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第62章 誉れの声、筆の取り分――語りを褒めた瞬間に起きること


第四部「道の骨、東の光」

第62章 誉れの声、筆の取り分――語りを褒めた瞬間に起きること

誉(ほま)れは、湯気に似ている。あたたかい。けれど、溜めると曇る。——誉れは胸を温め、同時に影を濃くする。だからこの国は、誉れを“煙”にして返す。返された誉れは、墨になって、また誰かの余白になる。

「……褒めるのって、危ないよな」

ナガタが言った。湯呑みの底を見て、そこに“いい言葉”が溜まっているみたいな顔をする。溜まっているものは、だいたい次の揉めだ。

「褒められる側も、褒める側も、どっちも気持ちいいじゃん。気持ちいいって、だいたい中毒だよな。で、気づいたら“褒められない人”が出る」

「出る」私は硯の水を替える。今日は水を少し多めにする。誉れの黒は濃くすると、すぐ縄になる。

ナガタが眉を寄せる。

「功(こう)は結び目にして返したけどさ、“語りの功”ってもっと厄介じゃない?物より残るじゃん。声って」

「残る」私は頷いた。「声は喉に残る。喉に残った誉れは、次に“取り分”を作る。取り分を作った誉れは、血より静かに国を割る」

「最悪じゃん」「最悪だ」私は即答する。「だから誉れも返す。返し方は——湯気じゃなく、今日はだ」

ナガタが目を細める。

「煙?」「煙は残らない顔をして、ちゃんと残る」私は筆先を整える。「夜のすすになって、墨になる。誉れを墨に戻せば、誉れは“人”のものじゃなく、“余白”のものになる」

ナガタが、例の顔で言う。

「で、久米が“誉汁”とか言うな」「言う」私は即答した。「それで咳き込む。誉れは目に染みるから」

最初の一行を置く。

——一書曰く、誉れの声あがるとき、筆の影また伸びぬ。伸びた影、取り分を呼ぶ。伊波礼毘古命、誉れを煙に返し、墨として余白に混ぜたまふ。

嵐の結び目の翌日、語りの市は妙に賑わった。

海口(うみくち)の縄に結び目が増え、功が首に来ずに済んだ、という話は、潮より早く都へ戻った。戻る話は、腹を温める。腹が温まると、人は次に“誰のおかげ”を欲しがる。

