第63章 悪口の風、噂の潮――貶しが刃になる前に「間口」へ戻す
- 山崎行政書士事務所
- 2月14日
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第四部「道の骨、東の光」
第63章 悪口の風、噂の潮――貶しが刃になる前に「間口」へ戻す
悪口は、冷たい風だ。風は形がないから、刺さる。噂は、満ち引きする潮だ。引いたと思っても、また戻る。——だからこの国は、悪口を止めない。風と潮を、口へ戻す。戻せる言葉だけが、刃にならずに済む。
「……褒めるのを返すのはさ」
ナガタが言った。誉火(ほまび)の煙がまだ喉の奥に残っているような声で、ちょっと嫌そうに笑う。
「なんか分かるんだよ。褒めるのって、溜めると宗教になる。でも悪口って、もっとヤバいだろ。溜めなくても、勝手に増える」
「増える」私は硯の水を替える。今日は水を少し冷たくする。悪口は熱で燃える。冷たさがないと、火が刃になる。
ナガタが眉を寄せる。
「悪口って、名札と相性良すぎるんだよな。“あの人が悪い”って、貼った瞬間、国が一瞬で楽になる。楽になるのが一番怖い」
「怖い」私は頷いた。「楽な悪口は、だいたい刃の鞘(さや)だ。抜く準備が整う」
ナガタが湯呑みをくるりと回す。
「じゃあどうすんの。悪口も煙にして返す?」
「煙にすると隠れる」私は首を振った。「悪口は隠すと夜に育つ。だから昼に出す。ただし――名を付けないで出す。出す場所は“間口(あわいぐち)”。“内”でも“外”でもないところ」
「間口、万能だな」「万能じゃない。手間がかかるだけだ」私は言う。「手間がかかると、刃が面倒になる。面倒な刃は抜かれにくい」
ナガタが、例の顔で言う。
「久米が“悪口汁”とか言うのは確定だな」「確定だ」私は即答した。「そして咳き込む。悪口は喉に塩を残すからな」
筆先を整え、最初の一行を置く。
——一書曰く、誉火立ちて後、貶(けな)しの風、都を巡り、噂の潮また戻る。伊波礼毘古命、これを間口へ返し、名を刃にせしめず。
海口(うみくち)の朝は、匂いが忙しい。
潮の匂い。綱の匂い。魚の端の匂い。湯気の匂い。そして、声の匂い。
声の匂いが忙しい朝は、だいたい揉めが来る。
その日、返倉(かえしぐら)の前で、布留(ふる)が札を見て、眉を寄せた。
「……米が、減っている」
減っている。
この二文字が出ると、空気が一気に乾く。乾くと、罰の縄が恋しくなる。恋しくなると、首が探される。
上の田の者が、すぐ言った。
「盗みだ」
下の田の者が言った。
「鼠だろ」
潮麻呂(しおまろ)が言った。
「潮のせいで湿ったら、量が変わる」
山口守(やまぐちもり)が言った。
「木が鳴いている。板が反ってる。湿りだ」
……まだ、どれも“原因”ではない。ただの“匂い”だ。
だが匂いは、風に乗る。
風に乗った匂いは、噂になる。
「米が減った」「誰かが盗んだ」「誰だ」「……あいつだ」
“あいつ”が出た瞬間、噂は潮になる。満ちて、引いて、また戻る。
そして噂は、いちばん戻りやすいところへ戻る。
——戻ってきた者へ。
港守(みなとり)の男。かつて夜の賊だった男。今は戻の葉を持ち、火を守り、綱を結ぶ男。
誰かが言った。
「元が汚れてる」「汚れが寄る」「戻った顔して、戻ってない」
言葉は短い。短い悪口は鋭い。鋭い悪口は、刃より速い。
男の顔が白くなる。白くなった顔は、また疑いを呼ぶ。
疑いは、疑いを食べて太る。
久米(くめ)が叫ぶ。
「待て待て待て!悪口が早い! 早い悪口は刃だ!」「お前が言うな!」「俺は余白だ!」「余白でも黙れ!」
