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緑走る台地 ~昭和の動揺~

  • 山崎行政書士事務所
  • 5月5日
  • 読了時間: 8分

第一章 昭和五年の動揺

 昭和四年(1929年)末に勃発した世界恐慌の余波は、翌昭和五年の日本にも暗い影を広げはじめた。アメリカへの輸出が激減し、静岡県内でも楽器・織物・茶などの主要産業の売上が落ち込み、製品の在庫が積み上がる。銀行からの融資が厳しくなるなか、多くの事業者が資金繰りに苦しみ、小規模工場の倒産や工員の解雇が相次いだ。 「これでは街の活気がしぼんでしまう……」 県庁の産業振興課に勤める父・明義は、疲れた表情で思わず漏らす。連日の対策会議でも十分な策は見えず、幹夫の家の空気は張り詰めがちだった。

 そんな不安定な状況の中、旧制中学校五年生となった幹夫は卒業試験を控えていた。校内には、「就職先が見つからない」「東京の大学に進むべきか」といった焦りや迷いが充満している。 「俺は、どうしたらいいんだろう」 放課後の階段に腰かけ、幹夫は苦い気持ちを抱いていた。これまで地元静岡と世界をつなぐ役割に興味を抱いてきたものの、急激に悪化する経済情勢を前に、自分が具体的に何をすべきなのかが見えない。友人たちも口々に言う。 「いくら普通選挙が実施されたといっても、政治が変わらなくちゃ社会も変わらないよな……」

第二章 父の苦悩、祖母の思い

 「父さん、今日は遅いんだね」 夜の九時過ぎ、居間で書物を読んでいた幹夫がふと気づくと、父の姿がまだ見えない。母は「また銀行との調整で会議中らしい」と肩をすくめる。祖母が重々しく言葉を継いだ。 「昔なら、刀で悪を成敗すれば話が済んだかもしれんがのう……。いまはそうもいかない。明義も苦労していることだろう」 祖母はかつて旧士族として家を守ることを誇りにしていたが、いまは父の地道な努力に理解を示すようになっている。 幹夫は胸に波立つものを覚える。社会が変わったからこその苦境。誰か一人の力で一気に解決できるわけではない。だが、その中でも奮闘する父を誇りに思う半面、「自分もいつまでも傍観者でいられない」と痛感するのだった。

第三章 井上からの手紙

 幹夫が卒業試験に向け猛勉強をしている頃、東京へ出た親友の井上から一通の手紙が届いた。彼は運よく東京の旧制高校に合格し、すでに春からの進学準備を兼ねて下宿先を探しているらしい。 「東京は大きくて、政治も経済も文化もすべてが渦巻いている。でも同時に、人の暮らしが厳しい面もはっきり見えてくる。失業者が増えているし、学生運動なんかも盛んだ。駅頭では社会主義のパンフレットを配る若者をよく見かけるんだよ」 井上は手紙の中で東京の活気と混沌を生々しく伝えてくる。 「もし幹夫が上京してくるなら、一緒にいろんな講演会を回ろう。それから、新聞社の催しや労働者の集会、農民運動の演説会など、地方では体験しづらいものがあるから」

 幹夫はその手紙を読んで胸をざわつかせる。井上は“政治の季節”を真っ正面から目にし、これから先の道を模索しているのだろう。静岡に残るか、東京へ行くか——その岐路が迫りつつある幹夫の心は揺れた。

第四章 卒業

 昭和五年三月、暖かい陽射しが窓から射し込み、幹夫たちは旧制中学校を卒業した。桜にはまだ早い時期で、校庭の桜は硬い蕾をつけたまま風に揺れている。 卒業式のあと、級友たちと最後の写真を撮り、思い出話を交わしながら校舎を出る。誰もが新しい未来を夢見ているようでいて、世界恐慌の波が押し寄せる現実も冷たく重い。 「幹夫、これからどうするの? 大学受けるのか、それとも仕事?」 顔なじみの友人に尋ねられ、幹夫ははっきりと答えられなかった。井上のいる東京も魅力的だが、父のように地元を支える道も大いに価値がある。

 そんな幹夫の迷いを見透かしたかのように、家に帰ると父が声をかけた。 「卒業おめでとう。まずはお祝いしよう。そして、大学へ進むにしても就職にしても、いったん東京へ行って大きな世の中を見てくるのは悪くないと思うよ。わたしも県の仕事で上京する機会が増えそうだから、そのついでに案内してやろう」

 父の言葉に、幹夫は驚きと同時に安堵を覚えた。明義は忙しさの合間を縫っても、息子の道を尊重し、力を貸してくれるらしい。祖母も「時代を知るために遠くを見るのは武士の心得にも通じる」と頷く。幹夫はあらためて家族に感謝しつつ、自分の未来へ踏み出す決意を固めはじめる。

第五章 東京行きの旅

 昭和五年四月初旬。幹夫は父とともに汽車で東京へ向かった。まだ受験や就職が決まったわけではないが、“下見”という形で各大学や商社などを回る予定だった。父は県の要件で地方銀行の東京支店や中央官庁との打ち合わせを抱えており、幹夫はひとり行動できる時間も多く取れそうだった。

