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緑走る台地 ~冬~

第一章 冬の訪れ

 昭和七年(1932年)晩秋から初冬へ、東京の街はうっすらと冷え込みを増しはじめた。茶色く色づいた街路樹の葉が地面に積もり、冷たい風がビルの谷間を吹き抜ける。 大学の正門にも、頑丈な門衛が立つようになったと噂が広がっていた。「国防と挙国一致」を呼びかける宣伝に混じって、大学関係者の言動を監視する者もいるらしい。幹夫はそんな空気の中、足早に講義へ向かいながら、人目を気にする自分に少し嫌気がさしている。

 「(父さんや井上は、こんな姿をどう思うだろう……)」 胸の奥でそう呟いても、今はやむを得ないと自分に言い聞かせるしかない。いつどこで誰が見張っているのかわからない状況下では、迂闊な行動が命取りになり得る。それでもなお、幹夫の中には「自分の信念を貫きたい」という燃えさしが、くすぶっているようだった。

第二章 堀内の真意

 印刷所は相変わらず、軍需関連のチラシやポスターの注文で埋め尽くされていた。作業を始めた幹夫が機械を動かしていると、脇で控える堀内の姿がいつもと違うことに気づく。むやみに声をかけることもなく、黙々と印刷物の束を裁断している。 作業がひと段落した夕方、堀内はそっと幹夫の肩を叩いた。 「……おまえ、大学に通っているんだってな」 幹夫は一瞬身構える。だが堀内の瞳には、いつになく緊張したような光が浮かんでいた。 「ええ。……でも何でそんなことを?」

 堀内は少し言いよどみ、それから誰もいない隅へ幹夫を促す。 「実は俺、軍にいたことがある。除隊して今は民間で働いてるが、兵役を経た身としては、この“軍拡ブーム”にどうしても違和感があるんだ。……ただ、それを声に出せば、たちまち睨まれる」

 予想外の告白に幹夫は言葉を失う。堀内の鋭い目つきは、軍部の走狗などではなく、自らの葛藤を抱える人間の目だったのだ。 「俺はそういう立場だから、社長に呼ばれて印刷所に来た時も“軍関係に詳しい人間”として扱われた。言ってみれば、ここの安全牌みたいなもんだ。だが、正直、満洲だの戦争だのと騒ぐ世間の流れに、心のどこかで反発を感じる。……おまえも、本当はこういうポスターを刷りたくはないだろ?」

 幹夫は静かにうなずく。堀内はそれだけ言うと、「悪いが、もう少しで作業再開だぞ」と言い残して席を離れた。何かを託すような彼のまなざしが、幹夫の胸をかき乱す。

第三章 反戦ビラの噂

 大学や下宿界隈で、最近「反戦ビラ」が再び出回り始めたという噂が飛び交っていた。だが、すぐに警察や地回りの者が回収してしまうため、現物を見た者は少ないらしい。 「ふた昔前ならこんなビラは自由に読めたかもしれないが、いまは危険だね。書いた人間はすぐに捕まるだろう」 クラスメイトの囁きに、幹夫は心をざわつかせる。もし井上がどこかで書いているのなら……。しかし違うかもしれない。いずれにせよ、まだ“声を上げる人”がいることが救いだった。

 そんなある夜、下宿の部屋で明かりを落とし、ノートを広げていた幹夫は、ふと机の上に置かれた一枚の紙片に気づく。 「このビルに関する印刷はどうなっていますか?」と走り書きされ、ペンネームらしき署名がある。まるで何者かが部屋に忍び込んで書き残したようだ。慌てて外を見るが人影はない。 紙の文面からは何が言いたいのか分からないが、「ビル(印刷物)」という単語だけ気になる。もしかすると先日噂を聞いた「反戦ビラ」のことを示唆しているのではないか。幹夫は震える手で紙を握りしめ、暗闇を見つめた。

