top of page

緑走る台地 ~昭和の風~

  • 山崎行政書士事務所
  • 5月5日
  • 読了時間: 8分

第一章 昭和の風が吹く

 大正十五年の終わりを告げるかのように、昭和への改元の報が静岡市を包んだ。 「時代がまた変わるんだね……」 旧制中学三年の幹夫は、雪のちらつく校庭を見下ろしながらそうつぶやく。 太陽のように煌いていた大正デモクラシーの時代は、関東大震災や世界情勢の変化によって少しずつその勢いをそがれ、社会にはどこか重たい空気が漂い始めている。父・明義も「産業振興課」への異動が正式に決まり、連日遅くまで帰れぬほど多忙を極めていた。

 放課後、クラスの仲間たちと帰路に就く途中、友人の井上が新聞を見せながら言う。 「最近、金融恐慌って言葉をよく耳にするようになったよな。東京の銀行が危ないって……」 幹夫も父から「景気が後退している」という話を聞いていた。米騒動の記憶に加え、地震災害と不安定な世界経済が重なり、人々の暮らしがまた厳しくなるのでは——そんな漠然とした不安が少年たちにも伝わっていた。 「新しい年号に希望を託したいが、そううまくはいかないものかもしれないな」 そう井上が漏らすのを聞きながら、幹夫は心をざわつかせる。何かが大きく変わる節目だという予感と、先の見通せない時代への戸惑い。その両方を抱えていた。

第二章 父の新任務

 明義の「産業振興課」への配属は、静岡県内の経済活動を直接支援し、問題があれば調整に入る重要な任務を意味していた。製糸・楽器・織物といった地場産業の奨励、茶の輸出促進、清水港の整備構想——やるべきことは山積みである。 幹夫が家の縁側で勉強していると、母に呼ばれ、居間へ行ってみると父が疲れた表情で地図を広げていた。そこには静岡県全域が描かれ、各地に赤や青の印が書き込まれている。 「浜松や磐田の織物工場じゃ、もう外国の安い綿織物が入ってくるって話に頭を抱えている。清水港の茶輸出も欧米相手にどれだけ拡大できるか……」 父はまるで独り言のように話しながら、幹夫をちらりと見やる。 「幹夫も覚えているだろう? 浜松の工場見学。あの活気を守るためには、金融の後押しや新技術の導入が不可欠だ。ところが、今は銀行が危ないという声もある……。もし貸付が止まれば、小さな工場から潰れていく」 幹夫は思い出したように、昨年の楽器工場ストライキの一件を頭に描く。労働争議や金融不安——作る側にも、働く側にも、金を出す側にも、悩みが尽きない。 「父さん、大変そうだね……でも、どうにかできるの?」 父は微笑を浮かべる。 「簡単じゃない。けれど、県としての役目は“橋渡し”だ。工場の経営者、銀行、商社、そして働く人々、皆が納得できる落とし所を探さなくてはならない。まさに“世を調整する”官の仕事というわけだよ」 幹夫はその言葉に深く頷く。昔の武士は刀で家中や領地を守ったが、父は“言葉と交渉”で産業を守ろうとしているのだと感じた。

第三章 揺れる学校生活

 中学三年生の幹夫は、進路をどうするか考え始める時期になった。成績次第では旧制高等学校(高等科)への進学を目指す者、師範学校で教師を志す者、家業を継ぐために卒業したら働く者——クラス内でもさまざまな思惑が交錯している。 「俺は今のうちに家業の茶問屋を継いで、海外に茶を売り込むんだ」 と胸を張る者もいれば、 「親父の工場が不況続きで先が見えねえ、勉強なんかしてる余裕はあるのかって……」 と沈んだ顔でこぼす者もいる。そんな中、幹夫は自分がどの道へ進みたいのか、はっきり答えを出せずにいた。

 放課後、「社会問題を議論する会」のメンバーが集まる空き教室に、幹夫は井上とともに顔を出す。最近話題になっているのは、「普通選挙法」によって選挙権が拡大されたはずなのに、労働運動や農民運動が取り締まられているというニュースだった。 「せっかく国民に選挙権が広がったのに、『治安維持法』とかで思想を取り締まるって……おかしくないか?」 ある上級生が声を荒げる。その一方で、 「でも暴力主義の連中が出てきたら困るだろ? 社会主義が過激化するって心配もあるし……」 と反論が起きる。こうした議論は、二年前の幹夫たちには想像できないほど“政治的”なものだった。

 幹夫はその真ん中で耳を澄まし、「人が声を上げる」ことの難しさと必要性を改めて感じる。幼いころ目撃した米騒動、浜松の工場ストライキ——声を上げるにしても、そのやり方や落としどころをどう見極めるのか。それを考え出すと、まるで底なし沼に足を踏み入れたように感じられた。

第四章 昭和二年の春

 翌年、昭和二年(1927年)を迎える頃、金融不安が現実となって全国的に銀行の取り付け騒ぎが起こり、地方都市でも倒産が相次いだ。静岡市でも老舗銀行の支店が急に休業した、という噂が広がり、市場に動揺が走る。 父・明義は県内各地から寄せられる窮状を聞き、連日のように対策会議に駆り出される。 「地元で長年やってきた銀行が潰れると、融資を頼りにしていた工場もドミノ倒しだ。茶農家にとっても、資金繰りが立たなければ春の摘み取り時期に人を雇えない」 日に日にやつれていく父の姿を見て、幹夫は何か力になれないものかと思いつつも、自分にできることの小ささに歯痒さを覚えていた。

