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第9章 天岩戸、闇が呼吸する


第二部「光と嵐の間」

第9章 天岩戸、闇が呼吸する

闇は、ただの欠けではない。光の裏に折りたたまれた布のように、しっとりと息をして、目を閉じた者だけを抱きとめる。——けれど、長すぎる闇は、世界を痩せさせる。

硯の水が、また少し冷たくなった。

禊の章を書いたあとの水は、さっきまで“洗う水”だったのに、今は“曇る前の水”になっている。文章の中で光が生まれた分だけ、次に来る闇は濃く感じる。人は、いったん明るさを知ると、暗さの匂いに敏感になる。

ナガタが、紙束の上で指を組み、言った。

「……つまり、ここから荒れるんだな」

言い方が、天気予報のそれだった。空が黒くなる前に、胸が先に黒くなるやつ。

「荒れる」私は頷く。「荒れた結果、光が隠れる」

ナガタは眉を寄せた。

「隠れる、って……太陽が?」「太陽というより、光の責任が、身体を丸める」「責任が、身体を丸める……嫌な比喩だな」「嫌な比喩は、現実に近い」

ナガタは苦笑して、紙束の端をとん、と叩いた。

「でもさ、これ書くと怒られるぞ。糞とか馬の皮とか、そういう話だろ」「……そこは匂いまでで止める」「匂いまでが一番嫌だろ」「嫌だから、書く。嫌な匂いを、祭の匂いに変える章でもある」

ナガタは目を細めた。

「祭?」「うん。闇を追い払うのは剣じゃない。笑いと音だ」「出たな。神話のどんちゃん騒ぎ」「どんちゃん騒ぎは、この国の非常灯だ」

ナガタは、少しだけ安心した顔をした。非常灯、という言葉は生活に近い。生活に近い言葉が出ると、神話は急に“自分の話”になる。

私は筆を取った。墨は、あまり濃くしない。闇の章だからこそ、黒で塗り潰したくない。闇にも呼吸がある。呼吸の隙間には、かすかな光が要る。

——素戔嗚尊、甚だしく乱暴(あらぶ)る。

書き始めた瞬間、窓の外で風が鳴った気がした。気がしただけだ。実際に鳴ったのは、紙がわずかに湿り気を吸った音かもしれない。けれど、この国では「気がした」ことが、だいたい本当になる。

素戔嗚は、勝った気がしていた。

誓約で神々が生まれ、自分の清さが証明された——そう思った瞬間、嵐は嵐の形で喜ぶ。喜びを器に収めることを知らない。器を知らない喜びは、溢れる。溢れた喜びは、誰かの畳を濡らす。濡れた畳は、すぐに匂う。

天照は、溢れを見ていた。

光は見てしまう。見てしまう光は、止め方を探す。止め方を探しているうちに、溢れは増える。増えた溢れは、災いになる。

素戔嗚は、田へ入った。

高天原にも田がある。天の田。天の畦。天の水口。天の稲は、地の稲よりも繊細だ。繊細なものは、少しの乱れで拗ねる。

素戔嗚は畦を壊し、水を止め、あるいは水を溢れさせた。

田の水は、ただの水ではない。水の順番だ。水の約束だ。約束を乱されると、稲は育たない。稲が育たないと、祭が痩せる。祭が痩せると、国が痩せる。

天照は、耐えた。

耐えるというのは、偉いというより、怖いということだ。耐えている間、光は自分の温度を調整し続ける。怒れば焼け、泣けば曇る。曇れば世界が寒い。だから耐える。耐える光は、いつも少し疲れている。

素戔嗚は、さらにやった。

神聖な場に、神聖でないものを持ち込んだ。神聖というのは匂いの問題だ。匂いが混ざると、境界がほどける。境界がほどけると、世界は一瞬自由になるが、すぐに不安定になる。