欲しがる、は悪じゃない。悪じゃないが、放っておくと名札になる。

火の輪の前に、布留(ふる)が立った。

割った書の札――書の割符(わりふ)を手に持ち、昨日の記録を読み上げる。

一書曰く、功を名にせず一書曰く、功を結び目にす一書曰く、報いは椀を配る役なり

読み上げられた言葉は、喉へ戻る。喉へ戻ると、字は刃になりにくい。

読み終えたあと、沈黙。

沈黙は、閉倉(へいそう)の沈黙と同じだ。殴る沈黙じゃない。夜に増殖する言葉を止める沈黙だ。

沈黙のあと、湯気。

薄火(うすび)の女が鍋を寄せる。湯気が立つ。湯気が立つと、喉が戻る。

……ここまでは、いつも通りだった。

問題は、次に起きた。

誰かが、拍手をしたのだ。

ぱん。

一つ。

ぱん、ぱん。

二つ。

そして拍手が、波みたいに広がった。

拍手は、海の音に似ている。似ているが違う。海の音は誰のものでもない。拍手は、誰かのものになりやすい。

上の田の者が声を張った。

「布留殿の筆は見事だ!あの字があったから、昨夜の功が縄にならずに済んだ!」

誉れ。

誉れの声が、火の輪の上で踊る。踊る誉れは、気持ちいい。気持ちいい誉れは、次に“取り分”になる。

下の田の者も言った。

「布留殿、うちの苦い腹を字にしてくれてありがとう。字にしてくれたから、夜に盗まないで済んだ」

ありがとう。

この言葉も甘い。甘い言葉は、すぐ腐ることがある。腐る前に風を通す必要がある。

布留は、顔を赤くした。赤いのは嬉しいからだ。嬉しいのは悪じゃない。だが嬉しさは、抱えると重くなる。

重くなった嬉しさは、筆を王にする。

久米(くめ)が、待ちきれず叫んだ。

「そうだ! 布留はすげえ!でも俺もすげえ!俺の“一書曰く、汁うまし”も書け!」

「書くな!」大久米(おおくめ)が即座に叱る。

「なんでだよ!誉れだぞ! 誉れはみんなのものだろ!」「誉れを自分で取りに行くな!」「取りに行くなら汁だ!」「黙れ!」

……うるさい。だが、久米がうるさいのは救いでもある。誉れが“静かな宗教”になる前に、笑いで崩せるからだ。

東詞(あずまこと)が、乾いた顔で布留を見た。

「……良い筆だ。なら、賞(しょう)を与えよ」

賞。

来た。乾いた国の便利な甘さ。

東詞は続けた。

「布留に賞札を。印を。布留が書いた札は、常に先に採る。布留の声は、常に正とする」

常に正。

その言葉の乾きが、火の輪を一瞬冷やした。常に、は王の言葉だ。王の言葉は便利だが、便利な王はすぐ刃を呼ぶ。

布留が、息を呑む。

「常に正」なんて、言われたくない。正しさは、背負うと首に来る。首に来た正しさは、夜に恨みを育てる。

饒速日(にぎはやひ)が、風上で小さく言った。

「影が伸びる」

筆の影が伸びる。伸びた影は、必ず誰かを冷やす。

案の定、冷えた者が出た。

若い書き手が、ぽつりと言った。

「……じゃあ俺は、何を書く」

その声は小さい。小さい声は、夜へ行きやすい。夜へ行った小さい声は、刃になる。

別の者が言う。

「布留だけが褒められるなら、布留だけが“内”だ」「内が筆で決まるなら、海口の湯気は何だった」「湯気はただの汁だ」「汁は関係ない!」

……“ただの汁”と言われて、久米が怒りかける。怒る久米は危ない。でも怒りが出るのも悪ではない。怒りは、溜めると腐るだけだ。

布留の周りに、見えない線が引かれ始める。

布留派。そうじゃない派。

派ができると、国が短くなる。短い国は夜が長い。長い夜は刃が起きる。

伊波礼毘古(いわれびこ)が、火の輪へ来た。

都の背中。盆地の重さを持って、誉れの甘さを受け止める背中。

彼は拍手を止めろとは言わない。止めると、誉れが夜へ隠れる。隠れた誉れは毒になる。

代わりに、短く言った。

「誉れを、溜めるな」

溜めるな。

「誉れは湯気に似る。溜めると曇る。曇ると影が増える。影が増えると、誰かが冷える」

そして続けた。

「誉れは——返せ」

返せ。

また呪文。この国は困ると返す。

東詞が眉を寄せる。

「誉れを返す?誉れは声だ。声は返せぬ」

伊波礼毘古は首を振った。

「返せる。声を——煙にする」

その日の夕暮れ、火の輪のそばに、もう一つ小さな火が立てられた。

祭の火ではない。倉の火でもない。海口の火でもない。

誉火(ほまび)

