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第63章 悪口の風、噂の潮――貶しが刃になる前に「間口」へ戻す


第四部「道の骨、東の光」

第63章 悪口の風、噂の潮――貶しが刃になる前に「間口」へ戻す

悪口は、冷たい風だ。風は形がないから、刺さる。噂は、満ち引きする潮だ。引いたと思っても、また戻る。——だからこの国は、悪口を止めない。風と潮を、へ戻す。戻せる言葉だけが、刃にならずに済む。

「……褒めるのを返すのはさ」

ナガタが言った。誉火(ほまび)の煙がまだ喉の奥に残っているような声で、ちょっと嫌そうに笑う。

「なんか分かるんだよ。褒めるのって、溜めると宗教になる。でも悪口って、もっとヤバいだろ。溜めなくても、勝手に増える」

「増える」私は硯の水を替える。今日は水を少し冷たくする。悪口は熱で燃える。冷たさがないと、火が刃になる。

ナガタが眉を寄せる。

「悪口って、名札と相性良すぎるんだよな。“あの人が悪い”って、貼った瞬間、国が一瞬で楽になる。楽になるのが一番怖い」

「怖い」私は頷いた。「楽な悪口は、だいたい刃の鞘(さや)だ。抜く準備が整う」

ナガタが湯呑みをくるりと回す。

「じゃあどうすんの。悪口も煙にして返す?」

「煙にすると隠れる」私は首を振った。「悪口は隠すと夜に育つ。だから昼に出す。ただし――名を付けないで出す。出す場所は“間口(あわいぐち)”。“内”でも“外”でもないところ」

