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緑走る台地 ~役割~

  • 山崎行政書士事務所
  • 5月6日
  • 読了時間: 5分

第一章 再来の地図

 昭和八年(1933年)六月初旬、幹夫はいつものように印刷所の門をくぐった。六月に入ったとはいえ、東京の空気は湿り気を含んだ重苦しさが漂う。 彼は朝早く、下宿の机の上で広げた古い東京地図を改めて眺めていた。井上が残したと思しきメモが記された場所――見知らぬ倉庫街や裏通りを示す線が、そろそろ自分を呼んでいるのではないかという衝動を感じるのだ。 「いつか、ここを直接訪れてみようか……。もし危険でなければ、井上の手がかりや、まだ活動を続けている人を見出せるかもしれない」 そんな思いを抱えたまま、湿った風を感じながら工場の奥へ足を進める。

第二章 軍向けの急務

 朝の朝礼が終わると、社長がいつにも増して焦った声で指示を飛ばした。 「幹夫、堀内、すまないが、今日も終電まで残ってくれ。新たに大口の軍向けポスター印刷の注文が来たんだ。さっき連絡があって、至急対応しなければならない」 幹夫は静かにうなずくしかない。ここで断れば軍の監視を引き寄せ、社長や仲間たちが危機にさらされかねないからだ。 堀内が幹夫の横に立ち、苦笑いしながら肩をすくめる。 「またか……仕方ないな。おれたちで何とかするしかない。だけど、ほんとに限界が近いような気がしてならないよ」 幹夫は唇を引き結ぶ。いつまでこんな綱渡りが続くのか――井上や山岸の消息もつかめないまま、軍の仕事を黙々とこなす日々に苛立ちを覚えながらも、今は踏み止まるしかないのだ。

第三章 闇に消えた職人

 昼休み、職人仲間の何人かが集まって小声で話しているのを耳にした幹夫は、胸がざわめく。「誰か、また辞めるのか?」 近づいてみると、どうやら先日も名を聞いた職人が、唐突に行方をくらませたらしい。理由はわからないが、誰も彼の足取りを掴めていないという。 「警察に捕まったわけじゃないといいが……。もう精神的に限界だったのかもしれない」 そんな声がひそひそと交わされる。幹夫はその光景を見ながら、暗い気持ちに包まれる。 (この印刷所で耐えきれなくなった人がまたひとり消えた……俺たちも同じ境遇かもしれない。もしこの仕事に心を削られてしまえば……) 目の奥が焼けつくように痛む。外の空気は曇り空でぼんやり明るいだけだが、工場の中はどこか夜のような重苦しい陰を孕んでいる。

第四章 風鈴を眺める男

 残業が終わった深夜、泥のように疲れて下宿へ戻った幹夫は、窓辺の風鈴を見つめる癖のように視線を送った。 すると、珍しく堀内の声が耳に浮かぶ――彼が印刷所でこぼした「限界が近いかもしれない」という嘆き。 「この鈴が鳴るか鳴らないか……。まるで印刷所の運命を示しているようだ」 幹夫はそうつぶやくと、そっと二つの鈴のうち、東京の方を示す鈴を指先でほんの少しだけ触れてみた。かすかな揺れが起き、**チリ……**と短い音がしたが、それはすぐに沈黙に飲まれる。 (堀内さんや社長をここで見捨てることはできない。けれど井上の仲間が潜む場所を探り、父のように動き出す道もある。俺は一体……) 葛藤だけがまとわりつくまま、かすかな音の余韻が胸に残り、彼は眠りについた。

第五章 地図の風景

 翌朝、幹夫は印刷所の始業前に少し早く出て、地図が示す倉庫街へ寄り道することを決めた。せめて昼間の光の下であの場所を確かめたい――昨日の夜、思い切って動こうと思ったのだ。 路地を抜け、地図と照らし合わせながら倉庫の並ぶ一帯を歩く。すると朽ちかけた扉の奥で、誰かの人影が動いたように見える。 「……すみません」 思わず声をかけるが、返事はない。扉の隙間から覗いてみても真っ暗で、中に人がいる様子はあるが気配はわずかだ。 (ここで大声を出せば警戒されるだろうし、下手に近づけば警官に見つかるリスクが……) ビルの陰に潜むようにして幹夫は一瞬待ってみたが、結局誰も姿を見せず。**「仕方ない……また夜か別の時に試そう」**と後ろ髪を引かれる思いで、印刷所へ引き返した。

第六章 微かな合図

 それから数日が過ぎ、特に大きな事件もなく、印刷所の日々は淡々と続いた。軍の作業はひたすら量を増し、職人たちが疲労で倒れそうになるのを見ながら、幹夫は「もう時間がない」と感じずにはいられない。 そんなある夕暮れ、作業を終えて工場裏を歩いていた幹夫は、小さな紙切れが地面に落ちているのを見つける。 そこにはわずかに**「まだ終わっていない。近いうちに知らせる」**と書かれていた。筆跡はどうやら山岸のものとは違うが、井上やその仲間かもしれない。 (まだビラを諦めないで動いている人が……。俺にも伝えたいことがあるんだな) 胸に燃えあがるようなかすかな灯がともる。自分が動かなくても、繋がりの糸がどこかで結ばれようとしているのではないか――そう思うと、風鈴の音が頭に響くような不思議な感覚が走った。

エピローグ

 夜、下宿へ戻った幹夫は、かつてないほどに二つの風鈴を凝視する。父が古里を再建しようとしている。井上や山岸の仲間は東京で反戦活動を続ける。印刷所の堀内や社長は軍拡に耐えながら、今もギリギリの日々を過ごす。 「皆がそれぞれに踏み止まっている。その一つひとつが、あの風鈴の音のように小さくても決して消えない……。俺はそのすべてに耳を澄ます役割を担っているのかもしれない」 窓をわずかに開けると、かすかな夜風が二つの鈴をほんの少しだけ揺らす。チリンという短い音が重なると、まるで東京と静岡が束の間触れ合ったように、幹夫の胸に静かで力強い感動が広がった。 昭和の荒波はますます高まる予感を孕み、軍靴の音が遠くで唸るように聞こえる。けれど幹夫は、風鈴が発する一瞬の合図に導かれるように、これからも仲間たちの声に耳をすませ、父のもとに想いを馳せながら、ここで生き抜くしかないと強く心を固めるのだった。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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