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第7章 日輪の責任


第二部「光と嵐の間」

第7章 日輪の責任

洗う水は、ただ流れない。ひとつ前の匂いを連れて、ひとつ先の光を連れていく。白い湯気は、その間に立つ息だ。

黄泉の章を書き終えたあと、部屋の空気が、ずっと濡れていた。

雨はやんでいるのに、畳が冷たい。墨の匂いも、いつもより土に近い。土に近い匂いは落ち着くはずなのに、今日は落ち着かない。落ち着かないのは、匂いの奥に「戻れない」が混ざっているからだ。

ナガタが、布を外して紙面をそっと見返し、顔をしかめた。

「……臭うな」「臭う」私は正直に頷いた。「黄泉の匂いは、紙まで通る」

ナガタは鼻を鳴らす。

「これ、どうする。上に出すのか」「出す」「怒るぞ。“人心を乱すな”だぞ」「乱れを無かったことにするほうが、あとで乱れる」

私は筆を置き、硯の水を捨てた。水を捨てた途端、部屋の音が少し変わる。水は音を吸う。湿り気は気配を吸う。吸いすぎると、人の心は息を詰める。

「……洗う章が要る」私は言った。

ナガタはその言葉に、救われた顔をした。黄泉の坂を上がったあとに、光のある川が見える——その約束があるだけで、人はまだ座り込まずにいられる。

「禊だな」ナガタが言う。「そうだ」「上も喜ぶ」「喜ぶだろうな。浄化は好きだ。匂いのする話を嫌がるくせに、浄化という言葉だけは好む」「浄化は“都合のいい匂い”だからな」

ナガタは笑って、すぐに真顔に戻った。

「でも、禊って、書きようが難しいぞ」「難しい?」「だってさ……裸だろ」

私は一瞬、筆を止めた。

たしかに、そこを避けて通れない。黄泉の匂いを落とすための禊は、肌に水を当てる話だ。水が肌に当たる感覚を書かないと、洗った気がしない。洗った気がしないと、読者の胸にまだ黄泉が残る。

「……肌は書かない」私は言った。「水を書く。息を書く。湯気を書く。匂いを書く」「ずるいな」「ずるいのが文章だ」

私は窓を少し開けた。外気が入る。乾いた空気が入ると、畳の冷たさがいっそうはっきりする。冷たさは、禊の準備だ。

「黄泉の匂いは、落とせると思うか」ナガタがぽつりと言った。

私は少し迷ってから答えた。

「落とせない」「……じゃあ禊って何だ」「匂いを“抱えたまま外へ戻る”ための作法だ」

ナガタは黙った。黙って、文鎮を置き直した。置き直すだけで、紙は安定する。安定は、作法の形だ。

私は新しい紙を敷き、墨を摺った。さっきより少し薄く。黒を薄くするのは、闇を減らすためではない。光が入る余地を作るためだ。

そして私は書き始めた。

——ここに伊弉諾尊、黄泉の穢を厭ひて、禊ぎ祓へり。

黄泉比良坂の石を塞いだあとも、イザナギの身体には、湿り気が残っていた。

石で塞いだのは坂だ。だが坂を塞いでも、匂いは肌の内側に入り込む。匂いは境界を越える。境界を越えた匂いは、気配になる。気配になった黄泉は、息の裏に居座る。

イザナギは歩いた。

歩くたび、草が靴のように足を撫でる。草の触れ方が優しいほど、黄泉の湿り気が肌に残っていることが分かる。優しさが痛い日がある。今日はその日だった。

やがて川に出る。

川は山から降りてきた水だ。山の水は冷たい。冷たい水は嘘を落とす。落とすから、怖い。

川辺の空気は、黄泉の坂より明るい。だが明るいのに、どこか白い。白いのは霧だ。霧は水の息だ。水が息を吐くとき、空気は一度だけ柔らかくなる。

霧の中で、イザナギは衣を脱ぐ。

脱いだ衣を置いた場所に、次々と小さな神が生まれる。衣というのは、肌と世界の境界だ。境界を外すと、境界そのものが神になる。世界は、境界が好きだ。境界があるから、安心できる。安心できると、生きられる。

イザナギは川へ入る。

水が足首を包む。包み方が、黄泉の湿り気と違う。黄泉の湿り気は重い。川の水は、軽い。軽い水は流れる。流れる水は、連れていく。連れていくから、救いになる。

膝まで入る。腰まで入る。

冷たさが身体を締める。締める冷たさは、痛みをはっきりさせる。痛みをはっきりさせると、人は「ここにいる」と思い出す。生は、はっきりした痛みの側にある。

イザナギは顔を洗う。

水が頬を滑り、口へ入り、塩の味がする。塩は海の味だ。川なのに塩がするのは、涙が混じったからだ。涙は、どの水にも溶ける。涙は国境を持たない。

左の目を洗う。

その瞬間、水面がきらりと弾けた。

光が、水の中からほどけるように立ち上がる。まぶしいというより、胸の奥が温まる明るさ。火の明るさではない。火は熱い。けれどこの明るさは、冷たい水の中から来た明るさだ。だから、優しいのに逃げ場がない。