誉れを返す火。誉れを溜めない火。

薄火の女が、静かに薪を置く。薪は乾きすぎないもの。湿りすぎないもの。ちょうど湯気が立つ程度の薪。

布留が、葉の束を持ってきた。

榊の葉。葦の葉。椿の葉。

紙ではない。紙だと残る。残る誉れは名札になる。

伊波礼毘古は言った。

「褒めたい者は、葉に書け」

葉に。

「だが“誰を褒めるか”は書くな」

皆が顔を上げる。

「誰を褒めるかを書けば、誉れが人に貼りつく。貼りついた誉れは、取り分になる。取り分になった誉れは、国を割る」

代わりにこう言った。

「褒めるのは——作法だ」

作法。

「結び直した手。椀を配った手。沈黙を守った喉。湯気を切らさなかった目。……そういう“やり方”を褒めよ」

やり方を褒める。

人を王にしない褒め方だ。

久米が、すぐ聞き返す。

「じゃあ俺の“汁のやり方”は褒めていいのか!」「褒める前に、黙って椀を配れ」薄火の女が笑って言った。

「地獄だ!」「地獄を越えたら誉れだ」山口守(やまぐちもり)がぼそりと言う。

……うるさい。だが誉火の前では、このうるささが必要だ。静かな誉れは、宗教になる。

葉に書く言葉は、短くする決まりになった。

長い誉れは、物語になる。物語になった誉れは、筆の取り分になる。

布留が札に刻む。

誉は三文字まで一書曰く、五文字までといふ者あり一書曰く、声は短きほど嘘少なし

短いほど嘘少なし。

上の田の者が、葉に書いた。

「助かった」

下の田の者が書いた。

「戻れた」

潮麻呂が書いた。

「濁り減」

山口守が書いた。

「結び強」

薄火の女が書いた。

「湯気守」

東詞が、渋い顔で葉を取った。

乾いた国の男が、葉に書く。それだけで、この国の勝ちでも負けでもない“翻し”になる。

東詞は、しばらく迷ってから、二文字だけ書いた。

「無事」

無事。

それは乾いた国でも、湿った国でも、同じ味の言葉だ。

久米が、当然のように書いた。

「汁!」

「一文字は三文字以内だ」布留が淡々と言う。

「勝った!」久米が胸を張る。

……勝つな。

書いた葉は、一枚ずつ誉火へくべられる。

火が葉を舐める。葉が縮む。字が、黒くなって消える。

消える誉れ。

消えるのがいい。残る誉れは名札になる。消える誉れは、身分になりにくい。

そして火の上に、煙が立つ。

煙は、咳をさせる。咳は、誉れを身体に戻す。

久米が最初に咳き込む。

「げほっ!誉れが目に染みる!」「だから溜めるなと言った」伊波礼毘古が淡々と言う。

煙が、夜のすすになる。すすは、墨の種だ。

布留が小さな器を持ってきて、煙のすすを受ける。

すすは軽い。軽いのに、黒い。黒いものは便利だ。便利だから、刃にもなる。

だから布留は、すすに水を多めに混ぜた。薄い墨。

薄い墨で書けば、断言が減る。断言が減れば、筆が王になりにくい。

布留は、その場で札に刻んだ。

一書曰く、誉は煙となる一書曰く、煙は墨となる一書曰く、墨は余白を呼ぶ一書曰く、余白は国を長くする

余白は国を長くする。

誉れが余白になる。

この転職が、この国の技術だ。

だが、もう一つ大事な仕掛けがあった。

誉火は、褒めるための火ではない。褒めすぎを止める火だ。

伊波礼毘古は、火の前で言った。

「誉れをくべたら、次は“言いにくいこと”を一つ置け」

言いにくいこと。

褒めるだけの場は危ない。褒めるだけだと、褒めが取り分になる。取り分になると、派ができる。

だから誉火は、褒めと一緒に“直し”も置く。

布留が、先に言った。

「……筆が遅い日がある」

言った瞬間、布留の肩が少し軽くなる。誉れを受け取った分の重さを、自分で返したからだ。

潮麻呂が言った。

「……俺は疑いに腹が立つと、声が強くなる」

薄火の女が言った。

「……火を守ると、他の手を見落とすことがある」

山口守が言った。

「……森の手は遅い。遅いのを誇りにして、急ぐべきときに遅れる」

東詞が、しばらく黙ってから言った。

「……俺の言葉は、締めすぎる」

締めすぎる。

乾いた国の男が、自分でそれを言えた。それは、誉れより大きい進みだ。

久米が叫ぶ。

「……俺は汁を言いすぎる!」

「知ってる」全員が同時に言った。

……笑いが起きる。

この笑いが、誉れを派にしない。派にしないから、国は折れにくい。

その夜、布留はひとりで硯の前に座った。

誉火のすすで作った墨。薄い黒。薄い黒は、優しいが怖い。優しい黒は、責任を曖昧にすることがある。曖昧にすると、また夜が増える。

だから布留は、薄い黒で“余白の掟”を書いた。

書く者を褒めるな書く作法を褒めよ語る者を褒めるな語る息を褒めよ一書曰く、褒めるなと言ひ切るは固し一書曰く、ゆゑに誉火を置く

褒めるなと言い切るは固し。

言い切るのは固い。固いのは縄になる。

だから言い切らない。火を置く。火が勝手にほどく。

布留は、最後に小さく書き足した。

一書曰く、誉は借りもの

誉は借りもの。

役と同じだ。借りたら返せる。返せる誉れは、身分になりにくい。

翌朝、語りの市で、砂緒(いさお)が小さく言った。

「……昨日、俺、“無事”って葉を燃やした」

東詞が頷く。

「無事は、国境を越える」

潮麻呂が笑う。

「潮も無事を返す」

薄火の女が湯気を足す。

「湯気も無事をほどく」

久米が叫ぶ。

「汁も無事だ!」「お前は黙れ!」「黙れは沈黙だ!」「沈黙は無事だ!」「……確かに」

確かに、が出ると喧嘩は一段落する。国は、こうして細かく呼吸を覚える。

誉れの声は、まだ欲しい。欲しいが、溜めない。溜めそうになったら、火に返す。煙にして、墨にして、余白に戻す。

誉れが余白になる国は、“わたしたち”が割れる一歩手前で、もう一歩だけ踏みとどまれる。

私は筆を止めた。

ナガタが、誉火のところを指で叩く。

「……褒め言葉を“煙にして返す”の、めっちゃいいな。残らないから、名札にならない」「残らないのが大事だ」私は頷いた。「残る誉れは派になる。派になると、血の話が戻る」

ナガタが笑う。

「久米、全員に“知ってる”って言われるの草」「久米は“余白担当”だ」私は言った。「余白が笑える国は、筆が王になりにくい」

硯の水を替える。次の水は、少し冷たい。誉れを返せても、次に必ず来るのは“悪口”だ。褒めがあるなら、貶(けな)しもある。貶しは刃になりやすい。刃になる前に、どう湯気で受け止めるか。

 
 
 

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