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緑走る台地  ~始動~

第一章 疑念の種

 昭和七年(1932年)末。空は一段と暗く、冷たい雨が東京の街をしとしと濡らしていた。 下宿で夜を過ごす幹夫は、薄い布団に包まりながらも眠りが浅い。先日、東神田の倉庫で出会った井上たちの姿がまぶたにちらつく。彼らは地下で反戦ビラを刷り、軍拡に傾く日本を食い止めようとしている。 幹夫は心で繰り返す。「声を上げるか、沈黙するか。もう後には引けない——」 父が静岡で軍飛行場計画に“ぎりぎり”の抵抗を試みている事実を思えば、自分だけが安全圏で傍観していては何の意味もない。

 しかし、昼は印刷所で勤務し、夜は大学へ通う忙しさのなか、ビラ印刷に協力するにはどう動けばいいのか。印刷所から紙やインクを持ち出せば、すぐに社長や同僚の堀内を危険に巻き込みそうだ。思いあぐねたまま、夜は更け、窓の外では雨音だけが幹夫の胸を叩くように響いていた。

第二章 ある情報

 翌朝、ずぶ濡れのコートを引っ提げて印刷所へ駆け込むと、社長が新聞を睨みながら深いため息をついている。 「おはようございます、社長。天気、ひどいですね」 幹夫が声をかけると、社長は新聞を折りたたんで小声で言った。 「最近、このあたりでも反戦ビラが見つかったらしい。警察が血眼になって探しているそうだ。俺たちまで疑われちゃかなわんからな、絶対に妙な真似はするなよ」 幹夫の心臓が強く跳ねる。まさに井上たちが配布しているビラのことだろう。これは早晩、公安当局が倉庫に踏み込む恐れもある。もしそうなれば、井上らの活動は一巻の終わりだ。

 背後では同僚の堀内がこちらの様子を窺うように視線をやってくる。彼も幹夫が秘密の動きをしているかもしれないと感づいているのだろうか。だが堀内は、それ以上何も言わず、印刷機を動かし始めた。機械の轟音が雨音に重なり、幹夫の胸の動悸をかき消していく。

第三章 堀内の助言

 昼休み、幹夫が工場の裏で弁当をつまんでいると、堀内が声をかけてきた。 「おまえ、例の倉庫に関わってるんじゃないか?」 幹夫は弁当箱を落としそうになる。周囲に誰もいないのを確かめながら、一瞬口ごもった。だが、ここで嘘をついても仕方がない。 「……知り合いがそこで、ビラを刷ってる。軍拡を止めようって必死なんだ」 堀内は深くうなずき、唇を噛む。 「俺も軍人時代、“このまま進んだら日本は危うい”と思ったことがある。だが声を出せなかった。あの頃より状況はさらに厳しいが……おまえはどうするんだ?」

 幹夫は怖さと昂りの間で揺れる心を吐露する。 「印刷所の紙やインクを盗むのはまずい。でも何もしなければ、友人も行き詰まる。俺がどうにか物資を手当てして、あの人たちの活動を支えられないだろうか……」 堀内は少し考え込み、それから低い声で言った。 「余りの紙やインクなら、廃材として処分される分が少しはある。社長の目を盗んで持ち出せるかもしれん。だが、必ず足がつかないようにしろよ。印刷所が摘発されたら、俺たちもアウトだ」

第四章 廃材置き場の夜

 その夜、幹夫はバイト後にこっそり工場の裏口へ回り、廃材置き場を覗き込んだ。印刷の余り紙や切れ端のロール紙、使い切れず捨てられたインクの缶がいくつか雑然と積まれている。 「これだけでもガリ版なら十分刷れるはず……」 手探りで紙の束をリュックに詰め込み、捨てかけのインク缶を小さな容器に移す。背後に人の気配はなく、雨上がりの湿った空気だけが肌にまとわりついている。 堀内が見回りをしてくれているのか、時折足音らしき音が聞こえるが、懐中電灯の光は向かない。まるで暗黙のうちに幹夫の行為を助けているかのようだ。 「堀内さん……ありがとう……」 胸中でそう呟きながら、幹夫はリュックを背負い、闇に溶け込むように工場を離れた。

第五章 父からの報せ

 下宿へ戻ると、一通の手紙が届いていた。差出人はやはり静岡の父・明義。封を開くと、飛行場用地の計画が県内で決定的になったという知らせが書かれていた。 「多くの有力者や地主が軍の思惑を歓迎している。補償金も出るという話で、茶畑を軍に渡す者が続出だ。わたしは庶民の声を代弁しようとしたが、現状を食い止めることはできそうにない。だが、最後まで反対意見を記録に残すのが、わたしの責務と思っている。 幹夫。おまえも苦しいだろうが、志を曲げずに生き抜いてくれ。やがて時代が転換し、再び自由が戻る日が来ると信じるのだ。…祖母もおまえの無事を毎日祈っている。」

 幹夫は父の苦渋が伝わってくる文面に唇を噛む。地元の大切な茶畑が軍飛行場の建設地に変わり、牧之原の風景が大きく変わってしまうかもしれない。その痛みは父だけでなく、多くの農民が抱えているだろう。「俺には何ができる?」 ふと手元のリュックに目をやった。

第六章 ビラの朝

 翌朝早く、人通りの少ないうちに東神田の倉庫を訪ねると、井上たちがガリ版機を囲んで試し刷りをしていた。夜を徹して作業していたのか、疲れた顔に深い隈を抱えている。 「幹夫……来てくれたんだな」 井上がほっとした笑みを浮かべる。幹夫はリュックを下ろし、中の紙やインクを取り出す。 「廃材置き場から少しだけだけど、これで何とかなるかもしれない……」 一同は食い入るように紙やインクを確認し、「ありがとう、これだけでもかなり助かる」と口々に言う。あの中年男性は深々と頭を下げた。

 ビラの文面には「満洲事変の実態」「戦争で苦しむ農民や労働者の姿」「国家総動員がもたらす危険」などが書かれている。軍の称揚記事が溢れる世の中で、こんな文言を表に出せば確実に弾圧される。しかし彼らはやめようとしない。 「俺たちが世論を一気に動かせるとは思ってない。それでも、何かが残るはずだ」 井上の声は震えているが、その瞳にはかつての闘志が戻りつつあるように見えた。

エピローグ

 ビラの印刷は夜明け前まで続き、幹夫は一時的に手伝いながら、深夜の東京の静寂のなかで活版機(ガリ版機)のリズムを聞き続けた。動き続けるそのリズムが、まるで遠い静岡で鳴り響く父の心音と重なっているかのように思える。 「遠く離れていても、俺たちは同じところで戦っているんだ——」

 倉庫の隙間から差し込む薄い朝焼けが、紙面に映し出された文字をうっすらと照らす。その文字はかすれ、不格好だが、確かな意志を帯びていた。 幹夫はリュックの底に残った数枚の用紙を見て、静かに拳を握る。まだまだ危険な道のりは始まったばかり。それでも、父や祖母が待つ静岡の空へいつかこの声が届くときが来る——そう信じるしかなかった。 戦争の時代が牙をむき出すなか、緑の台地の少年は、不安と希望の狭間で小さな声を紡ぎだそうとしている。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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