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緑走る台地 ~希望~

  • 山崎行政書士事務所
  • 5月5日
  • 読了時間: 5分

第一章 かすかな朝の祈り

 翌朝。 夜が明けきらないうちに目を覚ました幹夫は、布団の中でしばし固まっていた。月のない空の闇が薄れるにつれ、部屋の輪郭がぼんやり浮かび上がってくる。ふと耳を澄ませば、部屋の奥で風鈴が微動する気配はない。静まり返ったままの鈴に、彼は昨夜の一瞬の音を思い返す。 (堀内さん、山岸……どうか無事でありますように) 胸の奥でそう祈りつつ、幹夫はいつもより早く着替えを済ませる。もし印刷所で何事かが起きていれば、今日は始業の鐘が鳴る前に大騒ぎになっているかもしれない。彼は鉛のように重い足どりで下宿を出た。

第二章 かろうじて変わらない日常

 印刷所の門をくぐると、建物は昨日と変わらぬ姿で静かに佇んでいる。朝の空気がひんやりと感じられる中、奥からは早番の職人たちが雑談する声が微かに聞こえた。 (何事もなく見える……) ほっと胸を撫でおろし、奥へ進むと、いつものように社長が書類を睨みながら腕を組んでいた。堀内はすでに来ているのか、作業場のほうから金属が擦れる音が響く。 「おはようございます」 幹夫が控えめに声をかけると、社長は顔を上げて「おはよう」とだけ返した。その表情にいつもの疲れはあるものの、驚きや悲壮感は見られない。どうやら“事件”は起きていないようだ。 (よかった。ひとまずは……) 安堵とともに、幹夫は廃材置き場がどうなったのか気にかかる。だが、まだ周囲の目を気にせずに覗き込める状況ではない。

第三章 堀内の秘密

 しばらくして、廃材置き場の整理を任された幹夫は、見計らったように裏口へ向かう。そこには立ち尽くすように堀内がいて、周囲を一瞥してから低く囁いた。 「昨日のうちに、奴ら(山岸たち)は紙を持ち出していったよ。夜まで粘ってみたが、結局姿は見えなかった。代わりに置かれてたんだ」 そう言って堀内が小さく取り出したのは、小さな紙切れ。幹夫が目を凝らして見ると、「紙、十分助かった。礼を伝える」とだけ走り書きされていた。 「どうやら昨夜のうちに無事回収したらしい。俺が通用口の鍵をわざと少し開けておいたのが功を奏したのか……。警官に見つからずに済んだようで、何よりだ」 堀内の表情は、どこか蒼ざめながらも安堵が漂っている。 「ありがとう、堀内さん……危ない橋を渡らせてしまって」 「いいんだ。俺もこれで多少は救われる。まるで昔の罪滅ぼしさ……」

第四章 結び合う声

 昼下がり、幹夫は印刷機を回しつつ、心の中で山岸の言葉や父の手紙を思い返していた。井上たちが必要としていた紙は届けられ、ビラを続けることができる。父は静岡で茶畑を諦めず、農民を守るために孤立無援の闘いを続ける。自分は印刷所を守りながら、ほんのわずかに彼らを後押ししている。 (こんな形でしか繋がれないのだろうか……) 苦い思いは拭えない。それでも、離れた場所で同じ方向を見ている者たちがいる――その事実が幹夫の小さな拠り所だった。 ガシャガシャと回る印刷機の音は、軍のプロパガンダを作り出す中で、幹夫にとっては**仲間たちとの“声なき会話”**でもある。廃材が流れ出し、ビラへと生まれ変わっていくかもしれないと思えば、この轟音も少しだけ救いに思えた。

第五章 遠い春の光

 作業を終えて夜の下宿へ戻る途中、幹夫はふと空を仰いだ。雲間から微かな月が覗いていて、薄い光が路地を照らしている。 「いつか、みんなが自由に声を上げられる日が来るだろうか。井上も、山岸も、父さんも……」 声に出さず呟き、幹夫は自分の胸に問いかける。だが、答えは風がさらりと吹き飛ばしていくばかり。結局は、一歩ずつでも“今できること”を続けるしかない。それが、浅い眠りのなかで小さな光を見つける唯一の道だ。 帰り着いた下宿の外には、ほんのわずかに春の匂いが混じる風が通り抜けていった。まるでそれが、いつかくる“春”を、わざわざ耳元で告げているかのようにも感じられた。

第六章 風鈴の静寂

 夜半、布団にもぐった幹夫は、窓辺の風鈴を見つめていた。今宵は音を立てる気配がない。——けれど不思議と焦燥は薄らいでいる。 「紙は行き渡った。堀内さんもやれるだけやった。父さんの踏み止まりはまだ続いている。……明日も印刷所を守ろう。それだけが、俺にできる方法だから……」 風鈴は無言のまま、でも心のどこかに確かな鼓動を感じる。あの小さな音は“自分たちの声はまだ消えていない”と教えてくれた。鳴らずとも、その存在だけで繋がっている気がする。 幹夫は静かに目を閉じ、父の苦悩や堀内の善意、井上たちの決意を胸に刻む。春はいつか必ず訪れる。たとえ戦争の足音が迫ろうとも、幹夫は薄闇のなかに小さな光を見つけ続けるだろう。風鈴がいつか再び高らかに響く日を信じて——。

エピローグ

 夜明け前、冷えきった外気が窓から漏れ入り、風鈴はかすかに揺れた。が、音には至らない。 それでも、幹夫の心はわずかに満たされていた。軍の監視はいずれもっと激しくなるだろうが、それまではこの静かな綱渡りの日常を守り抜けるかもしれない。 「父さん、井上、山岸……俺はここで踏みとどまる。小さな声を重ねて……いつか大きく鳴り響く風鈴を夢見て……」 朝焼けに染まる空を感じ取りながら、幹夫はそっと布団の中で胸を膨らませる。その息遣いは、微かながらも力強い鼓動を伝えていた。昭和の灰色の空が晴れる日は遠いかもしれないが、彼の心には薄雲の裂け目から光が射し始めているのだ。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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