変えた。
「報いは、物ではなく——役にせよ」
役。
皆がざわつく。
「役?」「また働けってことか?」「それは罰じゃないのか?」
伊波礼毘古は首を振った。
「罰ではない。功を受け取った者は、次の潮まで——椀を配れ」
椀を配れ。
薄火の女が、少し驚いた顔をする。そして、すぐ理解して笑った。
椀を配る者は、先に飲まない。先に飲まない者は、偉くなりにくい。偉くなりにくい報いは、身分になりにくい。
伊波礼毘古は続けた。
「昨夜、海口を守った者は、今日の湯気を守れ。湯気を守った者は、皆の喉を守れ。喉を守った者は、次の争いを減らせ」
功を、責任に返す。責任は重い。重いから、私物にしにくい。
久米が叫ぶ。
「椀を配る!?最高だ!汁を配るのは俺の夢だ!」
「配っても飲むな」薄火の女が言う。
「飲まない!?地獄だ!」
「地獄が功だ」山口守が、ぼそりと言った。
……笑いが起きる。笑いが起きると、取り分の刃が少し丸くなる。
その日、海口の火の前で、汁が煮えた。
いつもの港の汁。塩。草。魚の端。芋。端っこ同士の汁。
だが今日は、味が違った。
なぜなら、椀を配る手が違うからだ。
砂緒が配る。港守の男が配る。潮麻呂が配る。薄火の女が配る。久米が配る(配り方が雑)。
配る手は、少し照れている。照れる手は、偉くならない。偉くならない手は、夜を増やしにくい。
上の田の者も、下の田の者も、同じ湯気を吸う。湯気を吸うと、喉が戻る。喉が戻ると、言葉が刺さりにくい。
東詞が、黙って椀を受け取った。
乾いた国の男が、椀を受け取る。その姿は、どこか翻(ひるがえ)って見えた。
東詞がぽつりと言った。
「……功が、札にならないのは不便だ」
伊波礼毘古が答える。
「不便は、夜を短くすることがある」
不便は手間を生む。手間は作法になる。作法は、血より“わたしたち”を長持ちさせる。
東詞が、少し笑って言った。
「湿った国は、面倒で強い」
潮麻呂が頷く。
「潮も面倒だ。だが面倒だから、魚が戻る」
布留が、その夜の記録を刻んだ。
一書曰く、功を名にせず一書曰く、功を結び目にす一書曰く、結び目は皆の境なり一書曰く、報いは椀を配る役なり
“椀を配る役”。
いい。功が取り分ではなく、手間へ戻る。手間へ戻る功は、世襲しにくい。
そして、布留は最後に小さく足した。
一書曰く、功を欲しがる心もまた濁り一書曰く、その濁りは湯気にて祓はる
濁りは悪ではない。溜まると腐るだけだ。だから湯気で抜く。
翌朝、名札の板は箱に入ったまま、海口の縄のそばへ運ばれた。
満潮。潮が上がる。海が、口を開く。
伊波礼毘古は、皆に言った。
「開け」
皆が言う。
「開け」
そして箱が、海へ返された。返された板は、潮に揉まれる。揉まれた名は、身分になりにくい。
久米が、ちょっと泣きそうな顔で叫ぶ。
「俺の名札、作ってないけど、なんか寂しい!」
「寂しいなら、椀を配れ」薄火の女が笑って言った。
「配る!配って、褒められたい!」「褒められたいは、葉に書いて川へ流せ」「えぇ!」
……うるさい。でもこのうるささが、功を神にしない。
海口の縄は、結び目で少し太くなっていた。太くなった縄は、昨夜より“わたしたち”に近い。
功が結び目として返された国は、取り分の影に飲まれずに済む夜を、一つ増やした。
私は筆を止めた。
ナガタが、結び目のところを指で叩く。
「……功を名札にしないで、結び目にするの、めちゃくちゃいいな。“俺の功”じゃなくて、“境界の強さ”になる」「功が境界になると、首を探さない」私は頷いた。「首を探さない国は、夜が短い」
ナガタが笑う。
「久米、功で汁配りたいの、分かるけど最悪」「最悪だが役に立つ」私は言った。「欲しいを昼に出せるなら、夜に盗まないで済む」
硯の水を替える。次の水は、少し鋭い。功が名札にならなくても、人は次に“物語の功”を欲しがる。誰が語った、誰が決めた——筆の功だ。





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