第四章 堀内との対話

 翌日、印刷所の昼休み。社長が外出している隙に、堀内が再び幹夫を呼び止めた。 「おまえ、何か変な紙片をもらってないか? 俺の耳に、それらしい話が届いてる。おまえの下宿に何者かが訪れた、とか……」 思わず幹夫は紙片のことを思い出し、胸が高鳴る。だが不用意に話せば堀内が危険に巻き込まれるかもしれない。迷いつつも、幹夫は意を決して低い声で答える。 「……変な走り書きが机にあった。誰が書いたのか、何を意味するのか、全く見当がつかないんだ」

 堀内は幹夫の顔を見つめ、やがてため息をつく。 「そうか。まあ、その手の話はほとんどが“反戦ビラ”絡みだろうな。俺が軍にいたころも、一部の兵隊たちが小声で“このままじゃ日本が危ない”って言っていた。だが表に出せる奴はいなかった。…もしかすると、おまえを仲間に引き込みたい誰かがいるのかもしれない」

 言われてみれば、思い当たる節がある。井上の動向も掴めないなか、自分を探っている人物がいてもおかしくはない。 堀内はそっと声を潜める。 「もし本当に反戦ビラを刷るんなら、この印刷所では無理だ。すぐにバレる。……ただし、俺には昔の軍仲間を通じて手に入れた“ある場所”がある。もし危機が迫ったら、そこに隠れろ、そう教えられてるんだが……」 そこまで言うと、彼は黙った。あまり深入りすまいという思いがあるのだろう。

第五章 父の決断

 その週末、また静岡からの手紙が届いた。父・明義は、軍飛行場用地の選定がいよいよ本格化していることを告げている。 「反対意見は弱く、これを止める術はほとんどない。だが、わたしは決して『賛成』のハンコは押さないと決めた。たとえ結果が変わらなくとも、わたしは地方行政マンとして“静岡の皆が納得していない”という事実を記録に残すつもりだ。 おまえが東京で目にしている通り、日本は国全体で戦争へ向かう勢いが止まらないだろう。だが、何もかもを諦めるにはまだ早い。そう信じて、ぎりぎりの抵抗を試みる。」

 幹夫は父が抱く静かな抵抗の意志に胸を打たれる。結果は変わらないかもしれないが、黙って流されるのではなく、一線を守ろうとする姿。その姿こそ、幹夫が幼い頃から尊敬してきた父の強さだった。

第六章 小さな火

 幹夫は週明け、大学で授業を終えた後、下宿に戻る。相変わらず誰かに見張られているような不穏な空気を感じつつ、狭い部屋の戸を開けると、机の上にまた別の紙片が置かれていた。 「そろそろ意思表示してもらいたい。  声を上げるか、沈黙するか——どちらであっても構わない。  おまえの心に火が残っているのなら、東神田の倉庫へ来い。  ——友より」

 幹夫の胸が高鳴る。やはり井上なのか。それとも井上の仲間なのか。 「声を上げるか、沈黙するか……」 父は牧之原台地の飛行場計画に抵抗する道を選んだ。では自分はどうする? このまま印刷所で軍事ポスターを刷り続け、大学で軍拡論を聞き流すだけでいいのか。 戸惑いながらも、幹夫の中で一つの答えが芽を出しはじめる。父のように“ぎりぎりの抵抗”を示す道は、ここにもあるかもしれない。井上がいるかもしれない東神田の倉庫へ行き、何ができるか確かめるべきだ——そう思えた。

エピローグ

 夜闇が降りる東京の街。遠くからは凱旋パレードの練習らしき太鼓の音が微かに響き、軍靴を引きずる音が路地裏にこだまする。 下宿の薄暗い明かりの下、幹夫は父の手紙と謎の紙片を握りしめ、目を閉じる。 「俺にも一線を守る勇気があるだろうか。井上が本当にそこにいるのなら……」

 外からの風がページを捲り、ノートの記述を乱す。けれども幹夫は一歩も引かない。小さな火種を胸に宿して、いま踏み出すべき道を探し始めている。激動の昭和のうねりは、いよいよ烈しく、幹夫の選択を試すように迫ってくるのだった。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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