緑走る台地 ~決意~
- 山崎行政書士事務所
- 5月5日
- 読了時間: 5分
第一章 覚悟の朝
翌朝。いつもより早く目を覚ました幹夫は、薄暗い下宿の部屋の中でゆっくりと着替えを済ませた。窓の外はまだ陽が昇りきらない灰色の空。昨夜、ほとんど眠れなかったせいか、頭はぼんやりと霞んでいる。 (警察署……何を訊かれるのか、どう答えればいいのか……) 胸の奥が重い。だが、ここで逃げ出すわけにはいかなかった。もし自分が姿を消せば、堀内や社長、そして印刷所そのものがいよいよ疑われるだろう。 「父さん、俺は……」 幹夫は机の上の写真立てをそっと撫でる。そこに映る牧之原台地の茶畑は、もはや昔のままではないかもしれない。それでも、写真の中には父の静かな誇りが滲んでいた。
第二章 警察署への道
印刷所に着くと、すでに社長と堀内が待っていた。張りつめた空気のなか、三人揃って警察署へ向かう。街にはまだ朝の活気が戻らず、薄ら寒い風が行き交うだけだ。 「いいか、あくまでも“印刷所としては軍の仕事を引き受けているだけ”と主張するんだ。ビラの印刷なんてしていない、見たこともない。絶対にそう言え」 社長が繰り返し念を押す。堀内は堅い表情で唇を噛んでいる。幹夫はただ無言で頷くことしかできない。 (井上や仲間たちのことを口にすれば、すべてが終わる……。でも、何を訊かれても隠し通せるのか……) 警察署の古い石造りの建物が視界に入ると、幹夫の胸が一層早鐘のように高鳴った。
第三章 取り調べ
署内の薄暗い通路を通されてから、しばらく三人は待合室で待たされた。やがて、幹夫と堀内は別々の部屋へ呼ばれる。 幹夫が通された小さな部屋には机と椅子が並び、憲兵のような鋭い目つきの刑事が一人座っていた。 「座れ」 ぶっきらぼうな声に従って椅子に腰を下ろすと、刑事は紙の資料を手に幹夫を見据える。 「反戦ビラの一件でおまえたちの印刷所が疑われている。何か知らないか?」 幹夫はひやりとするが、社長の言いつけ通りを思い出し、必死に言葉を絞り出す。 「いえ……うちには軍からの仕事が多いですし、反戦ビラなんて……見たこともありません」 刑事は資料をめくりながら、低く唸るように訊ねる。 「本当に? おまえの仲間に怪しい連中はいないのか」 (井上……山岸……) 幹夫は頭に浮かんだ名前を必死にかき消し、首を横に振った。 「友人は……大学の者が何人かいますが、特に怪しい活動はしていないはずです」 刑事は鋭い目で幹夫の表情を探る。息苦しい沈黙が数秒続く。
第四章 自白の圧力
取り調べは思った以上に長引いた。刑事が机を叩いて威圧し、「ビラを刷った形跡はないのか」「誰かがおまえを利用しているのでは」と問い詰めてくる。 幹夫は何度も「知りません」「印刷所は軍の仕事で精一杯です」と繰り返す。やがて刑事は苛立ちを隠さなくなり、手元の資料を放り投げるように机に置いた。 「いいか。もし嘘がバレれば、おまえも国家反逆者の一味として逮捕だ。下宿を家宅捜索されたり、家族に危害が及ぶかもしれない。それでもいいのか?」 幹夫の背筋に冷たい汗が流れる。家族——父の顔が脳裏に浮かんだ。静岡の状況はすでに切迫しているというのに、こんな形で父に被害が及んだら一体どうなる。 (言えない……井上たちを売ることなんてできない。でも……)
幹夫は唇をかみしめる。刑事の視線は容赦なく幹夫を射貫き、回答を求めている。部屋の外からは、時折どこかで響く怒鳴り声が聞こえ、恐怖を一層あおり立てた。
第五章 堀内との再会
取り調べが終わり、廊下でしばらく待たされていると、別室から出てきた堀内の姿が見えた。彼も疲れきった面持ちで、幹夫と目が合うと微かに首を振る。 「大丈夫か……」 小声で囁き合うと、すぐに警官が近づいてきて「ここで話をするな」と叱責する。二人とも渋々うつむき、その場をやり過ごすしかない。 ようやく社長も戻り、三人は署員に促されるまま受付へと向かった。どうやら当局としては「事情聴取」を済ませた段階で終わりのようだが、いつ再び呼び出されるか分からない。 「うちはあくまで“軍の仕事”をしている印刷所。反戦ビラなんて印刷するわけがない……」 社長がしきりにそう弁明しながら帰路につく。幹夫と堀内は、互いに言葉少なに下を向いたままだ。
第六章 静岡からの打電
印刷所に戻る途中、幹夫は街角の郵便局で静岡の父へ電報を打つ決心をした。「今にも警察の手が伸びそうだ」という漠然とした不安を伝えたい気持ちが抑えきれなかった。 しかしいざ電報用紙を前にすると、何を書けばいいのか分からない。検閲の目を考えれば、無暗に事実を書けない。結局、「少シ問題アリ シバラク動ケズ 父上御身大切ニ」とだけ伝えることにする。 (父さんには申し訳ないが、これ以上は書けない。言葉の裏を察してくれるだろうか……) 幹夫は料金を払い、震える手で電報を差し出した。外は低く垂れ込めた雲の中、冷たい風が歩道を吹き抜けている。
第七章 風鈴の音
夕刻、下宿に戻った幹夫が玄関を開けると、思いのほか部屋の空気が冷え切っていた。荷物を置き、薄暗い窓に目を向けると、外には小さな風鈴が吊るされている。かつて下宿の主人が飾ったもので、春風が来ればかすかな音を立てるはずだった。 だが、この日の風鈴は、微かに“チリリン”という音を鳴らしたきり、次の風は吹かない。幹夫はその静寂を聞きながら、まるで自分が行き詰まっているように思えた。 (いつか、また自由な風が吹く日は来るのだろうか……) 壁に立てかけた写真立てには父が焼き付けた牧之原台地。幹夫はその緑を見つめつつ、「嘘をついた」という後ろめたさに苛まれた。取り調べで黙りとおしただけでなく、仲間をも見捨てるような自分が、あの緑の茶畑を想う資格などあるのか、と。
エピローグ
風鈴がもう一度、小さく鳴った。夜の帳は深く、東京の空には冷気が満ちる。 幹夫は布団に腰を下ろして瞼を閉じる。やがて浮かんでくるのは、軍用地に塹壕が掘られた牧之原の姿と、倉庫でビラを必死に刷っていた仲間たち。どちらも消えてしまいそうな危うさをはらむ光景が、暗闇の中で幹夫の心を打ち続ける。 「明日から、俺はどう動けばいい……」 凍てつく夜風とともに、昭和という時代の足音はますます大きく迫っていた。だがそれでも幹夫は、父の言葉と牧之原の緑が絶対に消えないよう、心の奥で必死に握りしめている。いつか訪れる春を信じて——。
——(続くかもしれない)





コメント