緑走る台地 ～決断～

第一章　行き詰まる朝

　昭和八年（1933年）三月末。　いつにも増して灰色がかった空が広がり、東京の街には春の訪れが遠ざけられたかのような冷気が漂っていた。幹夫は顔を洗いながら、先日の山岸とのやりとりを思い返す。「再び物資が必要、まだ可能か」——あの書きつけには、なんの装飾もなく、ただ切迫した意志だけが刻まれていた。　（断れば、井上たちのビラ活動は滞るかもしれない。助ければ印刷所と堀内さん、父さんまで危険が及ぶかもしれない……）　両手で冷たい水を浴びても、思考の絡まりはほどけない。まるで風鈴が沈黙し続けるように、自分も声を上げられずにいる。それでも出勤しなければ、日々の糧すら失ってしまうのだ。

第二章　押し寄せる制作依頼

　印刷所に到着すると、社長が今しがた届いたらしい公文書を手に、大きくため息をついた。　「また軍からの追加だ。**『満洲国情勢報』**とかいう月報の印刷を早急にやれと……」　堀内がその封筒を覗き込み、静かに眉をひそめる。　「これじゃ、当分はまた軍の宣伝物を刷り続けることになりますね……。これが続けば“店は安全だ”と証明にはなるけれど……」　言葉を濁した堀内に、社長は苦悩の笑みを浮かべて言う。　「後ろ盾にはなるかもしれんが、この量をこなしきるには残業と廃材の増加は避けられない。人手も足りないし……」　幹夫は胸を塞がれる思いだった。軍の仕事で印刷所は安泰になるどころか、従業員の労力と良心を削り取ってゆくような気がする。

第三章　堀内との密談

　昼休み、廃材置き場の裏で幹夫が作業着を直していると、堀内が人影を探るように周囲を見回してから近寄ってきた。　「おい、昨夜のうちに裏の通用口を誰かが開けようとした形跡があった。社長が確認したら特に被害はなかったらしいが……怪しいと思わないか？」　「え、印刷所に侵入しようと……？」　幹夫は息をのむ。もし井上たちが必要物資を求めて潜り込むこともあり得るが、警察の意図的な調査かもしれない。堀内は低く唸る。　「俺は、どちらかというと当局の差し金じゃないかと疑ってる。この前から警官がうろついているし、“反戦ビラの秘密印刷がないか”を探っているのかもしれない」　幹夫の背中に冷たいものが走る。裏口から用紙を持ち出すなど、到底できそうにない状況だ。山岸が求める物資を運び出せば、すぐに露見する可能性がある。

第四章　静岡からの便り

　その晩、下宿に帰ると、郵便受けに一通の封書が入っていた。父・明義からだ。　「父さん……」　部屋に入り封を切る。綴られた文面は幹夫の胸を痛めつけるような内容だった。　「飛行場の拡張でさらに茶畑が削られ、多くの農民が移住を検討し始めている。合併後の新町役場は軍部と連携し、村民の不満を抑え込もうとしている。わたしが立ち上げた“茶業守護の会”は支持を得られず、形ばかりのものとなりそうだ……。　幹夫、お前は今どうしている。自分を守るのも大切だが、わたしは信じている。お前が東京で学んだこと、触れ合った人々の声は無駄にはならないはずだ。そう信じて、わたしも地方で踏み留まろうと思う。」

　幹夫は手紙を握りしめ、机の上の写真立てを睨む。父は思考を曲げずに必死で耐えているのだ。ならば自分も何とかしなければと思うものの、行動する勇気が足りない自分の姿に歯痒さを覚える。　「だけどどうすれば……」　頭のなかで、井上からの要請と父の叫びが絶え間なくぶつかり合い、答えは出ないまま夜が更けていった。

第五章　小さな変化

　翌朝、いつもより早く印刷所に着いた幹夫は、裏口をこっそり確認してみた。堀内の言うとおり、鍵穴に傷らしきものがついている。誰かが開けようとしたのは間違いない。　（俺が夜中に紙を持ち出すなんて無理だ。山岸たちにどう伝えよう……）　そこで、ふと気づいたのは用意された軍の大量注文の紙束だ。これをすべて印刷に使うわけではなく、途中で裁断する分もある。つまり、無駄になる廃材がこれから爆発的に増えるかもしれない。　「廃材置き場なら比較的警戒が薄い……」　幹夫は唇を噛む。持ち出しが無理でも、山岸たちが自力で取りにくる方法があるかもしれない。けれどそれこそ露見しやすい行為だ。　（少なくとも、俺が積極的に動かなければいい……だが、万が一見つかれば、堀内さんや社長にも危険が及ぶし……）　思案を続けながら、幹夫は朝の準備に取り掛かった。軍拡の郵便物がどさりと積まれるのを背後に感じつつ、気が遠くなる重圧を噛みしめる。

第六章　決断の夜

　その日の仕事を終え、夜のとばりが降りる頃、幹夫は印刷所の裏通りへ回った。人通りは少なく、街灯の光はちらついている。　「もし……もし山岸や井上たちが、今も動いているなら、ここで俺がじっとしているだけじゃ駄目だ……」　幹夫は歩みを止め、周囲の様子を窺う。誰もいないのを確かめると、懐から取り出した紙きれに書いたメモを、廃材置き場の奥に貼り付けた。　そこには「廃材多シ、十分注意ノ上持チ出シ可」 とだけ書いてある。自分が能動的に紙を出すわけでもなく、ただ「廃材がある」という事実を示すだけ。それでも、この行為が当局に感づかれれば一巻の終わりだ。　（父さん、これが俺にできる精一杯の‘わずかな抵抗’なんだろうか……）

　手早く作業を終えた幹夫は、足音を殺してその場を離れた。胸がバクバクと高鳴り、警官に見られてはいないかと後ろを振り返りたい衝動に駆られるが、必死でこらえる。ここで振り向いたら終わりだ——そう自分に言い聞かせながら、夜の闇へと溶け込んでゆく。

エピローグ

　下宿に戻った幹夫の耳には、今夜も風鈴の音は届かない。風はあるのに、鈴はまるで意地になって沈黙しているかのようだ。　「井上や山岸は、俺のメモを見つけてくれるだろうか。見つけて、まだビラ活動を続けるのだろうか……」　不安と後ろめたさ、そしてどこかにある微かな期待が、幹夫の胸で渦を巻いていた。ひどく危うい橋を渡っている自覚があるのに、かつての井上の姿が頭をよぎるたびに「ここで止まってはいけない」と奮い立たせられる。　遠い夜空を見上げれば、重苦しい雲は相変わらず月を隠している。だが、それでも夜明けは必ず来るはずだ——そう信じなければ生きていけない激動の昭和。風鈴は鳴らずとも、幹夫の中で小さな鈴のような意志が鳴り響いているのを感じる。

　——（続くかもしれない）