 そんな折、学校の卒業を前に進路希望を提出する日がやってくる。親友の井上は**「東京の旧制高校を受験する」**と声高らかに宣言し、都市部の大きな学問の舞台に身を置いて新思想を学びたいらしい。 「幹夫、おまえはどうするんだ?」 井上に問われた幹夫は、答えに詰まる。父のように官吏として地元を支える道もあるし、企業や工場に入り技師や経営の才を磨く道もある。はたまた東京へ出て、政治や経済の大きな流れを肌で感じるのも悪くはない。 「どれもいいと思うんだけど……決めかねてるんだ。俺のいる場所は、やっぱりこの静岡なんじゃないかって気もするし」 幹夫はそう言って苦笑した。井上は「おまえなら、ここでこそ力を発揮できるかもな」と軽く肩を叩いた。

第五章 祖母の言葉

 家に帰ると、縁側に祖母の姿があった。かつては旧士族の誇りを重んじ、武家の礼儀作法を厳しく守っていた祖母だが、近年は徐々に幹夫の歩む時代を見つめ、受け入れるようになっている。 「幹夫、そこに腰を下ろしなさい」 声に従い、並んで座る。祖母はしばらく黙って庭の松を見つめていたが、やがて口を開く。 「この家は、徳川様の時代からの家柄と誇りを背負っている。それを失ってはならん……と、わたしはずっと思っていた。だが、おまえたちを見ていると、誇りというのは“かたち”だけではないのだと知ったよ」 幹夫は驚きながらも、黙って耳を傾ける。 「おまえの父は、刀ではなく知恵や交渉で人を助けようとしている。そしておまえもまた、新しい時代の学びを取り込み、世の中を見ようとしている。武士の誇りなどという昔の言葉にこだわるより、自分の道を切り開くことこそが、ほんとうの意味での強さなのかもしれないね」 祖母は少し微笑んだ。幹夫は胸が熱くなる。祖母が変わったというより、祖母の中にあった“武家の心”が、こうして新しい形で息づいているように思えた。

第六章 決意の芽生え

 昭和二年の初夏、幹夫は卒業を間近に控え、父の見回りに同行して清水港へと向かった。港には海外に輸出される緑茶の茶箱が山積みになり、外人商館のスタッフらしき外国人も行き交っている。その一角で、父が経営者や仲買人と資金繰りについて熱心に話し合う様子を、幹夫はそっと見守っていた。

 話し合いが一段落つくと、父は幹夫に声をかける。 「どうだ? ここで見ていると、静岡が世界とつながっていることを実感できるだろう?」 幹夫は頷きながら、視線を港の沖へ向ける。行き交う船舶が異国へ、あるいは内地へと物資や人を運ぶ。自分の故郷が時代の大きな流れの中にしっかりと組み込まれているのを感じた。 「ああ。たしかにすごいよ。茶は日本の伝統だけど、こうして海外へ売って外貨を稼げば、日本全体の経済も豊かになるんだよね。それにあちこちの工場で頑張ってる人たちがいて……」 父は誇らしげに「そうだな」と頷く。 「ここ静岡にいても、世界に目を向けることができる。そして世界を相手に仕事をする。それがこれからの時代だと思うよ」

 帰り道、夕陽に照らされた駿河湾を見ながら、幹夫は自分の将来についてようやく一つの答えを手にしかけていた。東京へ出るか、地元に残るか——どちらにせよ、自分が学びたいこと、やりたいことを“行動”に移すことが大切なのだと気づいたのだ。かつては「士族の家柄」という看板が重たかった。しかし今、祖母の言葉もあり、それを自分の後ろ盾としてポジティブに活かせる気がしている。

 大正の追い風が弱まり、激動の昭和が始まろうとしている。だが、どんな変化が来ても自分らしく生きていく。父のように、人々をつなぎ、世の中を前へ進める力になりたい——。幹夫は胸の内でそう誓った。

エピローグ

 夏に近づくほどに、静岡平野の風は再び茶の香りを運んでくる。屋敷町に立つ幹夫の家では、祖母が軒先の竹刀を手に取り、しみじみと手入れをしていた。かつての武士の形見は、今でもこの家の象徴として存在し続ける。 縁側でノートを広げる幹夫の横には、父が新たにまとめた産業振興策の紙束が積まれている。そこには渋々ながら協力する県内の銀行、技術革新に挑む工場、人手不足に悩む農家をどう支援するかが書き込まれていた。 「昭和……新しい時代か」 幹夫はそう呟いて、窓の外の空を仰ぐ。父が追い求めるのは、武士の刀に代わる“調整”と“連携”の力。そして幹夫自身は、その先にあるまだ見ぬ世界と故郷を結びつけたいと強く思う。いつか自分の学んだことを生かし、さまざまな人の暮らしを良くできるような仕事をする。 少年の瞳には、大正期に抱いた迷いや不安は薄れ、未来への光が映っていた。

 かくして激動の昭和へと歩み始める幹夫。 士族としての家柄を背負いながらも、 新しい風に乗り、 故郷・静岡の豊かな地で、その一歩一歩を刻んでいく。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

コメント


bottom of page