天照は、言葉を探した。

「それも……そういう遊びか」

そう言ったかどうかは、一書によって違う。だが天照が“理解しようとした”という匂いは、どの異伝にも残っている。理解しようとする者は、往々にして壊れやすい。壊れやすい者が壊れるとき、壊れ方は静かで、深い。

決定的だったのは、織殿だった。

天照のもとで、神々の衣が織られていた。布は、世界を包むものだ。包むものがあると、寒さに耐えられる。寒さに耐えられると、人は祈れる。祈れると、国は続く。

織殿の空気は、いつも乾いている。乾きがあるから糸が絡まない。絡まない糸は美しい布になる。美しい布は、祭の匂いになる。

その乾いた場に——

素戔嗚は、皮を剥いだ馬を投げ込んだ。

——一書曰く、逆剥ぎにせる天斑駒(あめのふちこま)を、殿に投ぐ。

馬は本来、風の匂いを持つ。汗の匂いを持つ。走る匂いを持つ。それが逆剥ぎにされると、匂いは“終わり”になる。終わりの匂いは、空気に貼り付く。貼り付いた匂いは、誰かの喉を塞ぐ。

織っていた者の手が止まる。

止まった手は、次の瞬間、震える。震えた手は、梭(ひ)を落とす。落とした梭は、針になる。針は、やわらかい指を刺す。

血の匂いが混ざる。

血は熱い。熱い匂いが混ざると、空気は一気に現実になる。現実になった空気の中で、天照の瞳が一度だけ揺れた。

揺れた光は、耐えきれない。

耐えきれない光は、隠れる場所を探す。

天照は、走った。

走る太陽、というのは奇妙だ。太陽は本来、逃げない。逃げないものが逃げるということは、世界がそのままでは保てないということだ。

天照は、天の岩戸へ入る。

岩戸は、洞の匂いがする。湿り気の匂いがする。黄泉の坂ほど深くはないが、光の側から見ると、それでも十分に冷たい。

戸を閉める。

閉めた瞬間、世界は闇になる。

闇は、突然来る。

突然来るものに、人は慣れていない。夜は突然来ない。夕暮れがある。夕暮れがあるから、心が準備できる。だが天照の隠れは夕暮れを飛ばした。準備のない闇は、人の胸に爪を立てる。

闇が呼吸し始める。

呼吸する闇は、湿っている。湿った闇は重い。重い闇は、音を吸う。音が吸われると、言葉が頼りなくなる。頼りない言葉は、人を疑わせる。

畑は育たなくなる。

鳥は鳴き方を忘れる。

神々の顔が、互いに見えなくなる。

見えないと、人は想像で補う。想像はだいたい悪い方へ行く。悪い方へ行く想像は、争いの芽になる。

高天原は、ざわついた。

ざわつきは、闇の中では倍に響く。響くのに、音は吸われる。吸われた音は戻らない。戻らないものが増えるほど、人の心は痩せる。

神々は集まった。

集まった神々の足音は、闇に沈む。沈む足音を頼りに、互いの位置を確かめる。確かめる姿は、まるで雨の日に川の石を渡る人間みたいだった。神々もまた、闇の中では手探りだ。

「どうする」

誰かが言う。誰が言ったか分からない。闇は肩書きを消す。肩書きが消えると、ただ焦りだけが残る。

そのとき、ひとりの神が言った。

「……祭をせよ」

祭。

闇に対して祭をする、というのは奇妙だ。闇は敵ではない。闇は休息でもある。だが長すぎる闇は、休息ではなく窒息になる。窒息の闇には、息が要る。

祭は、息だ。

神々は、動いた。

動き方が、妙に手際がいい。非常時のときほど、人は段取りがよくなる。段取りがいいのは、怖いからだ。怖いから、手順に縋る。手順に縋ると、手が動く。手が動けば、世界は少しずつ戻る。

