緑走る台地 ～決断～

第一章　重苦しき静寂

　昭和八年（1933年）五月上旬、東京の空は初夏を思わせる光を宿しはじめる一方で、風は相変わらず乾ききった冷たさを含んでいた。　幹夫は下宿の風鈴を見つめ、昨夜のかすかな一鳴きを思い出す。あの微かな音が、心の底に残る「まだやれる」という決意を支えてくれる。　（今日こそ、堀内さんと最終の策を詰めなければ……）　そんな思いを胸に、彼は布団をきつく畳んでから外に出る。廊下を通り抜け、暖かくなった日差しを背にした幹夫は、いつもより足早に印刷所へと向かった。薄雲の切れ間から差す朝日が、反戦ビラを求める仲間たちや、遠い静岡で苦闘する父の姿へと一瞬心を走らせる。

第二章　最後の廃材

　印刷所へ着くと、社長は憂鬱な表情で書類を読みふけっていた。どうやら軍からの再追加が入り、ポスターや小冊子をさらに生産する必要が出たらしい。　「ああ、これでまた廃材が増えるが、管理強化の通達も近い。無駄に大きな紙を扱うと、どこかから疑いをかけられかねん……」　社長がぼやく声を聞きながら、幹夫は内心で震える。こんな状況下、山岸たちが廃材を持ち出すのは、ほぼ今回が最後の機会になるだろう。軍による紙の流通制限が実施されたら、端材の持ち出しなど到底できなくなる。　（ならば、きちんと手を打たねば……）　幹夫は黙って機械の準備を始めた。視線を向けると、奥のほうで堀内が廃材置き場を一瞥している。無言のうちに互いの思いを感じ取り、幹夫は小さく頷いた。

第三章　堀内の提案

　昼休み、廃材置き場の裏。隙を見て幹夫が顔を出すと、堀内が既に待っていた。　「軍の管理強化が本格施行される前に、一度だけ“大量に”廃材を処分することにした。名目は“在庫一掃”だ。社長には、『通達が来る前に端材をまとめて処分したい』と言って了解を得ている」　堀内は声を潜め、歯を食いしばるように続ける。　「実際にはその廃材の一部を、山岸たちに持ち出させる。次の軍検査がいつ来てもおかしくないが、今ならまだ少し時間が稼げるはずだ……」　「わかりました。これが最後……ですね」　幹夫の胸には、さまざまな感情が滲む。恐らく本当にこれで終わりだ。廃材を使ったビラ活動を手助けするのも、これが“最終”になるだろう。守れるものを守るために、限られた時間を使うしかない。

第四章　静岡からの急報

　夕刻、作業の合間に社長が息を切らせてやってきた。手には電報の紙が握られている。　「おい、幹夫。おまえ宛に電報だぞ……“父不調　すぐ連絡求ム”って……大丈夫か？」　幹夫は電報を受け取り、血の気が引くような感覚を覚える。父がついに倒れたのか、それとも飛行場建設のゴタゴタで身体を壊したか。　「静岡……。行かないといけないでしょうか……」　呟いた瞬間、堀内がそばに来て肩を支える。　「どうする？　いま帰省すれば、山岸たちへの最後の協力はどうなる。父さんの具合も心配だが……」　幹夫は唇を噛む。自分の判断一つで多くのものが左右される現実に、頭が混乱していく。もし父が重病なら今すぐ戻るべきだろう。しかし、ここで抜ければ印刷所に疑いが向きかねないし、山岸たちへの道も閉ざされるかもしれない。　（父さん……頼むから、まだ大丈夫でいてくれ……）

第五章　決別か、それとも

　夜になっても、幹夫は電報の内容が頭を離れない。下宿へ戻る途中、風の吹く暗い通りを歩きながら思い悩む。　（もし明日にも静岡へ向かわなければならないとなると、堀内さんとの“在庫一掃”計画も仕掛けられなくなる。山岸たちはどうする……？）　幹夫は自分の力不足を痛感する。父の危機に駆けつけたい気持ちと、東京で守るべき仲間への責任が衝突し、どうにも出口が見えない。　鼻を突く冷たい風が通り抜け、幹夫の髪を乱す。ひと晩考えても解決はしないかもしれないが、行動しないまま朝を迎えては、後悔だけが募りそうだった。

第六章　風鈴の決断

　下宿に到着し、木製の階段を上がる途中で、ふと“チリン……”と一瞬の鈴の音が響いた。　「あ……」　幹夫は思わず足を止め、心臓が跳ね上がるのを感じる。わずかな音だ。けれど確かに、風鈴が鳴った。まるで自分に行動を促す合図のように響く。　部屋に飛び込むと、窓はわずかに開いていて、そこから入り込む夜風が風鈴を揺らしている。　（父さんを救うためにも、ここで廃材を巡る最後の動きにも、自分が踏みとどまるしかないのか？）　その思いが胸を駆け巡るなか、幹夫は写真立てに手をやり、「父さん、すぐには行けないかもしれない。すまない……」と心の中で呟く。そして風鈴を見上げ、「もう少しだけ、俺に勇気をちょうだい」と静かに誓うのだった。

エピローグ

　夜の闇が深まるほど、幹夫の心には決意とも焦りともつかない感情がせめぎ合い、眠りを遠ざける。手元には父の電報が重々しく置かれている一方、山岸たちの最後のチャンスが迫っている。　「この選択は、もしかしたら二度と取り返しがつかないかもしれない。それでも俺は、まだここで戦うしかないんだ……」　窓辺の風鈴が、かすかな月明かりの下で微動をやめる。まるで「全てはおまえの決断次第だ」と見守るように。　幹夫は布団の上に座り込んだまま、遠い静岡の空と東京の暗い路地を同時に思い描く。明日が、どんな結末を運んでこようとも、その一歩を踏みしめるしか道はない。あの小さな音が再び鳴り響く日を、彼はただ信じ続けるほかはなかった。

　——（続くかもしれない）