緑走る台地 ~両立~
- 山崎行政書士事務所
- 5月6日
- 読了時間: 5分
第一章 工場のざわめき
翌朝、いつものように幹夫は印刷所へ向かった。あの夜の「風鈴が二つ並ぶ部屋」の余韻を胸に抱きつつも、ここでは軍の仕事が山のように積まれている。 「おはようございます」 控えめに挨拶して作業場へ足を踏み入れると、何やら職人たちが奥でざわついていた。 「どうしたんだろう……」 幹夫が遠目で様子を伺うと、急ぎの追加注文がまた来たらしい。社長が書類を小突きながら、追いつめられた顔で腕を組んでいる。その向こうには、堀内が気まずそうに視線をそらす姿が見えた。 (また軍の監視が強まるだろうか……) 幹夫は心を落ち着けるように深呼吸した。この繰り返しの中で、父と仲間を繋ぐ“声なき会話”を忘れてはならない、と自分に言い聞かせる。
第二章 遠ざかる山岸の影
昼休み、幹夫は廃材置き場の裏へこっそり回ってみたが、そこに山岸らしき気配はなかった。いつもなら、彼が現れる“合図”のようなものを感じ取れたのに、今はまるで消え去ったかのようだ。 「山岸は、もうこれ以上紙を持ち出す必要はなくなったのか……」 そっと呟いてみるが、風が吹きつけてきて廃材をぱらりと揺らすだけ。ビラの配布が終わったのか、あるいは身を隠す形で活動を続けているのか、幹夫には確かめようもない。 (井上の行方も、いまだ不明のまま……) やるせない思いと不安が入り混じり、幹夫は力なく一度肩を落とした。だが、これが**「何もかも失った」**わけではない。そうだ、父だって体力を取り戻し、いつかまた牧之原の再生に立ち上がるのだから。
第三章 堀内の示唆
夕方、機械の調整を終えて帰り支度をしようとしたところ、堀内が幹夫を呼び止めた。 「……ちょっと時間あるか。すぐ済む」 そう言って、物置の奥へ連れて行く。人気のない暗がりで、堀内は落ち着かない表情だ。 「山岸のこと、心配なんだろう。あれから姿を見せないし、俺も何も聞いていない。でも……ビラはまだ都心で散見されるって噂だ」 幹夫は唇を噛んで黙る。山岸や井上が検挙されたという話を聞かないのは幸いだが、その静寂が逆に不安でもある。 堀内は短く息を吐き、 「もしこのままビラが続けば、軍の統制はいっそう厳しくなる。社長も気を張り詰めているが、いつ何が起きてもおかしくない。俺たちもそろそろ次の手を考えないと……」
第四章 次の一手
幹夫は廃材からビラへの“密かな協力”が途切れた今、印刷所で軍の仕事を黙々とこなし続けるしか道がないのかと考える。そんな自問が頭を巡る夜、下宿に戻った彼は、二つの風鈴を見つめた。 (静岡の古い風鈴と、東京で鳴っていた風鈴……。どうにかして、ここで踏み止まるだけじゃなく、もう少し前へ進む手段はないのか) しかし、過激な行動に踏み切れば仲間を危険に晒し、印刷所をも巻き込む。かといって、黙って軍の宣伝物を刷り続けるのは、内心の葛藤を増大させるばかりだ。 「父さんも、病床で茶畑の行く末を案じている。俺はここで何を守る、何を成し遂げる……?」 まるで凍えつく夜気が窓から入り込み、胸に鋭い冷たさを与える。鈴は二つとも沈黙したまま。
第五章 旧き地図
翌日の夜、幹夫は下宿の押し入れを整理していた。何か印刷物や古い道具が紛れこんでいないか確認したかったからだ。すると、奥から古ぼけた紙の束を見つける。それは、かつて東京の街を歩き回るために使った地図だった。 「……そうだ、井上とまだ自由に動けていた頃、この地図を見ながら都心を散策したこともあったっけ……」 遠い記憶に胸が熱くなる。ビラを配って歩いた道、映画館や公園を巡った青春の一幕、いまはどれも失われかけている。 パラパラと紙をめくっていると、端に小さな書き込みが見つかった。井上が書いたらしきメモ。**「ここに来れば、いつか会える。市民の声は途絶えない」**とだけあった。 (“ここ”って……どこを指すのだろう……?) 位置的には都心のどこかの古いビルか倉庫を示しているのかもしれない。かすかな手がかりを得た幹夫は、頭の中で少し火が灯るような感覚を覚えた。
第六章 かすかな決意
夜深く、布団に横たわる幹夫は母からもらった錆びた風鈴と、下宿にあった風鈴を並べて見つめていた。東京と静岡、二つの場所に根を張る仲間たち。 「俺は静岡の父を見捨てるつもりはない。でも、ここ東京で、堀内さんや印刷所を守りつつ、まだできることがあるんじゃないか……」 井上が残した暗号めいたメモが頭にちらつく。もしそれが仲間との接点になり得るなら、このままくすぶってはいられない。 (父さんと同じように、ここで最後まで抵抗する道もある。軍に協力している印刷所の外で、仲間が動いているのなら、俺もまた“声”を上げる時が来るのかもしれない……) そんな希望と恐れが胸を交互に侵食する。すると、不意に窓がかすかに振動し、**チリン……**と短い音を立てる。 「……聞こえた……?」 幹夫はその音が幻か現実かもわからないまま、しかし胸が少しだけ軽くなるのを感じていた。
エピローグ
夜明け前、再び静寂に戻った下宿の部屋。二つの風鈴は寄り添うように吊るされているが、今は動きを止めている。 「もう少しだけ、ここで動いてみようか。印刷所を守り、父さんを守り、山岸たちを支える。……この両立が難しい道だけれど、あの音が導いてくれるかもしれない……」 遠い闇の中に沈む昭和の世、風鈴がかもし出す希望はあまりに小さい。それでも、幹夫の心には二つの鈴が確かに響きあうように感じられる。 どちらも音のない時が多いが、短くてもその一鳴きが人の魂を支える――それが、この激動の時代に生きる人々の拠り所なのだろう。幹夫はその事実を抱きしめながら、まぶたを閉じる。明日が、また一歩前へ進む朝であるよう願いつつ。
——(続くかもしれない)





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