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紅葉散る夜に


〈序章〉黒漆塗りの引き戸が静かに閉まると、廊下には微かに白粉の香りが漂っていた。小唄の音色が止んだあとにも、薄暗い座敷に残るのは、しんしんと冷えた空気と、まだ消せない灯り。––―その場にいた誰もが、後悔と罪悪感を抱えながら目を伏せていた。あの夜、ひとりの芸者が、満開の桜の下で微笑むように死んでいたのだ。

一、置屋の女将・君江の告白

あの子を「紅葉」と名づけたのは私です。三歳の頃、行き倒れの母親と一緒に、この置屋の門を叩いた。母親は重い病気にかかっていて、実家にも頼る当てがない。私の足元に縋りつくように倒れた母親を見て、どうしても追い返すことはできなかったんです。わずかな金銭と引き換えに「娘だけ置いていく」という母親の決断は、今思えば身勝手だったかもしれない。でも私は、その小さな手を握った瞬間、この子に賭けてみようと思いました。名前だけは母親がつけたそうですが、真っ赤に染まった楓のように艶やかな女性になってほしいという願いがあったという。紅葉は、その期待に応えるように、幼い頃から器量よしで人の心をつかむのがうまかった。舞や三味線の才能もみるみる開花して、置屋の看板娘としてすくすく育っていったんです。なのに、どうしてこうなってしまったのか。あの夜、唇をぐっと噛み、倒れ伏す紅葉の姿を目に焼きつけた瞬間、私は自分の欲深さを呪いました。もっと稼がせて名を上げさせたいと、紅葉に辛い稽古や高額なお座敷を無理強いしていたのは、この私ですから。

二、姉芸者・朋香の記憶

置屋では私が一番古株になる。けれど客受けや評判は、いつの間にか紅葉に追い越されていた。あの子は控えめなようでいて、誰よりも心を揺さぶるような色香を持っていた。稽古場でもお茶屋でも、いつも紅葉が注目の的。私は悪い子じゃないとわかっていながらも、心のどこかで憎らしく感じていた。去年の春先に、噂が立った。紅葉がある若旦那と深い仲らしい、と。――でもその若旦那は私の贔屓筋でもあった。裏切られたような、奪われたような、形容しがたい嫉妬が私の胸をかき乱した。舞台の上で擦り切れるほど頑張っても、所詮は私より紅葉を選ぶのか、と。あの夜、紅葉が座敷を外したまま帰ってこないと聞いたとき、どこかでほっとした自分がいたのを認めざるを得ない。もし彼女がどうにかなってしまえば、自分の悩みはすべて解決する…そんな身勝手な思いが脳裏をかすめた。でも、実際に彼女が桜の下で冷たくなっていたと知ったとき、心が真っ白になった。あれほど嫉妬していたはずなのに、その光が失われた瞬間、私の世界も暗闇に落ちてしまったのです。

三、客・和泉の独白

紅葉という芸者に、初めて出会ったのは小雨が降る夜だった。まだ新造のあどけなさを残しながらも、その瞳には言い知れぬ艶があった。酒の席では控えめに笑うだけで、言葉少なに杯を差し出す。その仕草が妙に胸を締めつける。彼女は、自分に値打ちがあることを本能的にわかっていたんだろう。正直、はじめは遊びのつもりだった。粋な女と戯れるのが花街の流儀。けれどあるとき、紅葉が小さな声でこう言ったんです。「私、桜が散るときがいちばん好きなんです。華やかに見える瞬間にも、もうすぐ落ちていく運命が宿っているから」–––まるで死を見つめているような、その言葉。背筋がぞくりとしました。その後、私なりに誠意を示そうとしたが、何かに怯えるように彼女は逃げるばかり。まるで、誰にも触れさせない闇の中へ隠れていくようでした。気づけば私も、答えのない問いに翻弄されるばかりで–––そして桜の咲く夜、あの姿を見つけてしまった。血の色なのか、薄紅の着物のせいなのか、彼女は月明かりに照らされて静かに横たわっていました。

四、紅葉の告白

私が死んでしまえば、みんなが楽になると思ったんです。小さい頃からずっと「置屋の宝」「花街一の器量よし」と言われ続けて、知らず知らずのうちに周囲を縛っていた。女将さんは、私が成功することで置屋の名が高まることを期待していたし、朋香姐さんも自分の存在意義を見失っていた。和泉さんは私に情をかけてくれたけど、わかっていました。私がどれほど心を許そうとしても、“芸者”である限り、どこか演じ続けなくてはいけない。実は、私には生みの母と同じ病の兆しが出ていました。医者に行く暇さえも、女将さんは与えてくれない。座敷に出れば笑われ、稽古場では厳しくあたかれ、そうやって一流と称される女を演じているうちに、私は自分が何者なのかも見失いかけていたんです。でも、もう限界でした。絹の衣をまとっていても、その中身は擦り切れた自分しか残っていない。桜が散りゆく夜、私は自分の終わりを決めました。みんなを巻き込んでしまったのは、私の勝手な思い込みかもしれない。それでも私は、せめて最後は「紅葉」という名にふさわしく、華やかなままで散りたかったんです。

終章

ある者は、彼女の死を自責の念とともに受け止めた。ある者は、あふれる嫉妬と後悔の狭間で打ち震えた。そしてある者は、彼女の儚さを永遠の美と勘違いし、供養の席でさえ涙を見せなかったという。――桜が降り注ぐ夜、艶やかな着物をまとったまま静かに消えていった芸者・紅葉。彼女の死は花街の闇を暴き、人の心に潜む弱さと欲望を浮き彫りにする。果たして、それを「悲劇」と呼ばずにいられるだろうか。

あの夜、最後の桜吹雪の中で微笑んだ紅葉の顔が、今も私たちの瞼から離れない。

 
 
 

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