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緑走る台地 ~東京の誘い~

  • 山崎行政書士事務所
  • 5月5日
  • 読了時間: 6分

第一章 静岡の陽ざし、東京の誘い

 昭和五年(1930年)の春が深まるにつれ、静岡平野の茶畑はやわらかな緑の霞を帯びはじめた。 幹夫は旧制中学を卒業し、次の一歩を踏み出すべく日々考えを巡らせていた。東京に出て大学で政治経済を学ぶか、それとも地元で就職し、父のように県庁や産業界を支える道を探るか……。 「幹夫、もし東京へ行くのなら早めに準備が要るな。大学の編入試験もあるだろうし、下宿先や費用の段取りも……」 父・明義は産業振興課で多忙な中でも、息子の将来を優先しようとしてくれている。その気遣いに幹夫は素直に感謝しつつ、いまだに決めかねている自分に焦りを感じていた。

 祖母は薄茶を啜りながら、「大事なのはおまえが何をしたいかだよ」と繰り返す。かつて厳しく“士族の伝統”を説いてきたはずの祖母が、この数年ですっかり柔軟になった姿に、幹夫は不思議な感慨を抱く。家にも、そして世の中にも変化が確かに浸透しているのを感じるのだ。

第二章 父の苦闘

 昭和初期の世界恐慌の波は、静岡でも一層の深刻さを増していた。製糸や織物の輸出は伸び悩み、浜松の楽器メーカーでも売上が落ち、複数の小さな工場が軒並み経営難に陥っている。 「明義さん、うちの職人たちを解雇しなきゃならんかもしれません……」 ある日、幹夫の家に駆け込んできたのは、浜松の零細工場を営む主人だった。材料費や人件費の支払いが追いつかず、銀行からの融資も受けられないという。 「なんとか手を打ちましょう。銀行側にも掛け合ってみますから」 父は疲労感を押し隠すように笑みを作り、相手の不安を和らげようとした。

 幹夫はそんな父の背中を見守りながら、地元の経済が直面する苦境を改めて痛感する。**「声を上げる」だけでは足りない。人と人を橋渡しし、現実の数字と交渉しながら一歩ずつ前に進める――父が取り組むその仕事は、まさに地味で骨の折れる道だ。 だが、一方で幹夫の胸には「東京へ行って世界を学びたい」**という思いも募っていた。地元に縛られず、国や世界の大局を見渡せば、もっと有効な解決策を見いだせるかもしれない。そう直感するからこそ、彼は迷い続けているのだ。

第三章 井上からの便り

 そんな矢先、東京にいる親友・井上からまた手紙が届いた。 「幹夫、おまえも東京に来るなら急げよ。大学によっては編入や聴講生の募集を始めている。政治の状況はますます混沌としてるが、ここで学ぶことは大きいぞ。最近は軍人や国家主義者の声も強まってきて、学生や新聞記者の間で議論が絶えない。満州方面の情勢も危ういし……」

 井上は、軍部の動向に対抗する自由主義や社会主義の潮流が入り乱れる都の様相を生々しく伝えてくる。 「昨年末にはロンドン海軍軍縮条約をめぐって統帥権干犯問題が起こり、政権が大揺れだ。選挙で民意が示されたとしても、軍が政治に口を出すようになれば、普通選挙だって形骸化する――そんな危惧が学生たちの間で広がっているんだ」

 幹夫は手紙を読み進めるうち、血が騒ぐのを感じる。大正デモクラシーが花開いたかに見えた日本が、今では軍国主義と政党政治のせめぎ合いの真っ只中だという。**“声を上げることが許される世の中”**は、実は儚いものであり、踏みとどまらねばまた暗い時代に逆戻りするかもしれない――その危機感が井上の筆からはにじみ出ていた。

第四章 祖母と刀

 ある午後、幹夫が離れの物置を整理していると、古い長持(ながもち)の奥から埃を被ったが出てきた。鞘には家紋が刻まれており、かつての武士の名残りを物語っている。 「これは……」 戸惑う幹夫に気づき、祖母が静かに歩み寄る。 「それは先祖代々伝わる刀だ。幕末のごたごたで折れそうになったが、なんとか守り通した……」

