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緑走る台地 ~心変わる~

第一章 静岡への旅立ち

 夜明けの冷気がほのかに和らぐ頃、幹夫はいつものように下宿の窓を開け放ち、風鈴に目をやった。昨夜の“最後の在庫一掃”は成功したのか、井上や山岸は全ての紙を持ち出せたのか、真相を確認する余地もなく彼はここにいる。だが――。 「やはり父さんのもとへ行こう」 幹夫は決意を固めるように頷く。父の電報には「不調」「すぐに連絡」と書かれていたが、一晩が経っても容態が分からぬまま。これ以上静岡を放置しておけない。 すぐに支度をすると、廊下を駆け下り、馴染みの路地を少しだけ振り返った。もし印刷所に何かあれば戻らねばならぬが、山岸たちには十分な紙が行き渡ったはず。堀内も最後まで支えてくれるだろう。 風鈴はきしむほどの音も立てないまま、薄い朝陽を受けて小さく光っている。幹夫はそれを一瞥すると、深く息を吸って背を向けた。 「父さん……待っててくれ。間に合ってくれ――」

第二章 東京駅の雑踏

 その数時間後、幹夫は東京駅の大きなホームに立っていた。剥き出しの線路を走る汽車の煙が鼻をつき、人々のせわしい足音が響く。誰もがどこかへ急いでおり、昭和の動乱期だというのに駅には絶えず人波があった。 「切符は……大丈夫……乗り継ぎはどうだろう……」 頭の中は混乱するが、幹夫は手にした薄い鞄を握りしめ、父への想いを噛みしめるように歩を進めた。もし父が重病なのだとしたら、一刻も早く会わねばならない。 (山岸や堀内さん、社長……すまない。しばらく東京には戻れないかもしれないけど、今度は俺の番だ。父さんを見捨てられない――) ホームには軍服姿の兵士や、疎開を匂わせる荷物を抱えた者も混ざる。誰もがギリギリの状況で日々をやり過ごしているかと思うと、幹夫は胸が苦しくなる。それでも「動かねばならない」と決めた今、目をそらすわけにはいかない。

第三章 空っぽの窓辺

 一方、印刷所では夕方近くになっても幹夫の姿がなかった。社長は「仕方ない」と口を結び、堀内はそっと廃材置き場を覗き込む。 (彼は父親の容態を放っておけなかったんだ。何も言わずに行くのが幹夫のやり方らしい。いや、ほんとは誰にも言えなかったのか……) 堀内の頭には、前夜の“在庫一掃”が無事に済んだことがよぎる。警官の巡回があったものの、怪しまれることなく紙が外へ出ていった。山岸が残したメモには、「ありがとう、すぐに印刷する」とだけ走り書きされていた。 「最後の協力だと幹夫も分かっていただろう。だから彼は東京にいられなくなったのかもしれん……」 堀内は静かに笑みを浮かべ、作業台に腰をおろす。乾いた油と紙の匂いが、ここに幹夫が確かにいた証のように漂っている。

第四章 汽車の揺れ

 幹夫が乗り込んだ汽車は、東京を離れ静岡へ向かう。車内には、いかにも忙しない空気が漂っていた。兵隊服の青年が互いに激励し合う声が聞こえたり、商人らしき男たちが軍需景気を囁き合ったりしている。 窓の外を眺める幹夫の心はざわつき、休まらない。ふと目を閉じると、焼きつくように父の姿が浮かんだ。茶畑を守り抜こうとしても周囲が離れ、飛行場や合併の波に飲み込まれていく……。 (父さん……俺、遅くなってごめん。紙のこと、ビラのこと、堀内さんや山岸とのこと、全部気がかりなんだ。でも最優先は父さんだ) 車窓をすり抜ける風景がぼんやりとスピードを上げて流れていく。揺れる車体に合わせて、幹夫は心を固めるように手すりを掴んだ。

第五章 不穏な待合室

 汽車の中継駅で降り立つと、構内には街宣車のスピーカーが響き、「戦線拡大」「国威掲揚」を叫んでいる。人々はそれぞれ無表情に通り過ぎ、昭和の戦争へ向かうムードが次第に濃くなるのを肌で感じた。 待合室で小一時間乗り換えを待つあいだ、幹夫は新聞を買ってめくる。そこには「軍需紙の管理徹底」という見出しが躍り、廃材や端材の不正利用を警戒せよとの記述があった。 (これが印刷所に及べば、堀内さんは大丈夫だろうか……山岸たちはもう十分な紙を得たはずだが、警察に見つからないだろうか……) 頭の中は東京に残してきた人々のことばかりでいっぱいだ。しかし、もう戻ってはいられない。今はただ、父の元へ向かう電車を待つしかないのだ。

第六章 風鈴の記憶

 待合室の片隅で、幹夫は思い切り目を閉じ、深い呼吸をする。まぶたの裏には、あの風鈴が揺れていた姿が鮮明によみがえり、胸の奥に温かな音が蘇るような気がした。 あの音が、いくたびか自分の決断を後押ししてきた。東京での限界に達したあの日々も、父の緑の茶畑を想う夜も、あの小さな音が幹夫を繋いでくれたのだ。 (今はもう、風鈴のある下宿にも戻れないかもしれない。でも、この音は……俺の中に残っている。いつかまた、あの窓の下へ帰れるように、俺は踏み止まるよ) すると、どこからか誰かが呼びかける声が聞こえ、乗り継ぎの汽車が来ることを知らせた。幹夫はすぐに立ち上がり、鞄を掴んで改札へと急ぐ。かすかな風が首筋をなぞって、風鈴の記憶をさらにくっきりと感じさせた。

エピローグ

 ガタンゴトンと揺れる汽車に身を預け、幹夫は静岡の地へひたすら近づいていく。曇天の空を見上げつつも、心は奇妙に澄んでいる。今、自分にできる最善の選択をしたのだと信じたいからだ。 「父さん、俺が着くまで持ちこたえてくれ……。そして堀内さん、山岸、井上……東京でも、決して諦めずにいてくれ……」 幹夫は頭を窓にあずけ、暮れゆく空の色を瞳に焼き付ける。わずかにでも風鈴の鈴音の余韻が呼び起こされるように、胸の奥で穏やかな波紋が広がった。やがて汽車はトンネルに突入し、車内の光がぱっと暗くなる。 昭和の闇を超えてゆく先に、彼らの未来はどんな彩りを映し出すのか——誰にも分からない。だが、せめてこの旅の先にある父の姿を見つめ、また新たな一歩を踏み出すこと。それが今、幹夫の願う精一杯の“踏み止まり”なのだ。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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