緑走る台地 ~友の影~
- 山崎行政書士事務所
- 5月5日
- 読了時間: 5分
第一章 友の影を探して
昭和七年(1932年)の六月下旬。幹夫は東京の街を歩きながら、ふと人ごみの向こうに井上がいるのではないかと幻を見てしまう。失踪して半月、未だに井上の行方はわからないまま。警察に連行されたという確証もなければ、消息を絶ったという噂だけが静かに広がっている。 「井上……どこへ行ったんだ……」 幹夫の胸には、さまざまな記憶が絡みつく。反戦を掲げる井上の熱い言葉、下宿で共に語り合った夜、そして彼が「今こそ声を上げねばならない」と言い残した姿——。 市電の軌道沿いには、国粋団体が掲げる大きな横断幕が吊り下げられている。そこには「我ガ国威発揚」「満洲開発ハ国ノ礎」といった標語が威圧的に並ぶ。ここにはもはや反対意見を挟む余地などないのかもしれない。幹夫は唇を噛みしめた。
第二章 変わりゆく大学
大学構内は一見平穏に見えながらも、実際は緊張の糸が張り詰めていた。五月十五日の犬養首相暗殺事件から一ヶ月あまり、軍の発言力はぐんと増し、教授や学生たちは軽々しく意見を交わすことさえはばかられている。 幹夫が聴講する経済学の講義では、満洲の資源や開拓の「大義名分」を論じる教授が増え、「日本の将来は満洲にあり」というフレーズが毎回のように口にされる。 「いずれ世界と国際連盟が日本を認めるだろう。今は国を挙げて満洲を支援するべきだ」 そんな声を聞きながら、幹夫は曖昧にノートをとる。かつて大正期に掲げられた「民主政治の理想」は、いまや大学の片隅に追いやられているかのようだ。 「井上がいたら、激怒して止まらなかっただろうな……」 休憩時間、幹夫は廊下の窓から校庭を見下ろし、自嘲気味にそうつぶやく。だが、井上はいない。せめて自分にできることを——と思いつつも、その「何か」はまだ見つけられずにいた。
第三章 印刷所の苦悶
一方、アルバイトを続けている小さな印刷所では、例のごとく軍を称揚するポスターやパンフレットの印刷注文が舞い込むようになっていた。 「なんとも皮肉なもんだ……これが今の“商売”なんだからな」 社長は紙束を抱えてため息をつく。かつては多様なチラシを印刷し、庶民の声を後押しするような仕事も引き受けていた。しかし今は、下手に反軍的な文章を刷ればすぐに警察の目が光る。 幹夫は黙って機械を動かし、次々と印刷物を仕上げる。インクの匂いが鼻を刺し、やがて印刷機は「国益」「満洲国」「帝国軍万歳」といった言葉を脈絡なく吐き出していく。 作業の合間に、古い棚を整理していると、奥から埃をかぶった原稿用紙の束が出てきた。かつて誰かが作成した「労働者待遇改善を訴える原稿」らしく、今なら間違いなく発禁対象だろう内容が殴り書きされている。 幹夫は胸が詰まる。こんな原稿を堂々と印刷できたのは、まだ自由な言論が残っていた大正期か、あるいは昭和の初めごろまでだったのかもしれない。
第四章 警戒のまなざし
ある夜、印刷所を出て下宿へ向かう幹夫の背後に、ふと誰かの視線を感じた。振り向くと、街灯の暗がりに人影らしきものが一瞬揺れ、すぐに消え失せる。 「……気のせいか?」 だが、その不気味な感覚は消えない。井上が行方不明になってから、何かの拍子に幹夫も監視対象となっているのではないか——そんな不安に駆られる。 下宿に戻ってガス灯をつけ、机に向かおうとすると、窓の外に小さな人影が一瞬横切った気がした。急に胸がドキリとし、慌てて扉を施錠する。 どこへ逃げるでもない自分ではあるが、軍拡や反戦活動への警戒が連日報じられる世情を思えば、あり得ない話ではない。幹夫は薄い布団にくるまりながら、“沈黙”と“行動”のはざまで戸惑い続ける。
第五章 遠い静岡と父の手紙
七月に入ったある日、静岡から父の手紙が届いた。退院後、職場へ復帰したものの、相変わらず国の方針に翻弄される日々が続いているという。 「満洲事変の影響は、県にも大きく波及している。軍部や中央官庁の意向を汲み、地方の産業政策や予算を組み直さねばならない状況だ。静岡の茶園や楽器工場も、いずれ軍需へ転換しろという圧力がかかるかもしれない。 それでも、わたしが生きる意味は、あくまで県民を支えることにある。幹夫、おまえもどうか東京で学びながら、自らの道を見失わぬようにしてほしい。ときは苦しいが、必ず誇りを失わずにいられる日が来ると信じている。」
幹夫は手紙を読み返し、父の思いに胸を熱くする。苦境の中でもなお、「人々の暮らし」を見据えようとする父の姿が目に浮かぶ。大正期から受け継いだ地方自治や産業振興の精神は、戦争の時代に埋もれようとしているが、父はそれを守り抜こうとしているのだ。
第六章 結ばれぬ思い
その夜、幹夫は薄暗い電灯のもと、ノートを開いてペンを走らせる。 「井上へ——今どこにいるのか。もし生きているなら、せめて一報をくれ。君が言っていた『声を上げる』ことは、時代のうねりの前に掻き消されてしまうのだろうか。俺も未だ何もできずにいるけれど、軍拡がこの国を覆い尽くす前に、俺たちに何かできることはないか……。 父さんからの手紙を読むと、地方も国の波に飲み込まれている。それでも父は踏みとどまろうと必死だ。もし俺たち若者がここで黙り込んでしまえば、きっと将来の道は閉ざされる——。 だけど、君がいない今、俺は一人で何をどう動けばいいのか……教えてくれ、井上……。」
幹夫は書きかけの手紙を破り捨てる。出す宛先もわからない。張り裂けそうな胸の痛みだけが、部屋の空気を重くする。外からは遠ざかる警笛の音が聞こえ、いつの間にか夜は静まり返っている。
エピローグ
梅雨明けが近づき、東京の夜は熱気を帯び始めた。大正の名残を感じさせた自由や活気は、昭和という激動の中で次第に薄れ、軍服が闊歩する街並みは新たな秩序を築こうとしているかのように見える。 幹夫はノートを閉じ、父の手紙をもう一度握りしめた。自分にはまだ何も決め手がない。だが、静岡で懸命に働く父や、見失った友の姿を忘れてはならないと思う。 「俺はまだ学んでいる途中だ——でも、この学びは必ず生きるはず。今はそれを信じよう……」
どこからか、かすかにラジオの音が聞こえてきた。「満洲国を正式に承認せよ」と熱弁をふるう政治家の声だろうか。幹夫はかたく目を閉じた。暗闇の中、微かな灯火を探すように、彼は静かに夜を越えていく。いつか、井上の姿をこの目で確かめる日を夢見ながら——。
——(続くかもしれない)





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