女神が生まれる。

——天照大神。

名を付けると、光は責任になる。

生まれたばかりの光は、まだ自分の役目を知らない。ただ、周りが見えてしまう。見えてしまうということは、見えないふりができないということだ。光は、隠せない。隠せないものは、嫌われることもある。

天照は、水滴をまとったまま立っている。

水滴が肌を伝い、川へ落ちる。落ちる雫のひとつひとつが、小さな鏡になって、光を返す。鏡が増えると、光は増えたように見える。増えたように見える光は、人を安心させる。安心は、暮らしの始まりだ。

右の目を洗う。

今度は、光とは違う静けさが生まれる。

白ではなく、薄い銀。目を閉じたときの明るさ。夜の中の道しるべ。静けさは冷たいのに、休める冷たさだ。休める冷たさは、命を長持ちさせる。

——月読尊。

月は、照らすが、焼かない。照らすが、追い詰めない。影を残す。影を残すというのは、逃げ場所を残すということだ。逃げ場所があると、人は壊れない。

最後に鼻を洗う。

鼻は息の入口だ。息の入口を洗うと、風が生まれる。風は気まぐれだ。風は正しさを持たない。だが風がないと、雲は動かない。雲が動かないと、雨は降らない。雨が降らないと、稲が実らない。

——素戔嗚尊。

素戔嗚は、生まれた瞬間から泣いた。

泣き声は大きく、子の泣き方ではない。嵐の前の海の鳴り方に似ている。泣くと、川の上に雨が落ちるような音が増える。泣き声は水を呼ぶ。水を呼ぶと、空が重くなる。

イザナギは眉をひそめる。

黄泉を見てきた目は、泣き声に弱い。泣き声は「戻れない」を思い出させる。泣き声は、黄泉の扉の軋みと似ている。似ているものは、恐怖を連れてくる。

イザナギは三柱を見比べる。

光と、静けさと、嵐。

世界が、はっきり三つの性格を持ってしまったのだと分かる。はっきりしてしまうと、戻れない。戻れないが、はっきりしたからこそ、国は呼吸ができる。

イザナギは命じる。

天照に、高天原を。

月読に、夜の国を。

素戔嗚に、海原を。

割り当ては、役所のように淡々としている。だが世界は、淡々と割り当てられることで回り始める。回り始めた世界は、もう止まらない。

天照は、黙って頷く。

頷き方が、朝日の上り方に似ていた。ゆっくり、確かに、誰の許可も求めずに上がる。

月読は、視線を落とす。

落とした視線が、影を作る。影は、救いにもなる。

素戔嗚は、泣き止まない。

泣き止まない泣き声は、空を叩く。空を叩かれた雲は、雨を落としたくなる。雨が落ちたら、風が荒くなる。荒い風は、海を荒らす。荒れた海は、人の胸を荒らす。

イザナギは怒る。

怒りは正しさの顔をするが、たいてい疲れの顔だ。黄泉を見てきた者の疲れが、泣き止まない者に向かうのは、順番として自然だ。

「何故に泣く」

素戔嗚は言う。

「母に会いたい」

母——その言葉は、黄泉を呼ぶ。黄泉を呼ぶ言葉は、禊ぎたての世界には強すぎる。強すぎる言葉が出た瞬間、川の水が一度だけ冷たくなった気がした。

天照は、そのやりとりを見ている。

光は、見てしまう。見てしまった光は、責任を背負う。背負うと、光は重くなる。重い光は、まぶしいだけではいられない。重い光は、暑さにも、乾きにも、陰にも関わらなければならない。

天照はまだ知らない。

自分が「照明係」ではなく、「世界の表情」を背負うのだということを。

水滴が彼女の睫毛から落ち、川に輪を作った。

輪が広がる。広がった輪は、消える。

消える輪を見て、天照は少しだけ眉を寄せた。

消えるものを、消えるままにできない顔だった。

「……ここまででいいか」

ナガタが、私の書いた紙面を覗き込みながら言った。彼の声は少し軽くなっていた。禊の水が、部屋の空気まで洗ったみたいに。

「ここまでだ」私は頷いた。「光を生ませた。だが、光の仕事はここからだ」

ナガタは紙面の「素戔嗚」の字を指で叩いた。

「こいつ、泣くんだな」「泣く」「泣かせるのか」「泣くから嵐になる。嵐があるから、田が潤う。潤うから、国が続く」「……便利だな、また」「便利じゃない。面倒だ」私は笑って言った。「面倒だから、愛しい」

窓から入る風が、紙の端を少しだけ揺らした。揺れは、潮のない波音からずっと続いている。揺れが続く限り、物語も続く。

私は墨を摺り足し、次の題を心の中で静かに置いた。

——第8章 海風の子、居場所を失う。

 
 
 

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