——天香山(あめのかぐやま)の真賢木(まさかき)を取りて、枝に種々のものを掛く。

真賢木の枝に、玉を掛ける。

玉は、音を持たないのに、音を呼ぶ。揺れると、かすかに触れ合い、かすかに鳴る。かすかな音は、闇の中で強い。かすかな音は、人の耳を起こす。

鏡を掛ける。

鏡は、光がないと役に立たない。光がないと役に立たないものを、闇の中で用意するというのは、信仰の形だ。信じるというのは、まだ来ていない光のために、道具を磨くことだ。

——一書曰く、八咫鏡(やたのかがみ)を作る。

鏡は、太陽の代わりではない。太陽を呼ぶための“理由”だ。呼ぶ理由があると、光は戻りたくなる。戻りたくなる光は、戸の隙間に耳を寄せる。

祝詞を整える者がいる。

布刀玉命(ふとだまのみこと)、天児屋命(あめのこやねのみこと)。

言葉は、闇に弱い。だから言葉は、音になる必要がある。祝詞は、意味より先にリズムが要る。リズムがあると、胸が揺れる。胸が揺れると、闇の中でも“生きている”が戻る。

そして——

一番危うい役が、出てくる。

天宇受売命(あめのうずめのみこと)。

危うい、というのは軽んじる言葉ではない。危ういとは、境界に立つ者のことだ。境界に立つ者は、どちらにも属さない。属さない者は、どちらにも触れられる。触れられるから、世界を動かせる。

宇受売は、桶を逆さにし、その上に立った。

闇の中で、足音が高く鳴る。高い音は、闇に穴を開ける。穴が開くと、闇が少し薄くなる。

宇受売は踊る。

踊りは、理屈の外側にある。理屈の外側にあるものは、闇に強い。闇は理屈を吸うが、踊りの衝動までは吸えない。

宇受売は、わざと、品を外した。

布をたくし上げ、胸をさらし、笑いを引きずり出すように身体を揺らす。神々が一斉に息を吸い、次の瞬間、腹の底から笑った。

笑いは、音だ。

音は、闇に刺さる。

刺さった音は、闇の胸を叩く。叩かれた闇は、呼吸の仕方を変える。変えた呼吸が、空気を動かす。空気が動くと、戸の隙間に風が入る。風が入ると、岩戸の内側にも“外”が届く。

——一書曰く、常世の長鳴鳥を集めて鳴かしむ。

鳥が鳴く。

まだ朝ではないのに、朝の音を先に置く。朝の音を置くのは、世界への命令ではない。世界へのお願いだ。「戻っておいで」と言う代わりに、「戻ってきた時の音」を先に鳴らす。

闇の外で、笑いと太鼓と祝詞と鳥の声が混ざる。

混ざった音は、ひとつの匂いになる。

祭の匂い。

祭の匂いは、火と汗と木と酒と土の匂いが混ざった匂いだ。ここにはまだ酒も火も十分にはない。けれど匂いは、想像で補える。神々の笑いが、酒の代わりになる。

岩戸の内側で、天照は聞いている。

聞いてしまう。

聞いてしまった光は、責任として動く。責任は、好奇心の顔をする。好奇心は、ほんの少しだけ戸を開けさせる。

天照は、戸を少し開けた。

闇の中に、細い光が漏れる。

漏れた光に、鏡が反応する。鏡は光を受けて光を返す。返した光が、天照の目に入る。

天照は、自分の光を見る。

自分の光を見るというのは、奇妙なことだ。光は本来、外だけを照らす。自分を照らす暇がない。だが鏡があると、自分が見える。自分が見えると、自分の存在が確かになる。確かになると、戸を閉めている理由が揺らぐ。