「間口、万能だな」「万能じゃない。手間がかかるだけだ」私は言う。「手間がかかると、刃が面倒になる。面倒な刃は抜かれにくい」

ナガタが、例の顔で言う。

「久米が“悪口汁”とか言うのは確定だな」「確定だ」私は即答した。「そして咳き込む。悪口は喉に塩を残すからな」

筆先を整え、最初の一行を置く。

——一書曰く、誉火立ちて後、貶(けな)しの風、都を巡り、噂の潮また戻る。伊波礼毘古命、これを間口へ返し、名を刃にせしめず。

海口(うみくち)の朝は、匂いが忙しい。

潮の匂い。綱の匂い。魚の端の匂い。湯気の匂い。そして、声の匂い。

声の匂いが忙しい朝は、だいたい揉めが来る。

その日、返倉(かえしぐら)の前で、布留(ふる)が札を見て、眉を寄せた。

「……米が、減っている」

減っている。

この二文字が出ると、空気が一気に乾く。乾くと、罰の縄が恋しくなる。恋しくなると、首が探される。

上の田の者が、すぐ言った。

「盗みだ」

下の田の者が言った。

「鼠だろ」

潮麻呂(しおまろ)が言った。

「潮のせいで湿ったら、量が変わる」

山口守(やまぐちもり)が言った。

「木が鳴いている。板が反ってる。湿りだ」

……まだ、どれも“原因”ではない。ただの“匂い”だ。

だが匂いは、風に乗る。

風に乗った匂いは、噂になる。

「米が減った」「誰かが盗んだ」「誰だ」「……あいつだ」

“あいつ”が出た瞬間、噂は潮になる。満ちて、引いて、また戻る。

そして噂は、いちばん戻りやすいところへ戻る。

——戻ってきた者へ。

港守(みなとり)の男。かつて夜の賊だった男。今は戻の葉を持ち、火を守り、綱を結ぶ男。

誰かが言った。

「元が汚れてる」「汚れが寄る」「戻った顔して、戻ってない」

言葉は短い。短い悪口は鋭い。鋭い悪口は、刃より速い。

男の顔が白くなる。白くなった顔は、また疑いを呼ぶ。

疑いは、疑いを食べて太る。

久米(くめ)が叫ぶ。

「待て待て待て!悪口が早い! 早い悪口は刃だ!」「お前が言うな!」「俺は余白だ!」「余白でも黙れ!」

……うるさい。だがうるささの下で、ちゃんと危ない匂いが立っている。

誰かが、祓(はらえ)の縄を持ち出しそうになった。祓の縄が首へ戻ったら終わりだ。

そのとき、男が逃げなかった。

逃げると“当たり”になる。当たりになると、噂が確信になる。確信になった噂は、刃になる。

男は、震える手で言った。

「……間口へ行く」

間口。

誰かが鼻で笑う。

「間口? 逃げ口の間違いだろ」

言葉が、また刺す。

薄火(うすび)の女が、火の前から言った。

「逃げ口じゃない。戻り口です」

戻り口。

この一言で、男の背中が少しだけ伸びる。

男は、間口(あわいぐち)へ行った。海口の隣にある、もう一つの石の円。“通”と“戻”の葉が置かれている円。

男は、葉を一枚取った。

書く字は決まっている。“内”でも“外”でもない。通でも戻でもない。

今日は、これ。

「噂(うわさ)」

布留が用意していた新しい字だ。字は便利だ。便利だから怖い。だから字は、葉にしか書かない。

男は葉に「噂」と書き、声に出して言った。

「……噂が、俺を刺してる」

刺してる。

刺してる、と言える喉は、まだ刃を持たない喉だ。

男は葉を箱へ入れた。間口の箱は、燃やす箱じゃない。溜める箱でもない。

返す箱だ。

箱の横には、小さな鉢が置かれていた。潮水の鉢。塩が少し溶けた水。

薄火が言った。

「噂を入れた人は、指を潮水で濡らして、箱に触れてください」

触れる。

噂に触れるのは怖い。でも触れない噂は、夜で太る。

男が指を濡らし、箱にそっと触れた。

潮水の冷たさが、噂の熱を少し奪う。奪うと、刃になりにくい。

夕方、間口が開かれた。

開く日は、皆の前。閉じる日は、沈黙。

伊波礼毘古(いわれびこ)が来た。都の背中。盆地の湿りを持って、悪口の乾きを受け止める背中。

伊波礼毘古は言った。

「噂を、開け」

皆が言う。

「開け」

箱が開いた。

出てきたのは、葉だ。葉は軽い。軽いからこそ、刺さることがある。

布留が、葉を読み上げようとして――止まった。

葉に書かれているのは“噂”だけではない。誰かが、こっそり書き足していた。

港守、盗む

名がある。指差しがある。

このまま読めば、刃が起きる。読まなければ、夜に隠れる。

薄火が小さく言った。

「……潮水」

布留が頷く。

葉を潮水の鉢へ、そっと浸した。墨が滲む。滲むと、名札になりにくい。

伊波礼毘古が言った。

「噂は、名で読むな」

名で読むな。

「噂は、自分の喉で責任を置いてから読む」

責任。

ここで責任を“首”にしないのが肝だ。

伊波礼毘古は続けた。

「この葉を書いた者は、前へ出ろ。出て、自分の名を言え。言えぬなら、噂は潮へ返す。潮へ返した噂は、誰も拾うな」

拾うな。

拾うと、噂が潮になる。潮になると、また戻る。

ざわ、と空気が揺れる。揺れるが、誰も出ない。

悪口は、夜で強い。昼で弱い。昼で弱い悪口は、刃になりにくい。

久米が叫ぶ。

「出ないのか!じゃあ俺が出る!俺が書いた! “汁が薄い”って書いた!」「今は米の話だ!」「米も汁に入る!」「黙れ!」

……うるさいが、場が少し緩む。緩むと、首を探す手が止まる。

伊波礼毘古は、静かに言った。

「出ないなら、噂は“問”に変えろ」

問。

「誰が盗んだ、ではない。どこが減った、だ。いつ減った、だ。どう減った、だ。……そして、どう戻す、だ」

戻す。

戻すと、噂は仕事になる。仕事になった噂は、刃になりにくい。

その夜、確かめが始まった。

確かめは、罰ではない。確かめは、祓でもない。

確かめは、手間だ。

布留が平石(ひらいし)の前で、焼き枡(やきます)を揃える。倉番の薄火と潮麻呂が、割符(わりふ)の木目を確かめる。山口守が床下に潜り、板の隙間を見る。饒速日(にぎはやひ)が風上で、匂いの流れを読む。