……うるさい。だがうるささの下で、ちゃんと危ない匂いが立っている。
誰かが、祓(はらえ)の縄を持ち出しそうになった。祓の縄が首へ戻ったら終わりだ。
そのとき、男が逃げなかった。
逃げると“当たり”になる。当たりになると、噂が確信になる。確信になった噂は、刃になる。
男は、震える手で言った。
「……間口へ行く」
間口。
誰かが鼻で笑う。
「間口? 逃げ口の間違いだろ」
言葉が、また刺す。
薄火(うすび)の女が、火の前から言った。
「逃げ口じゃない。戻り口です」
戻り口。
この一言で、男の背中が少しだけ伸びる。
男は、間口(あわいぐち)へ行った。海口の隣にある、もう一つの石の円。“通”と“戻”の葉が置かれている円。
男は、葉を一枚取った。
書く字は決まっている。“内”でも“外”でもない。通でも戻でもない。
今日は、これ。
「噂(うわさ)」
布留が用意していた新しい字だ。字は便利だ。便利だから怖い。だから字は、葉にしか書かない。
男は葉に「噂」と書き、声に出して言った。
「……噂が、俺を刺してる」
刺してる。
刺してる、と言える喉は、まだ刃を持たない喉だ。
男は葉を箱へ入れた。間口の箱は、燃やす箱じゃない。溜める箱でもない。
返す箱だ。
箱の横には、小さな鉢が置かれていた。潮水の鉢。塩が少し溶けた水。
薄火が言った。
「噂を入れた人は、指を潮水で濡らして、箱に触れてください」
触れる。
噂に触れるのは怖い。でも触れない噂は、夜で太る。
男が指を濡らし、箱にそっと触れた。
潮水の冷たさが、噂の熱を少し奪う。奪うと、刃になりにくい。
夕方、間口が開かれた。
開く日は、皆の前。閉じる日は、沈黙。
伊波礼毘古(いわれびこ)が来た。都の背中。盆地の湿りを持って、悪口の乾きを受け止める背中。
伊波礼毘古は言った。
「噂を、開け」
皆が言う。
「開け」
箱が開いた。
出てきたのは、葉だ。葉は軽い。軽いからこそ、刺さることがある。
布留が、葉を読み上げようとして――止まった。
葉に書かれているのは“噂”だけではない。誰かが、こっそり書き足していた。
港守、盗む
名がある。指差しがある。
このまま読めば、刃が起きる。読まなければ、夜に隠れる。
薄火が小さく言った。
「……潮水」
布留が頷く。
葉を潮水の鉢へ、そっと浸した。墨が滲む。滲むと、名札になりにくい。
伊波礼毘古が言った。
「噂は、名で読むな」
名で読むな。
「噂は、自分の喉で責任を置いてから読む」
責任。
ここで責任を“首”にしないのが肝だ。
伊波礼毘古は続けた。
「この葉を書いた者は、前へ出ろ。出て、自分の名を言え。言えぬなら、噂は潮へ返す。潮へ返した噂は、誰も拾うな」
拾うな。
拾うと、噂が潮になる。潮になると、また戻る。
ざわ、と空気が揺れる。揺れるが、誰も出ない。
悪口は、夜で強い。昼で弱い。昼で弱い悪口は、刃になりにくい。
久米が叫ぶ。
「出ないのか!じゃあ俺が出る!俺が書いた! “汁が薄い”って書いた!」「今は米の話だ!」「米も汁に入る!」「黙れ!」
……うるさいが、場が少し緩む。緩むと、首を探す手が止まる。
伊波礼毘古は、静かに言った。
「出ないなら、噂は“問”に変えろ」
問。
「誰が盗んだ、ではない。どこが減った、だ。いつ減った、だ。どう減った、だ。……そして、どう戻す、だ」
戻す。
戻すと、噂は仕事になる。仕事になった噂は、刃になりにくい。
その夜、確かめが始まった。
確かめは、罰ではない。確かめは、祓でもない。
確かめは、手間だ。