「これは誰だ」

天照が言う。

その声は、戸の外へ漏れる。漏れた声を、神々は逃さない。逃さない手際が、怖いほどいい。非常時の段取りは、こういうところだけ妙に完璧だ。

神々は言う。

「あなたより尊い神がお出ましになった」

嘘だ。けれど嘘は、時々、救いになる。救いになる嘘は、相手の自尊心を守る嘘だ。守られた自尊心は、もう一歩外へ出る力になる。

天照が、もう少し戸を開ける。

その瞬間——

天手力男神(あめのたぢからおのかみ)が腕を伸ばし、天照を引き出す。

引き出す手つきは乱暴だ。だが乱暴さがなければ、光はまた引き返す。引き返す光を、そっとしておく余裕は世界にはない。

天照が外へ出た瞬間、しめ縄が掛けられる。

——一書曰く、注連縄(しりくめなわ)を張りて、復た入りたまはざるを誓ふ。

縄は、優しい。縄は、剣ではない。縄は、戻りたい者を責めずに、戻れない形を作る。責めない境界は、国を長持ちさせる。責める境界は、いつか破裂する。

光が戻る。

戻った光は、以前と同じではない。

闇の匂いを知った光だ。笑いで救われた光だ。自分の鏡像を見た光だ。

世界は明るくなる。だが明るさは、少しだけ重くなる。重い明るさは、責任の明るさだ。

神々は、安堵する。

安堵の息が、一斉に吐き出される。吐き出された息が、湯気みたいに白く見えた気がした。闇が長かった分だけ、息は白い。

そして——

安堵の後に、必ず来るものがある。

後始末だ。

神々は、素戔嗚を見る。

素戔嗚は笑っていない。笑っていない者の顔は、祭の輪の外側でいっそう目立つ。輪の外にいる者は、居場所を失う。

——一書曰く、髭を切り、爪を抜き、逐ふ。

素戔嗚は、追放される。

追放は、罰であると同時に、救いでもある。ここに居続ければ、また溢れる。溢れれば、また誰かが隠れる。隠れれば、また闇が呼吸する。

だから、風は外へ出る。

外へ出た風は、地の匂いを嗅ぐことになる。川の匂い、草の匂い、土の匂い。地の匂いは、居場所の匂いだ。居場所を失った者にだけ、居場所の匂いは強く刺さる。

素戔嗚は、天を降りる。

降りる途中で、彼は一度だけ振り返った。振り返った先には、戻った光がある。光は彼を責めない。ただ、照らしてしまう。照らしてしまうことが、光の罰であり、光の優しさだ。

「……書けたな」

ナガタが、息を吐いた。吐いた息の音が、さっきの祭の余韻みたいに少し震えた。彼も、闇に少し息を奪われていたのだろう。

「書けた」私は頷く。「闇を悪者にしないで書けたのが、よかった」

ナガタは紙面の「笑った」のところを指で叩いた。

「結局、世界を救うのは笑いなんだな」「笑いは、息だ」私は言った。「息が止まると、世界はすぐに黄泉に寄る。だから祭が要る。太鼓が要る。踊りが要る」

ナガタは少しだけ照れたように鼻を鳴らした。

「上に“踊りで解決しました”って出すの、勇気いるな」「だから祝詞と鏡と縄も書く」私は淡々と言った。「役所は、書類が好きだ。踊りだけだと不安がる」

ナガタが笑った。短い笑い。だがその短さが、今はちょうどいい。

窓の外の光が、さっきより少し強い。雨雲が薄くなり、冬の空が浅く青い。青の中に、ほんの少しだけ春の匂いが混じっている気がした。匂いの混じり方が、祭の後の空気に似ている。

私は紙の余白に、次の題を置いた。

——第10章 出雲、川がゆっくり語る。

闇の中で息を取り戻した世界は、次に“地の速度”を取り戻す必要がある。嵐の子が向かうのは、天ではない。海原でもない。——川の音が遅く、土の匂いが深いところだ。

そして私は、墨を摺る音を少しだけゆっくりにした。出雲の川は、急がない。急がないものを書こうとすると、こちらの手も急げなくなる。

 
 
 

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