 祖母の瞳には遠い記憶が映っているようだった。 「昔は刀さえあれば、守るべきものを守れると思っていた。でも今は違うね。父さん(明義)やおまえを見ていると、言葉と知恵が世の中を支える時代なのだと感じる。武士の誇りは消えぬが、道具は変わったのさ」

 幹夫は刀を鞘に収め、その重みを改めて感じた。 「道具は変わった――か。もし俺が東京に行って学ぶことも、昔で言うなら“剣術修行”みたいなものかもしれないね。知識や視野を増やして、自分を鍛える……」 すると祖母は、「行きたいのなら行きなさい」と静かに背中を押す。かつて厳格だった祖母がここまで言うのは、幹夫には大きな驚きでもあり、深い感動でもあった。

第五章 父の提案

 昭和五年夏目前。父・明義は相変わらず県と銀行、企業の調整に奔走しているが、一方で幹夫の将来にも積極的に協力する意思を示していた。ある日、夕食後に縁側へ出て、幹夫を傍らに呼ぶ。 「東京へ行くこと、決めたのか?」 父の問いに、幹夫は真剣な表情で頷いた。 「はい。井上のいる大学を受けるかどうかはまだ検討中ですが、半年だけでもいいから上京して、準備と下見をしてみようと思います。もし編入が難しくても、聴講生や書生のような形でも学べるかもしれない」 父は誇らしげに微笑む。 「そうか。わたしも、県の出張で東京に行く用事が増えそうだ。向こうでの住まい探しや手続き、協力できる範囲で手を貸すよ。幹夫、おまえが東京で得るものが、いずれ静岡のためにもなると思うからな」

 部屋の中からは祖母が心配そうに「体は大事にするんだよ」と声をかけ、母は「送り出すからにはちゃんとご飯は食べてね」と釘を刺す。幹夫はそんな家族の温かさを噛み締めつつ、ついに“東京行き”を具体化する決意を固めた。

第六章 旅立ちの朝

 昭和五年の晩夏。薄曇りの日、幹夫は家族に見送られながら汽車のホームに立っていた。セーラー服姿の女学生たちが大きな鞄を抱えて通り過ぎ、軍服を着た若者が荷物を持って列車に乗り込む。ホームには様々な人々の物語が行き交っている。 「幹夫、身体に気をつけてな」 父が握った幹夫の手は、やや硬く冷たい。その奥に熱意と期待がこもっているのを感じた。祖母は無言で幹夫の肩を叩き、深く頷く。母は「悔いのないようにね」と小さく声をかけると、涙を滲ませた。 汽笛が鳴り、幹夫は一礼して車内へ乗り込む。初めての“単独上京”である。

 席について窓を開けると、父や祖母の姿が遠ざかり、家族の表情が見えなくなった。動き出した車両の振動を感じながら、幹夫は心の中で繰り返す。 「地元を捨てるわけじゃない。もっと大きな知識を得て、いつか必ず戻ってくる――そのための旅立ちだ」

 汽車はゆっくりと走りはじめ、緑豊かな静岡の景色が後方へ流れていく。どんな出会いが待っているのか、どんな変化が幹夫自身を襲うのか、誰にもわからない。だが、それを受け止める覚悟はできていた。

エピローグ

 やがて線路は東へと続き、山々を抜けて都会の喧騒へ近づいていく。大正の残影と昭和の荒波が混ざり合う時代の只中で、幹夫は自分の足で一歩を踏み出した。 地元・静岡に根づく士族の誇りと、東京で渦巻く新思想の風。 その二つを吸収し、いつの日か「人々の力になる仕事」をしたい。 ——幹夫の胸には、そんな強い願いと、未見の世界への不安が同居している。 それでも彼は、竹刀を握った武家の魂と、父から受け継いだ交渉力を携え、 今、昭和初期の大都会へと旅立つのだ。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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