布留が平石(ひらいし)の前で、焼き枡(やきます)を揃える。倉番の薄火と潮麻呂が、割符(わりふ)の木目を確かめる。山口守が床下に潜り、板の隙間を見る。饒速日(にぎはやひ)が風上で、匂いの流れを読む。
港守の男は、黙って火を守っていた。黙っているのは逃げじゃない。閉じる沈黙だ。夜に増殖する言葉を止める沈黙だ。
そして――鼠の音がした。
……カサ。
山口守が、床下から顔を出す。
「穴だ」
穴。
刃の穴ではない。鼠の穴だ。
倉の板の端が、少し齧(かじ)られている。湿りで柔らかくなったところを、鼠が嗅ぎつけたのだ。
潮麻呂が、鼻を鳴らす。
「減ったのは、盗みじゃない。……食われた」
食われた。
食われた米は、誰の取り分にもならない。ならないから、悪口の矢印が迷子になる。
迷子になった矢印は、戻せる。
布留が札に刻む。
一書曰く、盗みといふ噂あり一書曰く、鼠の穴これを食ふ一書曰く、噂は風、穴は形
形。
形は嘘をつきにくい。噂は嘘をつきやすい。だから噂を形へ戻す。
伊波礼毘古が言った。
「よし。穴を塞げ。そして――噂を祓え」
噂の祓は、川で行った。
川は、名を流す場所だ。汚れも濁りも、葉に書いて流す場所だ。
今日流すのは、汚れではない。濁りでもない。
噂だ。
布留が葉に書いた。
噂
そして、その下に小さく足した。
一書曰く、名を持つ噂は刃なり
葉は川へ流された。流れると、墨が滲む。滲むと、刺さりにくい。
港守の男が、川を見てぽつりと言った。
「……俺、逃げなくてよかった」
薄火が頷く。
「逃げると、噂が“当たり”になります。当たりは、刃の取っ手です」
潮麻呂が言う。
「潮も当たりを嫌う。当たりだと、漁(りょう)が乱れる」
山口守が言う。
「森も当たりを嫌う。当たり木だけ切ると、森が痩せる」
伊波礼毘古は、男の方を見ずに言った。
「噂は、止められぬ。だが噂を、刃にしない作法は作れる」
そして、間口の方を指した。
「噂が来たら、間口へ戻せ。名を言う前に、自分の指を潮水で濡らせ。濡らした指は、軽々しく刺さない」
濡らした指。
いい言い方だ。乾いた指は、すぐ指差しになる。濡れた指は、指差しになりにくい。
久米が叫ぶ。
「濡らした指なら汁も飲める!」「お前は黙れ!」「黙れは沈黙!」「沈黙は……えっと……」「言葉が止まったら、それが祓だ」薄火が笑って言った。
……笑いが起きる。笑いが起きると、噂は潮になる前に泡になる。泡は消える。消える悪口は、身分になりにくい。
その晩、間口の箱の横に、新しい札が立った。
布留が刻んだ字。
「噂は問へ」
噂は問へ。
そして小さく、いつもの余白。
一書曰く、問ひは痛し一書曰く、痛みを避くれば夜増す一書曰く、ゆゑに湯気を忘るるな
湯気を忘るるな。
悪口の風が来たら、噂の潮が戻ったら、喉が乾く前に湯気を吸う。
湯気を吸ってから、問う。
問える国は、刃を抜かずに済む夜を増やす。
私は筆を止めた。
ナガタが、しばらく黙ってから言う。
「……噂を止めないってのが、逆に効くな。止めると夜に行く、って」「夜は育つからな」私は頷く。「だから昼へ戻す。間口はそのための口だ」
ナガタが笑う。
「久米、結局“汁が薄い”って噂を投げそうで草」「投げる」私は即答する。「そして潮水で滲ませられる。噂は滲むと刃になりにくい」
硯の水を替える。次の水は、もっと澄んで、少し厳しい。噂を“問”に変えられるなら、次は“問い方”が問われる。





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