港守の男は、黙って火を守っていた。黙っているのは逃げじゃない。閉じる沈黙だ。夜に増殖する言葉を止める沈黙だ。

そして――鼠の音がした。

……カサ。

山口守が、床下から顔を出す。

「穴だ」

穴。

刃の穴ではない。鼠の穴だ。

倉の板の端が、少し齧(かじ)られている。湿りで柔らかくなったところを、鼠が嗅ぎつけたのだ。

潮麻呂が、鼻を鳴らす。

「減ったのは、盗みじゃない。……食われた」

食われた。

食われた米は、誰の取り分にもならない。ならないから、悪口の矢印が迷子になる。

迷子になった矢印は、戻せる。

布留が札に刻む。

一書曰く、盗みといふ噂あり一書曰く、鼠の穴これを食ふ一書曰く、噂は風、穴は形

形。

形は嘘をつきにくい。噂は嘘をつきやすい。だから噂を形へ戻す。

伊波礼毘古が言った。

「よし。穴を塞げ。そして――噂を祓え」

噂の祓は、川で行った。

川は、名を流す場所だ。汚れも濁りも、葉に書いて流す場所だ。

今日流すのは、汚れではない。濁りでもない。

だ。

布留が葉に書いた。

そして、その下に小さく足した。

一書曰く、名を持つ噂は刃なり

葉は川へ流された。流れると、墨が滲む。滲むと、刺さりにくい。

港守の男が、川を見てぽつりと言った。

「……俺、逃げなくてよかった」

薄火が頷く。

「逃げると、噂が“当たり”になります。当たりは、刃の取っ手です」

潮麻呂が言う。

「潮も当たりを嫌う。当たりだと、漁(りょう)が乱れる」

山口守が言う。

「森も当たりを嫌う。当たり木だけ切ると、森が痩せる」

伊波礼毘古は、男の方を見ずに言った。

「噂は、止められぬ。だが噂を、刃にしない作法は作れる」

そして、間口の方を指した。

「噂が来たら、間口へ戻せ。名を言う前に、自分の指を潮水で濡らせ。濡らした指は、軽々しく刺さない」

濡らした指。

いい言い方だ。乾いた指は、すぐ指差しになる。濡れた指は、指差しになりにくい。

久米が叫ぶ。

「濡らした指なら汁も飲める!」「お前は黙れ!」「黙れは沈黙!」「沈黙は……えっと……」「言葉が止まったら、それが祓だ」薄火が笑って言った。

……笑いが起きる。笑いが起きると、噂は潮になる前に泡になる。泡は消える。消える悪口は、身分になりにくい。

その晩、間口の箱の横に、新しい札が立った。

布留が刻んだ字。

「噂は問へ」

噂は問へ。

そして小さく、いつもの余白。

一書曰く、問ひは痛し一書曰く、痛みを避くれば夜増す一書曰く、ゆゑに湯気を忘るるな

湯気を忘るるな。

悪口の風が来たら、噂の潮が戻ったら、喉が乾く前に湯気を吸う。

湯気を吸ってから、問う。

問える国は、刃を抜かずに済む夜を増やす。

私は筆を止めた。

ナガタが、しばらく黙ってから言う。

「……噂を止めないってのが、逆に効くな。止めると夜に行く、って」「夜は育つからな」私は頷く。「だから昼へ戻す。間口はそのための口だ」

ナガタが笑う。

「久米、結局“汁が薄い”って噂を投げそうで草」「投げる」私は即答する。「そして潮水で滲ませられる。噂は滲むと刃になりにくい」

硯の水を替える。次の水は、もっと澄んで、少し厳しい。噂を“問”に変えられるなら、次は“問い方”が問われる。

 
 
 

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