緑走る台地 ~再上京~
- 山崎行政書士事務所
- 5月5日
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第一章 再び東京へ
昭和七年(1932年)の春先、薄曇りの空の下、東海道本線の汽車が東京へ向かって走り出した。窓辺に腰かける幹夫は、まだ入院先を退院したばかりの父・明義を思い浮かべている。 「父さんは大丈夫かな……」 心配は尽きないものの、医師や母、祖母の後押しもあって再び東京での学業を続ける決意を固めた。軍部の台頭が進むなか、父のように地方を支える官吏の立場はますます困難になりつつある。そんな時代であればこそ、東京で学んだ知識や視野がいずれ役立つはずだ——そう父も口にしてくれたのだ。 車窓から遠ざかる静岡の茶畑が、幹夫の胸に淡い郷愁を刻む。幼少の頃から幾度も見てきた牧之原の緑は、今も彼の魂の根っこを支えている。いつかこの地に“平和な日常”を取り戻したい。そんな思いが、汽車の振動に合わせてふつふつと込み上げてきた。
第二章 殺気立つ都
再び東京に降り立った幹夫を待っていたのは、物騒な噂と暗い空気だった。昭和七年になっても満洲事変は拡大を続け、3月には「満洲国」が建国され、軍がますます勢いを得ている。一方で国内では失業者が増え、政治にも激しい動揺が起きていた。 「最近、右翼団体が政財界の要人を狙っているって話だ。上級生が言ってたよ」 下宿へ戻る道すがら、親友の井上が小声で囁く。街中には軍服や国粋団体らしき者が目立ち、デモや政治集会は警官隊の監視下に置かれていた。 「ふとした発言で“非国民”呼ばわりされることがある。俺もあんまり派手に動き回れなくなったよ」 井上の瞳には以前にも増して警戒の色が漂う。幹夫は胸の奥でざわつくものを感じながら、溢れかえる人波のなかを黙々と歩いた。
第三章 大学と不穏な影
大学でも“国策”に肯定的な教授が増え、軍部寄りの講演やシンポジウムが盛んに開かれるようになった。幹夫が聴講する経済学の講義も、「満洲国の開発こそが日本再生の鍵」と力説する内容に傾きつつある。 「これではまるで、異なる意見を口にできない空気じゃないか……」 幹夫はノートを取りながら、やるせない思いをこらえる。クラスメイトの中には、軍の動きを熱烈に支持する者もいれば、ひそかに反対意見を抱く者もいる。だが、公の場で議論することは日増しに難しくなっている。
そんな中、井上は一層やきもきしていた。大学の掲示板に張り出されたビラの多くが「満洲開拓論」や「国民精神総動員」を謳う一方で、反対意見はすぐに破り捨てられる。 「幹夫、これが“言論の自由”を掲げていた頃の日本と同じ国か? 大正デモクラシーはどこへ行ったんだ?」 井上の問いに、幹夫はうまく答えられない。かつて教わった民主政治の理想や、父が静岡で必死に守ろうとしていた地方の声は、すでに届かないところへ押しやられつつあるのかもしれない。
第四章 血の色の事件
そんなある日、都心で衝撃的な暗殺事件が起きた。総理大臣・犬養毅が海軍青年将校らに殺害された――五月十五日のことだ。 「五・一五事件……」 新聞各紙が一面で報じ、大学の校内も騒然となる。政党政治を支えてきた首相がテロによって命を落とした事実は、ただならぬ衝撃をもって幹夫たちの胸を締めつけた。 「こんなことがまかり通るようになるなら、もう民主主義なんて形だけじゃないのか……」 井上は唇を噛み、顔を青ざめる。もし軍が本格的に政権を握れば、議会も地方自治も徹底的に踏み潰されるだろう。そのとき、静岡の父はどうなるのか。あの茶畑や農村は?
幹夫は震える手で新聞を握りつぶした。幼い頃の米騒動とは違う、遥かに大きな“暴力の風”がこの国を覆い始めたのだ。東京の学生仲間の間にも、“いつ弾圧されるか”“殺されるかもしれない”という恐怖がひたひたと広がる。
第五章 印刷所の決断
一方、幹夫が働く印刷所にも大きな変化が訪れていた。これまで幅広いチラシやパンフレットの印刷を請け負ってきたが、経営者が「もう軍部批判のような注文は受けられない」と正式に宣言したのだ。 「俺だって好きで軍を支持してるわけじゃない。だけど、どこからどんな圧力が来るかわからん。家族を守るには仕方ねぇんだ……」 そう言う社長の顔には、悔しさと諦めが混ざり合う。彼がこっそり作っていた「反戦のビラ」の注文は、すべて断ることになった。 幹夫は押し黙ったまま働き続ける。機械がリズムを刻み、“国威発揚”を掲げるビラが次々に刷り上がるのを黙って見つめるしかない。このまま全てが軍に呑み込まれていくのか――そう思うと、全身が冷たく固まっていくようだった。
第六章 井上の行方
六月に入ると井上が大学へ姿を見せなくなった。心配した幹夫が下宿を訪ねると、大家が渋い顔で首を横に振る。 「井上くんかい? もう一週間ほど部屋に戻ってきてないねぇ。警察の人が様子を聞きに来たきり、行方がわからんよ」 幹夫の心臓が大きく跳ねる。もし井上が過激な集会に参加し、当局に連行されたのではないか——そんな不安が込み上げる。彼のデスクに散乱したままの書籍やノートが、急な旅立ちを物語っていた。
街を歩き回って友人や運動仲間を当たってみるが、誰も井上の行方を知らない。 「井上さんなら、どこか安全な場所に身を隠したんじゃないか」 そう囁く者もいれば、 「もしかして警察に捕まったかも……」 と顔を曇らせる者もいる。 幹夫は、井上が満洲事変を批判する姿を何度も目にしてきた。その声を守ることはできなかったのかと、やりきれない思いに駆られる。
エピローグ
梅雨の雨が激しく降り注ぐ東京の街。国会議事堂付近にはサーベルを下げた憲兵が立ち、巡回する。幹夫は大学の廊下で雨越しに灰色の空を見上げながら、心ここにあらずのまま息を飲んだ。 首相暗殺という事件を経て、国は間違いなく何かが変わり始めている。 その歪みの中で、井上のように声を上げる者は消えていくのかもしれない。 静岡の父の言葉、“おまえたちの声がやがて日本全体に響く” という願いは、 もはや幻となってしまうのか。 それでも、幹夫は諦めきれない——。
新しいビラを手にしながら、幹夫は唇を噛む。今はまだ何もできなくとも、父の背中、茶畑の風景、青年団の賑わい……それらを心の糧に、いつか必ず光を取り戻す道を探す。激動の昭和は、これからさらに深く暗い闇へ進むかもしれない。だが、幹夫は東京の片隅で、その闇に抗う意思だけは絶やさぬようにと誓うのだった。
——(続くかもしれない)





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