 「まもなく、新橋、新橋……」 車内放送を聞きながら、幹夫は胸を高鳴らせる。初めて訪れる東京の街はどんな景色なのか。友人・井上の手紙に書かれていた喧噪と渦巻く思潮を、自分の目で確かめたいという思いが募る。 到着後、父と別れた幹夫は、「どこで待ち合わせしようか」と事前にやり取りしていた井上の下宿先を訪ねた。玄関先で井上の声が飛ぶ。 「おう、幹夫! 本当に来たな!」 井上は嬉しそうに手を振って出迎えてくれた。下宿は木造二階建ての古い建物で、共同の炊事場からは味噌汁の匂いが漂ってくる。

 部屋に通されると、井上の机には本や新聞の切り抜きが山積みになっていた。マルクス経済学の入門書、労働組合のビラ、欧米の情勢を解説する雑誌……静岡では見かけないような情報があふれている。 「東京はね、どんな考え方をする人間も集まる場所なんだ。社会主義者、アナーキスト、軍部寄りの人々、政党政治を目指す人……。それぞれが自分の信じるものを叫んでる」 井上は興奮した面持ちで語る。その勢いを前に幹夫は少し圧倒されつつも、胸の奥で何かが揺さぶられるのを感じた。

第六章 時代の奔流を垣間見る

 翌日、井上は幹夫を連れて神田界隈の書店街やカフェを巡り、さらに学生たちの集まりがある私塾を訪れた。そこでは大勢の若者が議論を交わしており、経済の先行きや国際情勢を憂慮する声、軍の行動を批判する声、あるいは「議会政治ではもう無理だ」と語る声などが雑多に飛び交う。 「幹夫、東京にいると毎日がこんな感じだ。世界は大きい……いや、大きいというより混沌としてるね」 井上は苦笑いを浮かべる。幹夫もまた、その混沌に飲み込まれそうな感覚を覚えつつ、“声がある”こと自体に力強さを感じる。

 その晩、二人は神田の安い洋食屋で食事を済ませ、井上の下宿で夜更けまで話をした。 「俺は大学へ進んで政治経済を学びたいと思ってる。いつかは地域や民衆のために動ける政治家かジャーナリストになりたいんだ」 井上は目を輝かせる。 「幹夫はどうする? 東京の空気に触れてみて、やっぱり官吏になる? それとも商社マンか、技術者か……」 幹夫はうなずきつつも、「まだはっきりとは決められないな」と正直に告げる。 「父のように地元を支える官吏も素晴らしい仕事だけど、今の金融恐慌を見ていると、もっと幅広い視点が必要な気がする。県庁じゃ限界もあるし……。でも東京に出て中央の政治を志すとなると、自分が本当にやりたいことなのか、悩むところなんだ」

 その言葉を聞いた井上は、「焦らなくていいさ」と微笑む。 「人それぞれにやれる場所と時期がある。おまえが迷っているのは、ちゃんと地元と自分の人生を真剣に考えている証拠だろう?」

第七章 帰郷、そして新たな息吹

 数日後、父の出張が終わりに近づき、幹夫は予定通り静岡へ戻ることになった。東京の喧騒を後にし、汽車の窓から見慣れた田畑や茶畑の緑が広がる光景に安堵する一方、東京で見聞きした激しい議論や先端の情報を思い出し、複雑な気持ちがこみ上げる。 「自分がいる場所はここ、静岡。でも、ここでいるだけでは見えない世界がたくさんある……」

 家に戻ると、祖母は暖かい茶を淹れて待ってくれていた。 「やれやれ、東京はさぞ賑やかだっただろう?」 昔ながらの和服姿で、少し心配そうに幹夫の顔をのぞき込む。幹夫は笑って「すごかったよ。人も多いし、いろんな考えの人が集まっていて……」と答える。 その晩、父と母を囲む夕食の席で、幹夫は自分の感じた東京の印象を語った。 「結論はまだ出せないけれど、やっぱりもう少し勉強を続けてみたい。大学へ進むなら、東京の学校で経済や政治のことを深く学んで、それから戻ってくる道もあると思うんだ」

 父は柔和な笑みを浮かべながら頷く。 「いいだろう。今の時代、知識と視野を広げることは何より大事だ。地元が直面している問題も、広い観点で見れば違う解決策が見つかるかもしれない」 祖母も「そのほうが、おまえの武士道にも繋がるかもしれん」と不思議な言い回しをして微笑む。かつては旧士族としての伝統に囚われていた祖母が、孫の新しい挑戦を認めている。その変化に幹夫は胸が熱くなった。

エピローグ

 春の嵐が去った後、静岡平野には柔らかな陽ざしが差し込み、茶畑の緑が一層鮮やかに息づき始める。幹夫は家の庭先で、祖父の形見の竹刀の手入れをしながら、これからの自分の道を思い描いていた。 世界恐慌の渦がさらに深刻化するかもしれない昭和初期。地方の産業や農村社会は厳しい時代に突き進むだろう。しかし、東京の友人たちが作り出す新風や、父が地元で紡ごうとする協調の技術が融合すれば、何か新しい光が生まれるのではないか——そんな期待を微かに抱いている。

 幹夫は、再び大きく息を吸い込み、 緑の台地を見渡す。 地元の未来はまだ白紙に近い。 だが、そこに自分の新たな筆で何かを描き加えたい。 混沌とした時代のうねりの中でも、 きっと進むべき道はあるのだ——。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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